雨が降る。
「雨、止まないね」
「うん」
机に伏せて、ぼんやりと窓の外を眺めている。放課後、人気の無くなった教室には、雨音と秒針が刻む音しか残っていない。
対面に立つのは同じ委員会の友人で、彼女もすぐに、ここを後にするようだった。
「高木君はさ、これからどうするの」
「どうするって」
「進路、聞いた事なかったから」
「進路」
「決めてない?」
「将来さ、上京したいんだ」
「なんで?」
「なんとなく」
「なんとなくかぁ」
「なりたいものとかはないんだけどさ、夢なんだ」
「そっか」
「うん」
「叶うといいね」
そういって荷物をまとめた彼女は、教室を出ていく。残された部屋で一人、机を人差し指でなぞる。意味は無い。なんとなく、そうしたい気分だった。
教室の左端の席。ガラス窓を雨粒が叩く。体が気だるい、パラパラとした雨音が心地よい。ゆっくりと、瞼が落ちる。
遠くでチャイムが聞こえた気がして、頭をもたげる。時計を見ても、下校時刻はまだ先だった。何事かと思えば多分、ちょうど足元の方から聞こえる、下階の音部の音だった。だいぶ、寝ぼけていたらしい。
腫れた目を擦る。ところどころ、髪が跳ねているようだった。湿気が酷いせいだろう。脳を掠めるような頭痛も、低気圧が原因に思える。
眠気のせいで忘れていたが、そういえば、用事が残っていたことを思い出せる。カバンを手にして、教室を去る。
学校の廊下は静まっていた。先の音部のように、まだ部活動がある時間帯なのに、いつもよりやけに静かに思える。
外からは灰色の光が射し込んで、照明を落とした廊下や階段の踊り場はいっそう薄暗い。
別棟へと伸びる渡り廊下の辺りで、ちょうど、窓の外を眺めていた。玄関の軒先から出てくる、二つの人影が見える。
ちょうど先に話していた友人が、見知らぬ男子生徒と、仲良さそうに笑いあっている。とても仲が良さそうに見えて、なんだか覗き見のようで申し訳なく思えた。
そそくさとその場を離れようとすれば、ちょうど対岸の方から、これまた知らない女生徒が一人こちらを睨んでいるようだった。
いたたまれなくなって、早足にその場を退いた。
職員室前に立つ、人の出入りがずいぶん多い。
少し順番待ちをしてノックをかければ、用事を伝えるより先に、中に入るよう促される。
職員室の中では、いつもよりも、教師陣が慌ただしくあちらそちらに行き交いをしている。中の一人、周りに比べれば余裕がありそうな、若い先生が近くへ寄るように手招きをする。担任だった。
「いや悪いな、皆忙しくてな」
「あぁ、いや」
「どの先生に用事だ」
「いえ、先生に」
「俺か、どうした?」
「あの、現文なんですけど、勉強の為の資料が欲しくて」
「なら国語科の先生にだな」
「当たってみたんですけど、それとは別に、受験勉強なら担任にも相談かけとけって」
「進路とか考えた上でってことか」
「はい」
「先生理系だからな、正直あんま助けてやれないかもな」
「まぁ、ですよね」
「高木は委員会何やってるんだっけか」
「選挙管理です」
「図書室とか行くか?」
「たまに」
「最近は」
「あんまです」
「なら知らないかもな」
首を傾げると、担任は引き出しからメモ帳を取り出す。一枚を破って用紙にペンを走らせると、それをこちらに手渡してくる。
「これは」
「図書室に最近、ちょっと白髪混じりの、若い男の人が居るの知ってるか」
「いや、初めて聞きました」
「ほら、年始めの震災でさ、結構体育館に人残ってたりするだろ」
「はい」
「その一人でさ、大学の教授やってるんだよ」
「教授、ですか」
「そうそう、文学科の人だからさ、でそのメモ渡しといてほしいんだ」
「これですか」
「おう、使いみたいになっちゃって悪いけど、それで門前払いはないと思うから、頼ってみたらどうだ」
「ありがとうございます、尋ねてみます」
「メモの方も、頼んだな」
「はい」
「よし」
「失礼しました」
「あぁ、帰りも気を付けろよ」
