その日。
冬の寒さも終わり、春の気配を感じる境内の中、ある尾袋鼬は昼過ぎから草踏神社を出て、冬眠を終えた虫を探して歩いていた。
何時からか使えるようになった「隠匿」のお陰で天敵に捕まることもなく、獣はいよいよ好き勝手に徘徊する。
白っぽい木の根っこ。
続く柔らかい土の坂道。
そして、知らない人がまばらに歩く石畳の道。
お決まりのコースを進み、今日は「湖」まで行こうかと思っていた所で、獣は道をてくてくと歩く五花を発見した。
「隠匿」で近づき、姿を現したと同時に飛びつく。ように動いたのだが、何故か避けられて尻尾を掴まれる。
「駄目じゃったか……!」
「あのさ廻、それ結構痛いんだからね?」
その声色に、廻は尻尾を吊られたまま、眉を寄せた少女の顔を見る。
獣はその何時もより平坦な仏頂面に、違和感を覚えた。
「五花、何かあったのか?」
「ん? んー……特に無いけど、何かいつもと違った?」
「元気が無いように見えるぞ!」
そこまで言うと、少女に尻尾をぱっと離されたので、前足で着地する為に一度言葉を切る。
石畳に四つ足を付け、文句を言おうと後ろを向くと五花はこちらをじっと見ていた。
「この間もそんな事言った」
そう、ポツリと呟いてから。
何処か遠い所を見るような目をして続ける。
「ねえ、廻。どうして私を心配するの?」
「ん? ワシは五花にも三鶴にも、あとついでに有人にも世話になっとるからな。何かをくれる人は好きじゃし────」
「そうじゃないでしょ」
低い声だった。
どこかを見つめる彼女の顔は、能面のように微動だにせず。
「……」
そのまま後ろを向いて、何処かに歩き去ってしまった。
尾袋鼬はそれに、何だか分からず、ただその背中を暫く眺めてから、首を傾げた。
それから。
五花はこの尾袋鼬を相手にすることをやめた。
飛び付けば避ける。
餌も三鶴に言われれば用意した。
だけども声を掛けてくる事が無くなった。廻から話し掛けても居ないかのように振舞った。
暫く経ってもそんな感じであるから、廻も話し掛けるのをやめた。
「お前ら喧嘩中なんか?」
そうして、家の中でもそのような事を続けるものだから、とうとう有人がその事に触れた。
「そうなのかの?」
「……」
獣が本人に聞いても、答えない。
「なあ五花」
「……良いでしょ、別に」
「良くねえよ」
三鶴は黙って不安そうにしている廻を抱き上げた。
「お前……いい加減にしろよ。廻はお前の事が好きなのに、お前は無視ときた。気に食わない事があったのか? 嫌な事があったのか? せめてそれは言えよ! ……廻は家族じゃねぇか」
席を立った有人にそう言われた五花は、同じように席を立って、何かを言い返そうとして、俯いた。
かなりの間が空いて、彼女は口を開く。
「廻はさ、本当に自分の意思でここに居るのかな」
「どういう意味なの?」
三鶴がそう聞くと、五花は零すように言葉を紡いでいく。
「
「……好きじゃけど……」
「それって、本当の気持ちなの?」
今度こそ、部屋の時間が止まった気がした。
そうして暫く経って。
五花は下を見たまま「ごめん」と言い、家を出ていった。
その日の夜、彼女は帰ってこなかった。
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現在の地点は
埋葉神社を出発した俺達は、奥の酒見平を目指す為、再び傾斜のついた道を歩いていた。
住宅と畑がまばらにある舗装されたその道は意外にも綺麗に整備されており、綾間が言うには近年観光地となっている場所なのだと言う。今の季節には大きな祭りがあるらしく、度々その告知を貼った看板が刺さっており、提灯や屋台の骨組みなど、その準備を行っていた形跡が見て取れた。
