大嫌いだったあいつ
二月十四日。高校最後のバレンタインデー。
雪の降る日に、朝から教室は大賑わいを見せていた。自由登校なのに男子生徒のほぼ過半数が登校しているのは、高校最後のバレンタインに好きな子からチョコを貰うためだろう。それと同じく、最後のチョコをあげるために登校している女子生徒の姿も多く、その大半が教室の一つの席に小箱を積み上げていた。
チョコの山を作るのは、学校一イケメンと名高い男子生徒の机。まだ教室が開いて二十分も経っていないのに、崩れそうなほど積み上げられている。その中に彼の目当ての女の子がいるかは不明だが、それも杞憂に過ぎないだろう。同学年だけならば、ほぼ過半数の女子が彼の机にチョコを置いているのだから。
当の本人が困った顔で机の上を眺めているのを尻目に、俺は窓の向こうへと視線を移した。友人に引き摺られて来てみたが、やはりこういうイベントは好きになれない。
もう友人を置いて帰ろうかと思案していると、不意に俺の前に一人の女子生徒が立った。まずニーハイに包まれた脚が見えて、視線を上げていくと冬服に包まれたグラマーな体型が視界に入る。赤茶髪のツインテールと、少しキツめの印象を与える吊り上がった真紅の瞳が印象的な生意気な顔の少女。
俺はそいつの存在を認識した時、あからさまに顔を顰めた。
「あんたまた一人なんだ〜。ぼっち?」
鹿島愛理。
俺が女性を苦手にする原因–––否、元凶とも呼ぶべき女だった。
生意気な顔で、人を馬鹿にしたような態度を取る、いわゆるメスガキと呼ばれる種族。
根本的に性根が腐った女である。
事あるごとに俺を貶して、愉悦に浸る少女。
俺にとってこいつは天敵であった。
「煩え。ほっとけ」
「学校に来てもぼっちとか、来なければいいのに。あ、それともバレンタインにチョコ貰えるかもーって期待して来た?」
「残念だったな。俺は友人の付き添いだ」
「ふ〜ん、あんた友達いたんだ」
わざとらしく前屈みになって大きな胸を目の前にぶら下げてくる。その顔はニヤニヤと笑っており、かなり上機嫌なことが窺えた。
鹿島愛理とは小学生の頃から関わりがある。
いつからだったかこいつは俺に事あるごとにうざ絡みして、人を小馬鹿にしたような態度を取る。やれ足が遅いとか、テストの点が悪いとか、逆上がりができないとか。俺もそれが積み重なれば腹が立って、給食当番になったのを利用してあいつの嫌いなものを山盛りに盛ってやったことがあった。そうするとあいつは涙目になって、俺の顔面に皿を中身ごとぶち撒けてきた。それが原因で教師に怒られたのも、あいつのせいだ。
中学校でも三年間クラスが一緒だった。
文化祭の合唱は俺の声が小さいだとか、執拗に俺だけを狙って指摘してきた。他にも俺より声が小さい奴がいるのにも関わらず。
体育祭の練習でも似たようなことがあり、俺の粗探しをしては集中砲火である。もちろん俺はくそ生意気なあいつにブチ切れた。手こそ出さなかったものの口汚く罵ったわけである。
そして、高校の三年間。
何の因果かまた同じ学校で、同じクラス。
もはや呪いとしか思えない神様の悪戯。
あいつは俺のことを“童貞”と揶揄い、俺はあいつのことを“クソビッチ”と呼んだ。
メスガキにはそれで十分である。名を呼ぶ必要はない。
あいつはくそ生意気で、人を小馬鹿にして生きている、どうしようもない人間なのだ。俺に災難を振り撒くあいつが大嫌いで、常に敵視してきた。
「今年もゼロ〜?」
ニマニマと人の癪に触る顔を浮かべるあいつの顔面に、つい外で雪玉を作ってぶつけたくなってしまうが、この手のタイプは相手にするだけ無駄なことをこの十二年間で学んだため、俺は氷のように冷たく接していた。
「別におまえには関係ないだろ」
「かわいそ〜」
言葉通りに受け取ってはいけない。
あいつの目は喜色一色。憐憫の欠片さえもない。
この女に憐憫の視線を向けられてもはっきり言って迷惑だが、それ以上に腹が立って仕方がなかった。
俺は鞄を手に、やっぱり帰るべきだと思い直す。
「ちょっとどこ行くのよ?」
「おまえには関係ないだろ」
立ち上がって教室を出ようと足早に去ろうとすれば、廊下に出たところで愛理は俺の目の前に立ち塞がった。
「待ちなさいよ」
「なんで待たなきゃいけないんだよ」
「だ、だって、あんたにチョコくれる奇特な人がいるかもしれないでしょ」
何を馬鹿なことを言っているんだろうか。
