酒見村、その最奥の神社。
天気は変わらず快晴で、木漏れ日が直ぐ近くの地面の色を変えている。日陰で居心地の良い、穏やかな時間だった。
「それで、何と言われた」
老人に聞かれ、廻は石段の上で伸ばしていた身体を起こす。
はてなんの話だったかと逡巡し、暫く寝ていた所に何処から来たと聞かれたので、流れで家出の説明をしていた事を思い出す。
「ええと、ワシが五花を好きだと言ったら、それは『本当の気持ち』なのかと聞かれたんじゃ」
思い浮かんだ出来事は、五花との会話だった。
「……それで?」
「それきり無視されとる」
「ふむ」
短い返事。
それきり黙ってしまった老人は、ずっと怒ったような顔をしていて表情が読み取れなくて。だから廻は不安になった。
「ワシ、何か変な事を言ったのかの」
答えを待っていると、境内に幾つかの足音が入って来た。
老人がそちらへ顔を向ける。廻もそれにつられて見ると、上がって来た人間の一人に見覚えがあったので、慌てて口を閉じた。
「あら」
目が合った。
五花の家へ時々やって来る女。そう確か、四葉という名前だったと廻は思い至る。
続いてその後ろから、鞄を持った男と、紙の束を抱えた女。どうやら観光客ではなさそうだ。
「こんにちは! 尾袋鼬ですか?」
四葉は老人へそう言いながら会釈をし、廻の前に屈み込んで、急に頭を撫で始めるものだから、獣はたまらず首を縮めた。
「ウチの姉の家にも一匹居付いてるんですよね。この辺りにも?」
「いや、この辺では見ない。草踏の辺りから来たようだ」
老人は、先程言った通りに廻が喋るのを内緒にしてくれるらしい。
それを確認できた廻は、とりあえずそこで寝たふりをすることにした。
四葉はピタリと動作をやめ、反応が無くなった尾袋鼬から手を離して再び立ち上がる。
「お身体の方はいかがですか?」
「今の所はなにもない。
「あー……ははっ、まあ元気ですよ」
四葉は吐き捨てるように笑い、後ろに居た男から催促されて、持っていた鞄から分厚い茶封筒を取り出す。
「……それで
「ああ。判子が要るのだったな。茶を淹れるから、皆さん中へ」
そうして。
廻がやり過ごしている間に、その場に居る人間は神社の建物の中に入って行った。
どれくらい経っただろうか。
何となく、どこか行く気分にもなれなかった廻は、その場でボーっと座り、遠くに聞こえる観光客らしい声を聞きながら時間を潰して。やがて建物の方から再び人間たちが姿を現した。
協会員の男女が先に石段を下り、四葉だけが少し残って朱崎と呼ばれた老人と何か喋っている。
廻はその場で顔を伏せ、その靴が近づいて来るのを見ていた。
「
背中を一度撫でられる。
「ちゃんとお家へ帰ってね。皆心配してるから」
返事はしなかった。
四葉はそれだけ言って手を離し、老人へ頭を下げて石段の方へ行ってしまった。
足音が遠ざかる。
その姿が見えなくなってからも、廻は少し待った。
「もう良いかの」
「ああ」
顔を上げ、やれやれと強張った身体を伸ばして、欠伸を一つ。
「四葉とは知り合いだったか」
「家に来るんじゃ。ワシが喋るのは知らん」
「そうか」
廻は先程の言葉を思い出す。
『みんな心配してる』と言われても、元々少し困らそうと思って家出をして来たのだ。獣的にはまだ家に戻る気にはなれなかった。
「そろそろ夕飯にするか」
その言葉に廻は振り返る。
夕飯の用意をすると言ったのだ。特段やることも無かった廻は彼の後をついていき、大して腹も減っていなかったが、飯をたかることにして。
そうして境内の隅にあった平屋の中に入ると、乾燥した変な臭いが鼻を掠めた。
「なんだか臭いのぉ」
「そうか。恐らく画材の臭いだろう」
画材。その単語に部屋を見回すと、幾つもの大きな紙が部屋の至るところに貼られていた。
晴れた日の湖。
夕暮れを映す湖。
満曜を反射し光が溢れる湖。
兎と湖。
子供と湖。
湖一辺倒。壁を埋め尽くすそれらは一般的に見れば、少々病的で不気味な光景であったが、廻はその大量の絵を純粋に「上手い」とだけ思った。
「うまいの! あそこの湖、好きなのか?」
「好きではない。ただ、絵を描くという事が好きなのだろう」
「ほぇー」
なんだか他人事のような事を言う老人に、凄いなぁと思っただけの廻は、開いている奥の方の部屋に、描きかけであろう絵を見つけた。
それは、殆ど真っ白で。
「あれも湖になるのか?」
「いや、わからない。人生で最期に描く絵だと思うと、中々上手くいかなくてな」
そう言いながら奥の部屋に入って行く朱崎の後を、描くのをやめてしまうのかと残念がりながら廻が追う。二人共、既に晩飯の事を忘れていた。