図書室へと足を向ける。背の方の職員室からはまだ、ドタバタとした足音や、電話の子機のコール音なんかがずっと、鳴り止まない様子だった。
階段を下る。玄関前、下校の準備をする生徒もちらほら見かける。軒先で立ち往生をしている子もいて、きっと、傘を忘れたのだろうと思えた。
玄関を横切った先に伸びる、長い廊下。途中にある地下に向かう階段。階段の下は踊り場になっているが、真っ暗で先が見えない。電気はついていないようだった。
手すりを伝って階段を下る。踊り場にたつと、ちょうど足元にある小窓の方から、空気のくぐもったような音が聞こえる。
小窓を覗くと、隣に立つ建物と校舎の隙間に、一匹のカエルが佇んでいる。遠くをじっと見つめているようで、何か、決心を固めているようにも見えた。
踊り場を曲がった先、少し広い空間と、光の漏れる磨りガラスと木枠の扉。取っ手に手をかけると、ずいぶんひんやりとしていて、扉も重い。ぐっと力を込めて手前に引いて、ようやく図書室の扉は開いた。
図書室。横幅は広くないが、奥に伸びた縦長の構造。おかげで、他校に比べると広い方に思える。他の教室と違って、フローリングから壁の質感も木組みになっている。机や椅子もそうだ。
カウンターには人が常駐していて、今日は眼鏡をかけた女生徒だった。
棚にはたくさんの本が並べられているが、少し独特なのは、クリアファイルに挟まれた紙の資料なども収められている。
受付に会釈だけして、図書室の奥に進む。
入口からはそれらしい人影は見当たらなくて、どころか人が一人も居ない。奥に進めば進むほど本棚のレイアウト、構造が複雑化して、ようやくそこを抜けると、広い机のある空間にぶつかる。
腰を据えて読書や勉強をする空間で、ただ、そこにもやっぱり人の姿はなかった。
一度踵を返して、受付に向かう。カウンターの女生徒は両手で本を開いて、頭を垂らしている。ずいぶん熱心に思えて、声をかけるのが悪く思えた。
影から機を伺っていると、ひと段落ついたのか、一つ息をついて本を閉じる。そこで、こちらにも気づいたようだった。
「どうしました?」
「ああ、すみません」
「いえ、こちらこそ」
「人を尋ねてきたんですけど」
「人、ですか?」
「はい、最近図書室に、大学教授の方が居ると聞いて」
「あぁ、河上さんですね」
「ただ、見当たらなくて」
「たぶん二階の資料室だと思います、待っていれば、そのうち来ると思いますよ」
「そうですか、すみません、ありがとうございます」
「いえ」
受付の人はにこりと笑う。何か、嬉しそうにも見えた。よく見れば、胸の辺りに名札がピン留めされている。橋本、と書いてあった。
机のある方に戻っても、することもなく、本棚を物色する。手にとった本は分厚い装丁で、緑色の単色に黄色で一軒家のイラストが印刷された、一冊の漫画だった。『かえるくん、東京を救う』。
頬杖をついてページをペラペラ読み進めると、壁掛けの時計からする、かっちかっちという音がやけに気になる。煩わしい、とは思わないが、いつもより大きく聞こえる気がする。
ページにして、半分程が過ぎた頃だっただろうか。折り返しというところに来て、図書室の入口の方から、ぎいと扉の軋む音が聞こえる。
コツコツとした足音は硬い印象を与える、上履きのものじゃない。もっと、高い革靴とか、そういうものだろう。
背の高い本棚の奥から、ぬっと現れたのは、ボサボサの髪と長いコートをした、猫背の男だった。
酷いクマだ。顔に走るシワの数も凄い、ただ白髪混じりで、とても若くは見えなかったが、先生が言うのはこの人だと気付ける。
「やぁ」
声をかける前に、向こうから反応がある。
「どうも」
「川村の言ってたのは、君だろ?」
担任の名前だ。
「はい、知ってたんですか?」
「ここに来る前職員室に寄ってね、受験勉強だって」
「はい、あぁ、そうだ」
ポケットまさぐろうとして、止められる。
「あぁ、メモはいらないよ、直接聞いたからね」
「そうだったんですね」
「君、名前は」
「高木です」