そんな相手、いないことくらいこいつが一番わかっているはずなのに。
俺は誰かに好かれるような人間じゃなかった。
クラスの中じゃ、陰キャで目立たない存在であったのだ。
クラスカーストでは下位の方、しかしそれに目をつけた不良どもをボコボコにして腫れ物扱い。それが俺の教室での立ち位置だった。
強過ぎた故にイジメこそなかったものの、関わりのある人間は本当に一握りだった。
「いるわけないだろバーカ」
一言罵って、傍を通り抜けようとした。
しかし、今日に限ってこいつは諦めが悪かった。
傍をすり抜けようとした俺を通せん坊して、目の前に立ちはだかってくる。
「まだ何か用かよ」
荒々しくため息を吐けば、あいつは安堵したようにほっと息を吐いた。白く染まる吐息のせいでその様子がよくわかる。愛理はゴソゴソと鞄を漁り、紙袋を一つ取り出した。
「仕方ないから。仕方ないから、私があんたに恵んであげるわ」
差し出された紙袋を訝しげに睨む。
俺はそれから、淡々と拒絶した。
「要らねえ」
「感謝しなさ–––はぁっ!?ちょっと!?受け取りなさいよ!」
押し付けようとしてくる愛理に、俺は反転して背を向けた。
その背中に、寒さからか震えた声が投げ掛けられる。
「バカァァッッッ!!!!」
突然、背中に衝撃が奔る。
遅れてぼとっという音が廊下に響いて、つい苛立ちに振り向けば泣いている愛理の姿があった。
落ちているのは、俺に押し付けようとしていた紙袋。
それを拾おうともせず、彼女は廊下を反対方向へ駆け出して行った。
「……面倒臭え」
教室外の騒動に顔を出し始めた生徒達を無視して、俺は落ちた紙袋を拾って鞄にしまった。はみ出していた手紙も一緒に。
◇
それから卒業式のその日まで、愛理の姿を見ることはなかった。
いつもは揶揄ってくるあいつも、卒業式の日まで何もしてくることはなく。
とうとう卒業式も終わってしまった。
家に帰ればもう二度と、あいつと会うことはないだろう。
「ん……?」
下駄箱で靴に履き替えようと、下駄箱を覗いた時、ふとそこに紙切れが一枚入っていることに気づいた。摘んで広げてみれば、内側にはたった一言の文字。
『校舎裏へ来てください』
宛名もない、差出人も不明な手紙。
俺はなんとなくその差出人がわかってしまった。
十二年、伊達に同じクラスだったわけじゃない。
嫌いなはずなのに、あいつのことは誰よりも知っていた。
嫌いだからこそ、誰よりも詳しかった。
指示通りに正門前で泣いたり、笑ったりして卒業する喜びを分かち合っている集団から離れて校舎裏に移動する。と、そこには見慣れた赤茶髪のツインテールが待っていた。
「バレンタインの意趣返しか?」
「ち、違うわよ……」
なんだか普段と違ってしおらしい様子。そんなことで、俺達の間に空いた溝が埋まるはずもなかった。
「じゃあ、何の用だよ」
「そ、そんなこともわからないの?これだから童貞は」
ツインテールをくるくる指先で弄ぶ愛理に、俺は鞄から一つ小箱を取り出して投げ渡す。
「え、ちょっ!?」
何度か取り落としそうになりながらも、慌ててキャッチして安堵した顔をして、小首を傾げる。
「……勿体ないから食った。そのお返しだ」
「!?」
バレンタインのお返しだと、理解したのだろう。
その瞳が輝き、開けていいかと問うた。
「こ、これ……」
「いらなきゃ廃棄しろ」
「す、捨てないわよ。も、勿体ないでしょ」
包みを開けた愛理は中に入っていたものを見て、顔を綻ばせる。ワインレッドのシュシュを手に取って、心底嬉しそうにそれを抱きしめていた。
「そ、それなら、手紙……見たわよね……」
一頻り喜び終えた後、愛理はおずおずと切り出した。
バレンタインのチョコには、手紙が添えられていたのだ。
これまでの謝罪、どうして今まで意地悪ばかりをしてきたのか、その全貌を含めて。
世間一般的に言えば、あれは本命チョコだったわけだ。
道理であいつがあの日、涙を流して逃げ出すほど悲しそうな顔をしたわけだ。
もう逃げ場はないと悟ったのか、頬を赤らめて彼女は決意に口を結ぶ。そうして数秒、深呼吸をして秘めた想いを口にした。
「私、ずっとあんたのことが好きだったの。付き合って下さい」
初めて見た、あいつの乙女らしい表情。
それで今更心が揺らぐなんてことはなかった。
「悪いが俺はおまえのこと好きになれそうにない」
ただ一言、拒絶する。
鹿島愛理を泣かせたのは、二度目だった。