描きかけの絵は、薄い灰色が紙いっぱいに乗っていて、確かに何を描こうとしているのか迷っているようだった。
「酒見湖は『鏡』だ。ウツシノ様と同じ、見る者を映す鏡であり、その色は見るたびに違う」
だから、きっかけが欲しかったのかも知れない。
老人は絵具で一杯の缶を手に、獣の方にその口を傾けた。選べと言う事なのだろう、廻はそう解釈してその缶から一つ、絵の具を引っ搔き出した。
赤い絵の具。
それを見た老人は、初めてその表情を若干緩ませた。
「赤。私の仕事としては、不吉の象徴だな」
「なんで嬉しそうなんじゃ……?」
廻が困惑してそう聞くが。
老人はいつもの殺意の籠った顔に戻って、そのチューブを摘まみ上げ、木の皿に中身を全て出し尽くすと、濁った水に浸した大きな筆に、それを勢いよく染み込ませた。
「怒り、呪い、時に人を容易く飲み込む程の強い感情を表すと言われている。最も純粋な『祈り』の色。赤島の名前を冠す、曲げられない思い」
何かに憑りつかれたかのようにキャンバスに色を置く。乱暴にキャンバスにその筆を押し当て、部屋中に塗料が飛散する程に荒々しく、しかし紙の上では繊細に、迷いなく動いていく。
───だが、それは暫くしてからピタリと止み。
「廻」
「はい!」
すっかり委縮していた廻は、絵の具まみれになりながらビクリと身体を跳ねさせた。
「お前はもっと怒れ。そんな奴には『嫌い』と言ってやればいい」
w
w
w
神なんて居ない。
そんなものを信じるのは、弱い気持ちがある人間だけだ。
父は常々そう言っていた。
その信念のもと、常々僕の趣向を否定して来たのでいつも反発してきたが、その意見は間違いとも言い切れない。
不特定多数の適合者の証言によって保証されているのは。
「神」ではなく「神と呼ばれる」存在だからだ。
彼等を人間が直接知覚するのは大変危険だ。精神に深刻なダメージを受けると言われており、だからこそ彼等は「神様」だと畏れられている。しかし、直接知覚するのが難しいならば、間接的なアプローチをすれば良い。そうして現代では、徐々に彼等の解析が進んでいる。海外含め国の機密に関わる領域では、最早その片足を掴んでまでいるらしい。
僕はそれが「本当の神」であるかなんてどうでもいい。
ただ、知りたい。知って、進んで、明かして、その景色を見て、それで…それで後ろを振り向いて。
何か言って怒っている父と、喜んでいる母の顔を、見たいだけだった。
「……なあ、大丈夫?」
その言葉に隣を見ると、木田が怪訝そうな顔でこちらを見ていた。なんと返そうか、目を擦って頭上の鼬の姿勢を確かめる。
「少しぼうっとしていた」
「急に黙るのやめてくれない……? 地味に怖いんだよ」
鼬の姿勢が変わっていないことを確かめて、欠伸をする。
僕も少し、色々あって疲れているようだ。
現在の場所は酒見神社の社の中。
廻という少女と合流した後、ひとまず獣の群れで閉鎖されている酒見平の様子を離れた場所から「隠匿」で確認できないか試すと言った加子母が、僕らに留守番を命じたのだ。木田の体調の事もあるのだろう。しかし、危ないと言いつつ、廻のような子供を連れて行くのなら僕もついて行きたかった所である。
「次の神社は」
そう考えていると、木田が口を開く。
「お前の頭の上に乗っている
「そうだ」
「なんで僕なの?」
なんで? その言葉を聞き返す前に、彼の言葉は続く。
「成り行きでこんな所まで来てさ、こんな目に遭ってさ、正直ちょっと、ほんのちょっとワクワクしていたんだ。なんか……つまんねー人生をここまで歩んできて、でもさ実は自分に特別な力があるって分かって、浮かれて。でも、打ちのめされたっていうか……そう、こうして怖いって思ってると、自分は凡人なんだって突き付けられてる気分になるんだ。お前は良いよな、狂ってて」
「いや、狂って無いが……人間疲れていると弱気になる傾向がある。一度仮眠したらどうだ?」
そう提案すると、彼は無言でその場にごろんと横になる。
……床はひんやりと冷たい。風もない現在の酒見村は、ごごご、と低い空洞音のようなものが聞こえており、こうして座っていると、渦巻く色々な思考が、その音に溶けていくようだった。
そうして、いつの間にか寝ていたらしい。加子母と廻が帰って来たようで、建物の中に上がって来る音が聞こえる。
むくりと起き上がると、その後ろには見知らぬ小学生くらいの背丈の少年が居た。
「帰った」
「ああ……いや、後ろのは?」
「
「ども」
野営……確かに如何にもサバイバルをしていましたみたいなボロボロの服を着た少年は、短くそう言ってから未だに寝ている木田の方を見て、それから僕の頭上を見て嫌な顔をした。
「うわ……その光何? まさか『逆睹』とか言わねーよな」