「高木君、僕は河上だ。君の担任と同じカワだが、漢字が違う」
「はぁ」
「手伝って欲しいことがある」
河上はそういうと、図書室の奥に向かう。部屋の隅、一角には、本棚が置かれていない場所がある。
そこには、ちょうど入口と同じデザインの、鍵がかかった扉があった。
ポケットから鍵束を取り出すと、うち一つを挿して扉を開く。ずいぶん古い鍵に見えたが、なぜ河上が図書室の扉の鍵を持っているのかは分からなかった。
部屋の中から出てきた河上は、埃をかぶった木箱を取り出してきた。ちょうど腹の辺りに抱えるくらいの、大きな箱だった。
「これを上まで運ぶ」
「上?」
「二階の資料室だよ、私も先まで、そこにいた」
「これは」
「あぁ、古い本が詰まってるんだよ」
抱えた木箱を手渡すと、河上はそそくさと図書室をあとにする。図書室を出る時、行きと同じように受付に会釈をしたが、また今度は、読書に熱中しているようだった。会釈は返ってこない。
「それにしても、今日はジメジメするな」
長い階段を登る途中、河上が言った。
間に渡り廊下を挟んで、また、階段を上る。教室棟の二階の一番奥の角部屋。そこに、資料室と掲げられた部屋があった。
扉はやっぱり、図書室と似たような木組みとガラスの扉だったが、こちらの方がずいぶん古く感じる。ささくれだって、ニスはボロボロだった。河上が鍵を捻ると、扉は大袈裟な音を立てる。作りも古いのだろう。
扉を開くと、そこは狭い部屋だった。
金属製のラックが等間隔に敷き詰められた、正方形の作り。背が高いラックが所狭しと並べられていて、圧迫感が凄い。実際に歩ける部分よりもずっと、狭苦しく思える。
部屋の端には机があって、その周りだけは空間がある。が、机の周りには床に紙束が積まれていて、足の踏み場はない。
電気が着いていないが、窓が大きく、外から漏れてくる光で十分室内は明るかった。
「これはどこに」
「あぁ、そこに置き場があるだろう」
ラックの一つに、スペースが取られている。河上は机に腰掛けると、片足を組んでこちらを睨んでいた。鋭い視線、だったと思う。
木箱を収めると、河上は口を開いた。
「バケットホイールエクスカベーター」
「は?」
「世界最大の自走機械さ、露天採掘に用いられる」
「はぁ」
「世界を変えた、兵器の名前さ」
「兵器?」
「兵器というのは物々しかったな、道具に過ぎなかった」
河上の言葉は、支離滅裂に思えた。ロジックは、まるでない。
「私は小説家だった。筆を取ればいつでも、世界創造をすることができた。幼い頃からだ」
「大学教授では?」
「文学科の、な。君は、世界を変える方法を知っているか?」
「いえ、知りません」
「私もだ。世界創造ができても、私に世界を変える力はなかった」
「何の話です?」
「まぁ聞けよ」
諭すような言い回しだった。バカにされている気分で、あまり気持ちよくなかったが、不思議と引き込まれる口調だったと思う。
イントネーションとか、抑揚の付け方が、詐欺師みたいにオシャレだった。
「これを」
「何です、これ」
「受験勉強なんだろ?」
「えぇ、まぁ」
「お守りみたいなものさ」
ラミネートされた長方形の厚紙には、紫陽花が押されている。しおり、に見えた。
「あの、それで、教えてもらえるんです?」
「いいや?」
おちょくっているようにしか、思えなかった。
「現文なんて、教える事はないさ」
「じゃあ、なんなんです?」
「そこに紙束があるだろう」
河上は床に積まれた原稿用紙を拾い上げると、いくつかの紙束を精査して、「これだ」と寄越してくる。
「新作でね」
「はぁ」
「自伝にも近い、もちろんフィクションだが」
「小説、ですか」
「そうだ、出版の予定はない」
「どうしろと?」
「教材だよ、それを読んで感想を聞かせてくれ」
「これが?」
「もちろん」
河上は深く頷いた、満足そうだった。原稿用紙を覗くと、タイトルがある。著者名はない。『スカイフォール』。
「もう少し、下から資料を取ってこよう」
