夜が明けていつも通りの朝が来る。
一睡もできなかった俺の身体は、泥の中に足を突っ込んでいるかのように重い。それでもどうにか身体を動かして、シャワーを浴びるとリビングへと向かった。
「あ、おはようございます。お兄さん」
「おはよう直人君。キッチン借りてるわね」
キッチンには早起きの都と志穂さんがいて、母娘揃って朝食を作っている。
自分の家であるはずなのに、鹿島母娘が並んで立っているという状況はどこか幻想的で美しいとさえ思ってしまった。
「–––家族みたいだな」
正真正銘彼女達は“家族”だ。異物は間違いなく家主の俺だが。
ぼーっとしたままダイニングチェアに座り、そのまま突っ伏するようにテーブルに腕を組んで頭を沈める。
「随分とお疲れのようですね」
「チョコに変な薬を仕込まれて酷い目に遭ったからな」
非難する意味も込めて都に言うと、容疑者である彼女はそっとオニオンスープを置いて立ち去っていった。
都の首筋には蚊に刺されたような痕があり、これ以上増やされては堪らないと距離を取ったようである。当然あと一つ登校前に増やしてやることにして、溜飲を下げた。
「おはよ〜」
遅れて愛理が欠伸をしながら寝室から出てくる。
寝ぼけ眼を擦りながら出てきた彼女は、キッチンに立つ母親の姿を見つけると驚いたように目を見開いた。
「えっ、あっ……そうだったわね」
今まで忘れていたかのように思い出した愛理は、「夢じゃなかったのね」と小さく呟いて席に着く。
「なぁ〜に、その幽霊でも見たような顔は」
「この家に母親がいるって現実が受け入れられないのよ」
すっかり眠気の飛んだ愛理は、母親の冗談を苦言で対抗する。
オニオンスープで喉を潤してから、次に配膳されたサラダに手を伸ばした。
軽い朝食を作り終えた二人は、配膳を終えて席に着く。
それぞれ勝手に食べ始めているので、いただきますは各自で済ませてある。
朝は忙しいと言うがその通りで、受験生である都は自転車で早めに家を出なければならなかった。
「それじゃあお先に失礼しますね。片付けはお願いします!」
「都」
朝食を食べ終えた都は食器をテーブルに置いたまま家を出ようとする。そんな彼女を俺は呼び止めた。
「なんですか?」
「忘れもの」
呑気に近寄ってきた都の首筋に、さながら吸血鬼のように吸い付く。
「あ……やっ……!」
数秒ほど口付けをしたあと、唇を離せば首筋が薄赤くなっており見事な痕が残っていた。
「なっ、なにするんですか!昨日の薬が残ってるんですか!」
「いや、これはただの嫌がらせと男子生徒への牽制かな」
都の首筋に残ったマーキングを見て、男子生徒達の悶々とする姿が目に浮かんだ。
「も、もう……!そういうのは唇にしてください!」
怒っているような口調だが、満更でもない様子で都は唇に強請ってきた。
「母親の前だが」
「その母親の前で今お兄さんは何をしたんですかねぇ」
「首筋はセーフだろ」
「むしろエロすぎてアウトですよ」
そう言って都は自分から俺の唇にキスをしてくる。一瞬だけの軽い口付けを交わして、今度こそ都は家を出て行った。
「あら〜、うちの娘やるわね」
一連の騒動を見て、志穂さんは楽しそうだ。
そして、もう一人の娘へ視線を向ける。
「愛理はしないの?」
「するわけないでしょ親の前で!」
「ふ〜ん、でもお風呂や寝室ではやることやってたみたいだけど」
「なっ!?」
昨日の夜、お風呂や寝室で騒がしかったことを指摘されて愛理の顔が羞恥に染まった。
当然都のように覗いていたわけだが、そういうところは志穂さんに似たのかもしれない。
「……な、なんのことかしら」
必死に誤魔化そうとするが、バッチリ目撃されているのを愛理は知らない。母親が隣の部屋にいる状況で襲われて興奮していたくせに、しらばっくれようとする。
「あら、私の見間違いかしら。じゃあ、あれはきっと都に保健体育の授業をしてたのね」
風呂場に連れ込んだ都の前でしたことを言っているのであれば、あながち間違いでもないので否定はできない。
「わ、私会社行かないとっ」
母親の怒涛の質問にこれ以上掘られて堪るかと、愛理は寝室へと逃げ込む。そうしてものの数分で着替えると支度をして家を忙しなく出て行った。
「あら、逃げなくてもいいのに」
根掘り葉掘り聞ける状況だったのに、娘に逃げられて志穂さんは不満そうな顔で見送る。
残った俺に視線が向くのは、必然でもあった。
「いつもあんなことをしてるの?」
