「モタモタするな!隅々まで綺麗にしろ!」
看守の怒号が廊下の向こう側で響く中, 俺は両手でモップを構え, 灰色の床に集まったゴミを払い除けていた。
今日の作業内容は「掃除」。通常, 作業は作業場で行うのだが, 一定期間のうち1日は囚人総がかりで収容所内の大掃除が行われる。今日がその日だ。
日頃の監視が比較的雑な看守らだが, 作業時間となるとハゲタカの如く目を光らせ, 一瞬の弛みも許さぬように囚人らを見張る。
そんな看守らを刺激しないよう, 両手でモップを握って動き回る。こんなボロいモップ程度じゃ床にこびり付いた汚れなんて取れないが, 真面目に働いているような素振りを見せていれば基本的に看守に何も言われないので, そのまま腕を動かした。
ー意外と知らない箇所にカメラが隠されているし, 一見手薄そうに見える通路にも看守が立っている。抜かりないな…
脱出のことを常に考える。唯一の情報源である視覚をフル活用して, こうして何百回と通った廊下も注意深く観察する。作業の途中ではあるものの, 比較的自由に動ける掃除の日で良かったと思う。昨日の時点では見えなかったディテールがますます浮き彫りになっていく。
改めて思う。この収容所, 見た目の古さには似つかわしくない堅固なセキュリティが敷かれている。看守の多さはもちろん, 扉の電子ロック, そして随所に設置されているモーションセンサー付きのカメラ。これらを掻い潜るのは至難の技だし, 突破口が全くもって思いつかない。
ー焦るな。時間はたっぷりある。
じっくり考えて穴を見つけ, 着実に計画を立てていくしかないだろう。
そう自分に言い聞かせながら作業に打ち込みつつ, 虎視眈々と周囲を窺う。
モップを持ち上げ, 別の箇所を拭こうとバケツを拾った時だった。
「おい, 910番」
振り向くと, 看守が俺の方に立ち寄っていた。直ちに前屈みになっていた姿勢を正して直立し, モップが身体と平行になるように立てる。
「何でございますか」
看守が次に口にした言葉は, 驚くべき内容だった。
「所長がお呼びだ。掃除用具を戻してこい」
「今, でございますか」
戸惑う。作業時間中に呼び出しがかかるというのは意外だーまぁ, 呼び出しなんて基本的になかったのだが。あるとすれば, 自由時間の時間帯に呼ばれると思うが。
何かやらかしたか?と一瞬不安になるが, 所長という言葉を聞いて, 一昨日の出来事を思い起こす。
ーあの気味の悪い仮面男か。また何の用だ?
「ああ, 今だ。早くしろ」
我に返る。どうしても今らしい。どうも釈然としない話だが, とりあえず命令だから従っておく他ない。
「はい, わかりました」
バケツとモップを拾って廊下の反対側の掃除用具置きに早足で向かい, それらを置いて看守の下に戻った。
「戻りました」
「付いて来い」
看守の後ろを歩く様を掃除を懸命に続けている他の囚人たちが一瞥する。その中にはライノもいて, 俺のことを見ると目を細めた。そんな囚人達の視線を浴びながら廊下を過ぎる。階段前の鉄格子付きの扉を看守がカードキーを用いてオートロックを解錠し, そのまま昇る。
階段を抜けると, やがて一つのドアの前にたどり着いた。「所長室」という表示が目立つ。看守はノックせず, そのまま扉を開いて入れと合図する。
部屋の正面には長方形の机, その中央には後ろ向きになっていた椅子が見えた。周囲を見ると, 木製のクローゼットと本棚は一つあるだけで, その他の家具や置き物の類は一切ない。所長室にしては些か寂しい印象だ。
「来たね。待っていたよ」
椅子が回ると, そこには見覚えのある, フードを被った仮面姿の男ーAがいた。以前会った時と全く同じ, 不気味な臨場感を醸し出している。Aは両腕を机の上に置き, 少し前屈みになった。
「看守。二人にしてくれないかな」
「はっ」
看守は軽く礼をし, そのまま扉を開けて外に出た。
ーこいつ。一昨日の件といい…今度は何の用だ。
不信感を抱きつつも, 俺は無表情を保つ。やがて, Aは口を開いた。
「910番。どうだい?ここの生活は」
「特に不満はありません」
漠然とした質問にどう答えればいいか一瞬迷ったが, とりあえず無難な言葉を返しておいた。Aは頷いて続ける。
「そうかい。まぁ,本題に入ろう。早い話, 上からの命令が今日届いてね。君を別の施設に移送することが決定した」
移送…?
