冥神
目覚めた。
空気が暖かい。霞んだ視界が段々鮮明になっていく。微かに聞こえるガッタン, ゴットンというリズミカルな音と共に, 身体が上下に揺れる。
座ったまま寝ていたらしい。自分が寄り掛かっていた椅子を見ると, それは赤い生地で作られた, 座り心地の良い柔らかい椅子だった。
正面には白いテーブルで隔られ, 全く同じ椅子がもう1組こちらを向いて置かれている。左側に視線を移すと, 自動ドアのような扉が見えた。右側を見ると, 何か仕切りのようなものが掛けられている。俺はゆっくりと腕を取手に伸ばして押し上げた。
「これは…」
何も見えない暗闇の中を, 外灯の光が走っていく。無数の白い粉が斜めに吹き荒れていく中, 曇った窓は冷たい。暗闇の窓は, 同時に室内の光景も写す。
外を眺める自分の顔がはっきりと見えた━ひどく疲れている顔だ。髪は乱れ, 目元の隈が目立つ。思えば, あの収容所で安心して寝られた日なんてあったのだろうか。感覚が麻痺して, 蓄積していた疲労や心労を感じ取る余裕なんてなかったのかもしれない。
「む。服が…変わっている」
窓に反射した自分を見て気付いた, もう一つのこと。纏っていた服装が, 明るい橙色の囚人服でなくなっていたことだ。今の俺が着ているのは黒いジャケットに, 紺色のジーンズ。ご丁寧にも腰にベルトまで巻いてある。足元に視線を移すと, 両足に灰色のスニーカーが装着されていた。
いつの間に, 誰が?と思ったが, 考えるまでもなく明らかだった。
「あら, 起きたのね」
自動ドアが開いた音と共に声がして, 俺は振り返る。部屋に一人の女性が入る。見覚えのある人影だった。
彼女━囚人666番は, 全く思いもよらない服装で現れた。
裾の長い漆黒のドレス。額のカチューシャのような髪飾りは, 両側から垂れる黄色の布が目立つ。俺は息を呑んだ。その整った顔立ちと全く不釣り合いな囚人服を纏っていた時も「美しい」と思ったが━このような姿を見ると, 品格が一層強く感じられる。
強いて言えば。高貴な麗人, のような印象を受けた。これが彼女の本来の姿なのだろうか。
「よく眠れた?」
666番は向かい側の席に座り, 両手を膝の上に置く。相変わらず彼女は不思議な笑みを浮かべている。得体の知れない, 何を伝えようとしているのか全く分からない笑みだ。
「ここは, どこだ」
「深夜特急…って言っても分からないかしら。乗ってから5時間は経ってるわ」
「どこに向かっている」
「貴方を狙う者達から, 遠く離れた場所。まぁ, この時点で十分離れていると思うのだけど」
俺を狙う者, か。収容所での最後の瞬間を思い返す。おそらく, あの所長━Aのことだろうか。彼以外にも俺に関心のある人物は他にも居そうな言い草だが。実際, Aも上からの命令を受けていたようなことを言っていたのも漠然と記憶している。
『━彼を外に出せば, 全てが━』
脱出する寸前, Aの放った言葉。俺ははっきりと覚えている。
やはり, 俺の記憶を消去し, あの収容所に閉じ込めておくことには何らかの意図があったに違いない。しかし何もかもがさっぱりだ。「全て」とは?