「……そうですね」
「いつもあんなに凄いの?」
「昨日はチョコに変な薬混入されてたので」
「都とどこまでやったの?」
「見てたじゃないですか」
矢継ぎ早に質問攻めにされて、俺は答えられることだけ答えた。
「いいわね〜。夫とはもう何年もしてないから」
ふとそう言われて、志穂さんの身体を見てしまう。
こんなドスケベな身体を抱かないとは、なんて勿体なことをするのだろうと。
「私には女の魅力がないのかしら」
「そんなことないと思いますが」
外を歩けばナンパされる志穂さんが、女の魅力がないわけがない。少なくとも自覚はあるだろう。
「じゃあ、直人君が抱いてみる?私のからだ」
「夫がいなければそれもいいんですけどね。夫婦喧嘩に巻き込まないでください」
「じゃあ、離婚しようかしら」
冗談っぽく笑っているが、目はまったく笑っていなかった。
「そういえば直人君は平気?時間」
「病欠にして有給を使おうかと」
「あら、悪い子ね。真実を知ったら上司とか怒るんじゃないかしら」
「チョコに薬盛られて一睡もできなかったからで通ればいいんですけどね」
普段使わない有給を消化するタイミングもなかった。上司にもあまり嫌な顔をする人はいない。それどころか心配してくれるので心苦しいが。
「俺はお昼まで寝ます」
「じゃあ、私も偶然休みだからお昼ご飯作ってあげるわね。私も片付けたら少し寝ようかしら」
「俺がやるからいいですよ」
「急にお邪魔したんだし、私にさせて。それとも宿代は身体で払えってことかしら」
そこまで言われては、片付けを任せるしかなかった。
キッチンで洗い物を始める志穂さんを置いて、俺は一人眠るために寝室へと向かった。
◇
夜更かしして朝眠ると、だいたい三時間で起きる。
明るいせいか眠りが浅く、アラームをつけなくても昼前には起きれたようだ。
ただ違和感がある。いつもの枕の感触じゃないのだ。
不思議に思って重い瞼を上げると、目の前には大ボリュームの膨らみが視界を覆っていた。
「あら、おはよう直人君」
その山の向こうから、優しげな声がする。
愛しむように頭を撫でながら、その人は俺に微笑むのだが……顔が殆ど見えない。巨乳の人は足元が見えないとは言うが、その逆も然りということなのだろう。
「……おはようございます」
愛理の母親に膝枕されるいい歳したおっさんである俺は、なんだかよくわからない羞恥に赤面した。
「なんで俺は膝枕されてるんですかね」
「寝顔が可愛かったからつい。……それに子供達、最近全然甘えてくれないんだもの」
上は大人から、下は思春期まで。その歳で親に甘えるのは中々ハードルが高いだろう。俺も不意にされてなければ遠慮していたところだ。
「というか可愛くはないでしょう」
「そうね。どちらかというと男の人って感じがしてドキドキしたわ」
その割には緊張感というものをまるで感じない。
「俺も男なんですが」
「そんなのとっくに知ってるわよ。会う度に胸を見られるし」
視線が顔より下にいっていたことは志穂さんも悟っていたらしく、そんなことを優しい表情で言われた。
「……すみません」
「いいわよ。減るものでもないし。むしろ嬉しかったから。でも、あまり私の胸を見過ぎると二人が機嫌損ねるから注意してね」
「善処します」
むしろ見るな、と言われても難しいまである。
生き物とは動くものを目で追うものなのだ。当然弾むように揺れるおっぱいも追跡対象である。
心の中で言い訳を並べ立てていると、志穂さんの表情が変わる。
真面目な顔をして、とても辛そうに唇を引き結ぶ。
数分後、意を決したのか彼女はゆっくりと唇を開いた。固く閉じたその唇を、震わせながらしっかりと声を発する。
「……ねぇ、直人君に聞いてほしいことがあるの」
とても真剣な声音で、茶化すような雰囲気じゃない。
俺は膝枕から頭を上げようとして–––再度、膝の上に頭を押しつけられた。
「……ごめんね。あまり顔は見られたくないの」
声色に普段見せない弱さが見える。母親としての仮面も剥がれ掛け、普段の明るさがどこにもない。
「娘達には……言えなくて、誰に相談したらいいかわからなくて……こんなこと相談できるのは他に思いつかなくて……」
思い出したかのように感情を荒ぶらせながら、志穂さんは衝撃の告白をする。
「……夫が浮気したの」
–––鹿島家、崩壊の危機である。
後書きで見る前回のあらすじ。我慢できずに妹ちゃんの前でごにょごにょした男女がいるらしい。