唐突すぎる報せに面食らった。
「どのような理由でございますか」
「上からの命令, 僕には知り得ないよ。移送は今日の夜…就寝前だね。その時になったら看守を向かわせるから, それまでに荷物を纏めて準備しておくことだ」
以前と相変わらず, 無関心でモノトーンな声だ。まぁ, 事務的な感じなのは所長らしいと言ったところか。
「知り得ない, ですか」
「ん?」
つい言葉が漏れてしまったが, 修正しない。そのまま尋ねる。
「その方が『色々と良い』, と?」
以前, 自分に向けられた意味深な言葉をそっくりそのまま返す。
上の立場への言葉遣いは正しくなければならないのがルールだが…うるさく咎める看守もいない。
Aはしばらく無言で俺のことを眺めていると咳払いをし, 机の上から腕を話して椅子に寄り掛かった。手すりの上で指をトン, トンと数回動かしてため息を吐く。
「余計な詮索はしない方が身のためだよ?910番。立場を忘れてはいないだろうね」
中立的だった空気が一気に冷めていく。仮面の裏で冷めた表情を浮かべているのが想像できるような冷淡な口調だ。唾を飲むと同時に, 疑っていたことを確信した。囚人への情報を制限するのは普通のことだが, ここ数日間の出来事は異常でしかない。不自然なレベルで隠し事が多すぎる。
それに, 気のせいか, 移送されるという事実に対して嫌な予感しかない。全く見当のつかない場所に移送され, 今よりも脱出不可能な場所だったらどうする。否ーその可能性しか感じない。全く根拠のない話だが, そうとしか思えない。
だが, 所長の判断は絶対。受け入れるしかないだろう。
腰掛けるAの姿の背後に大きな黒い影が掛かっているようにも見えた。
「…わかりました」
俺が答えると, Aは椅子に寄り掛かった。
「そう。じゃあ, もう戻っていいよ。それまで君には部屋で自由にしてもらって結構」
そう言うとAは指をパッチンと鳴らし, 同時に後ろのドアから看守が入ってきて俺に出ろと指示した。
部屋を出る直前, 首を後ろに返らせると既にAは椅子を後方の壁に向けていた。
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狭い独居房。ロッカーから数少ない私物ー靴下, 洗面用具などを包の中に入れ終わり, ベッドの上に座り込んでいた。
戻ってからどれくらいの時間が経ったかは知らないが, かなり経っているはずだ。体感時間ではそろそろ夕食か。時間を知ることができないのは本当に不便だ。
部屋に隔離された以上, ライノと会話することも叶わない。彼には色々と世話になったので, せめて別れの言葉の一つ二つくらいかけてやりたかったが。
脱出するために思考を巡らしたのも, 結局徒労に終わってしまうか。まぁ, 考え始めたのも数日前だし, 大したプランがあったわけでもない。実際にやり遂げられたかというと, 蓋し無理だろう。
それでも, 腑に落ちないことばかりだ。いきなり所長と決闘することになり, その後ーこうして移送ということになるのは。俺は所長に何を確信させたのか, それとも何を伝えてしまったのか。いくら考えても答えは浮かばない。
右手にはいつもの如くデッキを握っている。幸いなことに所持品はそのまま持っていって良いということらしいので, デッキを手放さずに持っていけるのは良いことだろう。しかし, 不思議だ。禁止されている物が多い収容所生活の中で, どうして囚人はこれらのカードを持つことを許可されているのだろうか。外の世界ではそれほどに浸透している遊戯なのだろうか。
そういえば, カードを眺めていると思い出す。
昨日味わった初めての敗北。
あの女性。確か…666番と言ったか。アレに関しても腑に落ちないことがまだあった, 俺は忘れていない。誰も知り得ない所長との決闘について彼女が知っていたことを。それも単なる噂話として知っていたのではなく, 事実として確かに知っているような口ぶりだった。
ひょっとすれば, 今回の件に関係しているのか?全くつながりが見出せないが, 彼女の存在は異質で理解し難い。男性の囚人の中で, あんな美麗な女性がいればすぐに気付くはず。それなのに, なぜ囚人の誰もが彼女を知らなかったのか。なぜ看守らも無反応だったのか。
まぁ, いい。今更考えても仕方のないことだ。それよりも…次の移動先のことを考えないと。
ふとしてブザー音が鳴り響く。この音は食事の時間を知らせる音だが, 他の囚人達は作業中のはずだ。帰ってきた頃には掃除が終わっていたから, 次の作業場に移ったのか廊下には囚人が一人もいなかった。その場合でも食堂に行くことになるのだろうか。まぁ, 準備しておくに越したことはない。ここの食堂での最後の食事になるかもしれないからな。
服の袖を捲り上げて立ち, 扉に向かおうとした時だった。
唐突な騒音。防音性の重い扉越しに響く, 雄々しい掛け声。
何事かと思い, 扉の小さな視察口から外を覗く。左側から大勢の看守達が何やら焦っているかのような形相で走っていくのが見えた。片手には警棒を構えている。看守が警棒を出す時は一つしかない。「囚人を罰する時」だ。
しかし, 何かが不自然だ。一人ならまだしも, 見える範囲のすべての看守が警棒を構えている。まるで何か…争いに備えるかのように。走り去っていく看守の数はざっと見て20人以上だった。
すぐに右側から轟音が聞こえてきた。大勢の人間が廊下を走る鼓動。視線をそっちに移すと, 叫び声や鈍い音が微かに聞こえてきた。それと同時に看守らが警棒を振り上げるような動作をして右に走っていく。よく見えないが, 騒ぎの実態はすぐに分かった。
ー暴動か。
何の前触れもなかった。普通, こういうものは入念に計画されてから行われるものだと思ったのだが。日頃見ていても, 囚人らでコソコソ話し合っていた場面は思い出せない。
最近, 囚人の癪に障るようなことでもあったか?看守の横暴に愛想を尽かせたとか?