目線を左右に動かしていると、逆睹という神通力の白い光を出す聶獣が視界の隅にチラつく。
「逆睹の神通力」……直近の未来を見せる神通力。聞いた事も無く、この世界に存在していない筈の神通力。俺としては、正直疑わしい力であった。
木田という若者の「洞見」もそうだが、何故「浄化の祟り」を受けた土地に伝わる神力が、この空間の外に存在しているのか。世界が組み変わる程の断絶があったにも関わらず、なぜ
溜息を静かに吐いて、考えを追い出す。
そんなような事を繰り返して歩いていると、行く先で妙な『動物』が道路の中央に陣取っていた。
「狸?」
木田が呟く。
その動物は、確かに狸の姿をしていた。赤島では「みずくみ」と呼ばれるその雑食動物はしかし、顔の斜め下と、胴に痛々しい色の大きな腫瘍が付いていた。
「お前等止まれ」
両手を広げて、2人を制止する。
「綾間、あれは聶獣か?」
「いや違う、僕の記憶には無い。動物に障った『祟り』だろう……しかし、この状態で安定しているのか?」
視界から外さずにいた狸が、ここでこちらに気付いた。
姿勢を低くして、口を開け……威嚇をしているらしい。 俺は2人に逃げるよう促して、自分も目は狸から離さず、距離を開けていく。
「……これ不味いんじゃないですか? アレの近くにいたら僕達」
「ああ。まあいずれにしろ、これ以上近寄らないほうが良さそうだな。迂回路は?」
獣が見えなくなった所で、俺は小走りで2人に追い付く。
「確かあるにはあった筈だが……そこまで詳しくは覚えていないぞ」
「じゃあ地図を探すか。観光地なんだろ? どこかにある筈だ」
看板が無ければ、最悪村役場に入って拝借するしかないか。
そう思って俺は集落の中心がある下り道の先を見る。だが。
「っ何か来ます! デカいやつ!!」
そう叫んで、道を登り始めた木田を見て、一瞬何をしているのか分からなかった。
────「洞見」だ。
そう認識すると同時、隣の綾間の襟首を掴み、先ほど降りてきた道を急いで戻る。
「何が来る!」
「熊みたいな、やつです! でっかい腫瘍が沢山の!」
熊。先ほどの狸のように、腫瘍を抱えた物だろう、か。
背負った銃を前に回し、坂を登りきった所で振り返る。足音が近づいて来る前に、俺は見晴らしの良いそこで銃を構えた。
果たして、そこに現れたのは熊だった。
……3匹程の。
いや、後ろからも更に何かが付いている。
当然俺は再び駆け出した。
「おいっ! 一匹じゃねぇのかよ!!」
「あー言い忘れました!!」
「ぜえ、ぜえ、み、道を逸れるぞ! 僕に付いてこい!」
そう言って藪に飛び込んで、ヘロヘロと岩肌に向かった綾間の先を見る。確かにそこには丁度人が登れそうな段差の続き。
……これは間に合わない!
先に登り始めた綾間の後ろに木田を並ばせ、俺は銃を構えて先ほどの道を見る。
「グキャアアアァア!!」
「ゲッゲッゲッゲッシャァア!!」
そこには、俺達を無視して、異常な鳴き声を発しながら一心に道を登っていく大小様々な生き物たちの姿。どういう事だ?
「加子母! 君も登れ! よく分からないが死ぬぞ!」
「あ、ァあ!? もう、訳分かんねぇよ! お前等ちゃんと説明しろ!」
思わず悪態をつき、一心に駆け上がる。
手を掛け、2人の居る所まで辿り付いた所で、振り返る。
赤。
禍々しいほどに昏い赤い光が、地面を満たして。
まるで水が押し寄せて来るかのように、しかし重力に逆らい、登りの道まで埋め尽くしていき。
暫くのち、嘘のようにその光は消えた。
動物の声も、何もなく。そこには風の音もしない静寂だけが残っていた。