「手伝いますか?」
「いや、君はそれを読んでいろ」
気は進まないが、断る前に、河上は部屋から出る。忙しない人だ、と思った。ぺらぺらと原稿をめくると、紙束は全て、丸々同じ小説が綴られていた。何枚あるかは分からないが、分厚い紙束だけでも、最後まで書かれていない。
書き出しはこうだ、『その日、空から空が落ちてきた』。スカイフォール。
そうだ、覚えがある。空は、空から落ちてくるものだった。中学生最後の梅雨、その末の事だった。
窓が震える。立て付けが悪いのか、外の木は風に吹かれて大きくしなり、雨風が激しさを増す。資料室の窓から見える外の景色は、ちょうど、校舎裏の花壇に繋がっていた。
ゴミ捨て場や保健室の勝手口なんかが並ぶ、学校の裏手。塀の周りには常緑樹が植えられていて、降りしきる雨をいっぱいに受けている。
木々の下、花壇の後ろに並ぶ石畳の上。そこに、真っ赤な傘が転がっていた。開いたまま置かれている、持ち手と生地と、露先まで真っ赤な傘だった。
手元の原稿用紙に視線を落とす。それからはなぜか、すらすらと、話を読み進めることができた。
小説の主人公は、カルト宗教の教祖だった。子供の頃から裏社会に繋がりがある説明がされて、ただ、そんな環境に不満を抱く描写がある。
それでもカルトをする理由は、意図的に伏せられている。
原稿用紙の7枚目、一人女性のキャラクターが出てきた辺りで、部屋の扉が開いた。
「どうかな」
「何の意味があるのか、いまいち」
「感想は?」
「面白いです」
「それだけかい?」
「まだ初めの方なので」
「ふむ、そうか」
片眉をあげる仕草が、外国人らしい。もっとも、河上が日本人なのかそうじゃないのかは、知る由もない。
「さっき、世界を変える方法を知っているかと、君に聞いたな」
「えぇ」
「その話は、それがテーマなんだ」
「テーマ?」
「変革だよ」
「はぁ、だからカルト宗教?」
「いいや」
河上は首を横に振ったが、それ以上、何も言わなかった。わざと伏せているようだった。
「そうだ、残念だが、持ち帰ってもらうことはできなくてね」
「あぁ、そうなんですね」
「そうだ、続きもある。読みたかったら放課後にでも来るといい、いい勉強になる」
学びになるかは分からないが、河上が書く文は引き込まれるものがあった。続きを読みたいと思わせる説得力だった。持ち帰る気は初めからなかったが、次も来よう、そう思えた。
学校のチャイムがなる。穏やかな曲と教師の声で、最終下校時刻が訪れる。
「そら、学生は帰る時間だ」
「あ、ありがとうございました、一応」
「あぁ、また明日」
明日、あるのかは分からないが、河上はあると思っているみたいだった。頭を下げてから、資料室をあとにする。
感想としては、変人と話した、それしかなかった。首を傾げて教室に戻り、忘れ物が無いか確認してから、正面口に向かう。
玄関についたところで、軒先の方から、バサッと大きな音がした。傘を開く音だ。
視線をやると、さっきまで立ち往生していた生徒が傘を開いている。校舎裏にあった、真っ赤な傘だ。あれ、と思ったところで、その生徒が振り返る。視線がバシッとぶつかる。
その子は、青い目をしていた。不思議な色だった。深い海や、青空によく似た。身長は低いが、肩幅から男だと分かる。喉仏も浮かんでいる。
気まずそうに顔を逸らすと、その子はすぐに軒先を出ていく。赤い傘と、真っ青の瞳が、対照的に感じた。
外ではまだ、雨が止まない様子だった。昼頃に比べればずいぶん優しくなったが、一向に止む気配はない。
折り畳み傘を開いて、軒先に出る。そこで、どこかから視線を感じた、ような気がした。
もちろん、辺りを見回しても誰もいないし、何もない。不審に思っていると、草むらからがさりと音がする。向き直ると、猫が何かを咥えて首を覗かせていた。
影のせいでよく分からないが真っ黒で、ネズミの死体にも見えた。猫はブチ、だったと思う。
顔をしかめると、猫はすぐに草むらに埋まってその場から居なくなる。