疑問が山積みだ。666番なら知っているのだろうか。
何せ, 彼女が収容所を訪れたのも俺が目的だったのは明らかだ。
「貴方, 色々と考えているような難しい顔付きだけど。聞きたいことが沢山あるんでしょう?」
666番は眉を上げる。
「まあ, 先に私が色々喋っておいた方が早いし, そうしましょうか?そうね…まず, 私自身のことかしら」
そう言うと, 666番は右手を宙に掲げた。手の周りに白い光が集積し, やがてその姿は長方形となって, 見慣れた物体━1枚のカードとなった。彼女はカードを俺に差し出したので, 無言で受け取った。面を返すと, 青い柄がすぐに目に入る。
《
リンク5(上・右上・右・右下・下)/光/悪魔族
ATK 3000
見たことのないカードだが, その絵柄に映った女性の正体は瞬時に判った。
何せ━目の前に腰掛けているからだ。紛れもなく, この《
だが━にわかには信じ難い。現実世界に, デュエルモンスターズのモンスターが権限しているということ, なのか?明らかに非科学的だ。
「どういうことだ?」
俺は666番改め, 《
「見ての通りよ。《
「精霊…?」
Aも言っていた, 『精霊』。それは, カードに宿る霊的な存在なのだろうか。
「貴方達人間の持っているカードは, 別次元の世界の住人の魂を宿している。それが具現化したのが『精霊』よ」
「それは, 全てのカードに精霊が宿っているということか」
「全ては把握していないけれども, 現界している精霊はかなり多いわ。もしかしたら, 人間社会に溶け込んでいる精霊も意外と多いかもしれないわね?」
ふふ, と彼女は微笑んでみせる。それにしても, 精霊, 人間界とは違う世界。彼女の話は事実だと思って疑わなかった。何せ, 今の彼女が発した不思議な光もそうだが, 収容所から脱出する際に彼女の生み出した混沌の渦のことも思い出す。あのような現象を目の当たりにすれば, 別世界の存在だと言われても納得がいく。
「それで…その…」
言葉に詰まった。彼女の呼び名だが。長くてどう呼べばいいのかわからない。
「クルヌギアス, で良いわ。どう呼んだって構わないけど」
「む, そうか。クルヌギアス…か。この後はどうするんだ」
「もうすぐこの列車も終点。そこで私の知り合いが待ってる…ひとまずは彼と落ち合うことになっているわ」
「そいつも精霊か?」
「いえ, 人間よ。彼も精霊を連れているわ。貴方と同じ
なるほど。どうやら俺を連れ出す計画に関わっていたのは彼女だけではない, ということらしい。となると, この人間の知り合いとやらが何者なのか気がかりだが, それよりも前に聞くべきことがある。
俺は引き続き彼女に尋ねた。
「お前が収容所にやって来たのは, 俺を脱出させるのが目的だった。それで間違いないのか?」
「ええ。その通りよ」
クルヌギアスは即答し, こう続けた。
「前も言ったけど, 私の目的は一つだけ。貴方を守ることだから」
「それはなぜだ?俺は何者だ?なぜ俺は閉じ込められていた?」
自分が何者であるか。これは自分にとって最も重要な問いであるといっても過言ではない。クルヌギアスは俺があの収容所にいることを知っていて, 俺を脱出させるために動いた。ならばこれらの問いの答えを持っているはずだ。
クルヌギアスは頷きながら俺の問いかけを聞いた後, しばらく黙ってから答えた。
「貴方。一つ聞くけど…」
「何だ」
「もし, 世界の全てが貴方の敵だったら…貴方はどうする?」
唐突な問いだ。質問に質問で返すのもどうかとは思ったが, 不思議なことに, クルヌギアスの問いは心に響く何かを感じさせた。
━世界の全てが敵, か。
あまりに極端な状況で, あまりに壮大だ。世界中の人間が俺の敵, ということか。どういう理由かはわからないし, どっちが正しいのかもわからない。
今までそんなことなど考えたことがなかったが, 自分の中での答えは明らかだった。
「戦うに決まってる」
「それはどうして?」
「それ以外に何があると?」
「負ける可能性の方が大きいのに?負けると解っていながら戦うのは, 愚かだと思うけど?」
俺は両腕をテーブルの上に置き, 前屈みになってクルヌギアスをじっと捉えた。
「自分の在り方を貫き戦う。そこに勝ち負けなんか関係ない。戦わずして静かに負けを認める方が恥だ」
漆黒の女性は, ほう, と言いたげに目を見開く。
「それに, 負けだと決まったわけじゃない。勝てる見込みが微塵でもあれば, 俺はそれに賭ける」
クルヌギアスは少し頷き, 何か満足げな表情を浮かべながら窓の外を一瞥した。
「面白いわ。やはり, 彼女に似たのかしら…」
「うん?」
小声でよく聞き取れなかった。
「いえ, 何でもないわ。それより, 変な事を尋ねて悪かったわね」
「構わない。それで━」
本題に戻ろう, と言おうとした時。列車がキィーッという音を立て, 段々と進むスピードが遅くなってきた。
「もう着いたみたいね」
クルヌギアスが立ち上がり, 座席の上にあった物置に手を伸ばした。彼女はそこからバックパックを一つ取り, 俺に手渡す。
「貴方のよ」
俺は立ち上がり, それを受け取って中身を確認すると, ライノから手渡された
「じゃあ, 降り口まで行くわよ」
クルヌギアスがドアに手を伸ばした寸前。彼女は手を止め, 俺に振り向いた。
「そうそう, 貴方の名前。言ってなかったわね」
「…知っているのか」
「えぇ。知りたい?」
そう聞いたクルヌギアスだったが俺の表情を窺うや, 聞くまでもなかったか, と言うようにフフ, と笑った。
「源。