そんなつまらぬことを考えるや間もなく, 視界の外で始まっていたであろう乱闘の景色が目の前にも写り始めた。
素手で殴りかかる者もいれば, どこから手に入れたのか。レンチやモップ, さらには空のバケツや奪い取った警棒を持って看守らに襲いかかる者もいる。繰り広げられている白兵戦は見るも痛々しい光景だった。徐々に看守らが後退していき, 橙色の服を纏った男達が雪崩れかかるように前進していく。
そうして眺めていると,通りかかった一人の囚人が俺の方を見た。見覚えのない男だ。彼は俺の存在に気付くと,何かを言っているかのように口を動かし, 扉を叩いたり, こじ開けようとして揺さぶる。扉はびくとも動かない。すると彼は, 横を向いて誰かを呼ぶように叫んだ。しばし待てば, 見覚えのある顔が眼前に写った。
「ライノ…!」
大男は不敵な笑みを浮かべると, 何か扉に操作をした。カチッ, という音とともに扉が一気に軽くなって開いた。鈍かった騒音がワッと大きくなり, その勢いに驚かされて一瞬片耳を塞ぐ。
「よぉ!どこにいるかと思ったぜ」
ライノが部屋に片足を突っ込む。右手には看守から奪い取ったであろうカードキー, 左腕にはデュエルディスクを構えていた。そんな精密機械を武器にしていたのかと思ったが, 違うらしい。
「これはどういう状況だ, ライノ」
「んぁ?見ての通りだ。毎日ゴミみてぇに扱われてキレねぇ奴がいるか?」
それはそうだが。あまりにも急すぎて。
「そうだった。お前にこれをやる」
そう言うとライノは左腕のディスクを外し, カードキーと一緒に投げ渡してきた。
ー今までの決闘で, ずっとライノから借りてきたディスク。至る処に傷があり, 灰色の塗装が剥がれかかっている。
ライノの唐突な行動に戸惑いながら彼を見上げる。
「な, 何を…」
「お前に必要なモンだ。くれてやる」
「でも, これはお前の」
「そうだな」
一瞬聞き間違えたと思ったが, 彼ははっきりと言い放った。毎日のように囚人同士の決闘大会を開いていた張本人が, 必要ないなどと。俺は小笑いする。
「頭でも打ったか?看守を殴り倒すんなら, 協力するがー」
「バカヤロウ。何のためにキーを渡したと思ってる?」
「え?」
見ればライノの表情が一変, 今まで見たこともないような真剣な顔つきになっている。こんな真顔で, 俺に訴えかけるかのような目をしたライノを俺は初めて見た。日頃は威圧感のある顔つきか, 笑う時の顔しかしない彼で, 真面目な話なんて一度たりもしたことがなかった。
「そいつがありゃ, 全ての通路が使える。手っ取り早いのはー」
「ちょ, 待て」
「ー食堂の方だ。連中は騒ぎのお陰でここに集まっているはずだ。職員用エレベーターを使って下に降りろ」
「待てって言ったー」
言いかける途中で悟る。この状況が自分のとって何を意味しているか。
最高の好機。奇跡, とも言っていい。
それをもたらしたのが他でもない, この囹圉においてほぼ唯一の「友」と呼べる存在。
「なぜ, 俺を逃す?」
ライノに訊くと, 彼の返答にまたもや驚かされる。
「お前はこんな所で腐ってるべきじゃねえ。そう思っただけだ」
「お前は行かないのか」
「俺ぁ, いい。行くアテがねぇからな。それにお前みたいに賢くねェし, 数日で捕まるのが関の山よ」
「......」
床に置いていた包を拾って背負う。ライノは再び満面の笑みを見せると, 俺の肩にポンと手を載せる。嬉しいような, 悲しいような。
「この恩は忘れない。元気でな」
「おうよ! 記憶, 戻るといいな」
頷く。そうして独居房から出ると, 無数の囚人達が物凄い剣幕で走り去っていく。衝突しないように壁に身を寄せるが, ライノはいつもの威圧的な体勢を見せつけ, 同胞たちを鼓舞する。
「おめぇら!どんどん行け!奴らを叩きのめせ!」
そして俺に振り向き, 背中を強く押す。
「走れ, 910番!捕まるんじゃねえぞ」
力強く押され, 身体が前に進む。危うく転びかけるが, すぐに身体を立て直して走り始める。正面から疾走してくる囚人らを避けながら, ひたすら前, 前に進む。
廊下の端にたどり着き, 食堂に続く階段のゲートを開いた時に振り返った時には, ライノの図体は人混みに埋もれて見えなくなっていた。