嫌なものを見た、と思って、ため息をつきながら校庭を抜ける。正門をくぐる時に、後ろから、大きなバスドラムの音が聞こえた。
帰り道、いつもより霧が深い気がする。オフィス街を抜ける時なんかは、辺りのガラスに曇り空が反射して、一面灰色に見えたほどだ。
道中の公園で、雨合羽を被った子供を見かけた。雨の中なのに、長靴を泥んこにして駆けずり回っている。黄色いレインコートで、よく目立って見えた。
ベンチに座っているのは、母親だろうか。疲れた顔をしているが、穏やかに笑っている。
住宅街とビル街を何重にも抜けた先に、大きな踏切があった。踏切を越えた少し先には長い坂があって、坂の左右には背の高いビルが並んでいる。
雨は少しづつ、止みはじめていた。なのに、霧は濃くなる一方だった。ポケットに入れたスマホが震える。妹からだった。
当たり障りのない返事をしても、返事はすぐに来ない。既読もつかない。霧が濃くなる、強い風が吹いて、街路樹の幹が勢いよくしなる。
理由はなかった。何の気なしに、坂道を振り返るように、後ろを向いた。
眼下には、これまで乗り越えてきた、縦断してきた街がいくつも並んでいた。ミルフィーユ状に折り重なって、綺麗だ。
地平線の方には、大きな川が見えた。町のシンボルでもあった。おかしかったのは、その奥だった。
霧と霞の向こう、分厚い雲に阻まれて、シルエットしか見えない。それでも、見えた。
左右に長く伸びた、トラス構造の大きな機械だ。長いアームの先端に巨大なホイールが付いていて、それが凄い勢いで回っている。足元には無限軌道、のようなものが見えるが、動いていない。反対側は、カウンターウエイトだろうか。
とにかく刃先の回転が凄くて、それだけで息を飲みそうなほど圧があった。
近くでピシ、と嫌な音がする。横のビルのガラスが一枚、ヒビが入っている。今付いたものなのか、そこに元からあったのか、分からない。
遠くから見ているだけなのに、分かる。回転は勢いを増す。急に雨風が強くなる。風がごうと吹いて傘を吹き飛ばそうとする。雨粒が肌にぶつかる度に、痛いくらいだった。
両腕で必死になって顔を覆っても、視線はその大きな機械に釘付けだった。
軸受から火花が散って、回転の音がやっと、こちらに聞こえるほど大きくなった頃。まばたきをする。一瞬だった。その隙を盗んで、遠くに、蜃気楼のように浮かんでいた機械は、跡形もなく消えてしまった。
煙が上がる、消えた機械のものだろうか。遠くの煙がもくもくと上がる先に、雲の切れ間が見えた。
光が差した。眩しい光だった。また風が強くなって、ただ、さっきの恐ろしい強風よりもずっと優しかった。
風が雨雲を運んでいく。分厚い雲の向こうから、青空が見える。ぽっかりと空いた穴が、水溜まりのように思えた。
ぱたりと雨は止んでいた。差し込む光がいくつにも増えて、下ろした傘の先端から、雨粒の雫が垂れる。
曇り空は相変わらずだったが、少しづつ、晴れていく予感がした。
空に空いた穴、空に空いた
目を閉じれば遠くに、甲高い轟音が聞こえる。
バケットホイールエクスカベーター。世界を変えた兵器の名前。思い出すのは、年始の震災。地面が揺れて、吠えていた。
首を差し出したぶち猫は、チェシャ猫を思い出した。
中学生、最後の梅雨、その末のことを思い出す。
空から空が落ちてきたあの日も、ちょうど今日のような曇天だった。空からした爆音、飛び散った破片、雨が降っていたのに、花火が上がるみたいだった。
ふと、車が真横を、凄いスピードで過ぎていく。切り裂いた風を受けてハッとして、思わず両目を見開いてしまう。
坂から見下げる街並みに、いくつもヤコブの梯子がかかっている。いくつもの光の筋は、ふりしきる雨によく似ている。
傘を差す必要は、もうなかった。折り畳み傘をその場で畳んで、手首にぶら下げる。振り向いて坂道を上り始める。
踏みしめた一歩で、ガードレールの足元に広がった、浅い水たまりを跳ね上げた。