夫婦喧嘩勃発から一週間。
とある喫茶店で、俺は一人の少女と対峙していた。
夕方の時間に密会しているのは、桃色の縦ロールに翡翠の瞳を持ったどこぞのお嬢様である。その傍には専属のメイドが一人控えていた。
「例のブツは?」
「こちらに。春山」
翠が合図をすると、春山と呼ばれた専属メイドが鞄から封筒を取り出す。それをそっとテーブルの上に置いて、また元の位置に戻った。
「ご確認を」
取引の基本は、信用と信頼である。
俺は促されるままに封筒を手に取り、中に二枚の紙切れが入っていることを確認した。
思わず笑みが溢れると、対面の翠もフッと笑みを溢した。
「ふむ。確かに」
「それでは契約成立ですわね」
テーブルがガタンと揺れる。その下ではおそらく翠がガッツポーズをしたのであろうが、俺は見ないふりをすることにした。
「それではわたくしは用が済んだのでお暇しますわ。ごきげんよう」
手を摩りながら立ち上がった翠は、何事もなかったかのように店を出ていく。
俺はまだ温かいミルクティーを飲みながら、ほっと息を吐いて一息をついた。
その翠と入れ替わるようにして、黒髪の女性が入店してくる。そのままコツコツと迷いなく店内を歩くと、俺の席の横に立ち止まった。
「……さっきのは、翠様ですね。いったい何のようで呼び出したのですか?」
怪訝な視線で見下ろしてくるのは、今日俺を呼び出した人物–––冬海雪菜である。休日スタイルなのかニットのセーターに身を包んだ彼女は、ロングスカートを綺麗な所作で押さえて対面の席に座る。
「ちょっと野暮用でな。頼み事があったんだ」
「……」
「なんだ不服か?他の人を頼ったのが」
図星であるのか、冬海はテーブルの下で脛を蹴ってきた。顔は驚くほどの無表情である。
「痛いんだが」
「バカなことを言う先輩が悪いんでしょう」
それから二度ほど蹴られていると、店員がやってきて注文を取って去っていった。
頃合いを見計らって、俺は改めて本題に入ることにした。
「それで例のブツは?」
「……」
とても面倒臭そうな顔で冬海が睨んでくる。どうやら悪の取引ごっこをしているのがバレたみたいだ。
「翠ちゃんはノリノリだったのに」
「先輩のそういうノリ嫌いではないですが、時と場所を選んでください」
「はい、すみません」
あまり嫌われると俺が死ぬので、素直に表情と気を引き締めた。
「それで調査の結果は?」
「まずはこれを」
冬海はハンドバッグから一本のUSBを取り出すと、テーブルの上に置いた。
「ご所望の監視カメラの記録です。鹿島純一郎氏がホテル内の通路を同僚の女性と移動する瞬間の記録が残っていました」
「一応、検分したんだろ?」
「その映像がこちらです」
スマホを取り出すと、一本の動画を再生する。
そこには、少しふらついた様子で女性と一緒に歩いていく姿が。
「あ〜、完全に酔ってるな」
元々弱いらしい鹿島父は、酔わされたのかべろんべろんである。千鳥足で通路を歩く姿が映像に残っていた。
「ついでにこの同僚女性の方へ、慰謝料をちらつかせて話を伺ったところ、もう一人の男性社員に唆されたという供述を得られました」
「とんとん拍子に話が進むな。それどころか予想が当たって怖いんだけど」
おおかた女性の方は、一人だけ地獄を見るのが嫌だったのだろう。それなら協力者を売ってしまえというのはよくある裏切りだ。
「一応、二人がスマホでやりとりした記録は残っています。それがこちらです」
もう一本USBを取り出して、テーブルに置いた。それを俺は無言でポケットにしまう。
「それで二人は?まさかこのまま終わりじゃないだろ?」
「二人には地方への異動命令が出ています。いわゆる左遷ですね」
「まぁ、妥当か」
本来なら慰謝料を分捕れるだろう。それをしなかっただけマシである。元よりあの二人はそこまで熾烈でも、苛烈でもない。温情があるだけ処罰としては優しい方だ。
「……それで、そちらの証拠はどうなさるおつもりですか?」
「できるなら、あまり二人には見せたくないんだけどな。それも志穂さんが納得するかどうかだろ」
何か言いたげな冬海が、視線を落とす。
「米倉財閥としては、あまり事を大きくされたくはないのですが……当然、こちらでも慰謝料をご用意させてもらいますが」
「そこまでするのかよ?」
「優秀な社員の職場環境の改善は急務ですので」
まるで隠蔽するような工作は、冬海も不本意らしく表情が硬い。
「別に大事になったところで、ニュースにもならないだろ。こういう些事は」
「翠様の婚約者である京介様のご家族の皆様には、醜聞を増やしてほしくないというのが当家の意向でもありますので」
「あぁ、なるほど。極力足を引っ張る要素は排除したいわけか」
京介は未来の幹部候補だ。どうしてそこまでするのか理由がわかった。
「ありがとう。これでようやく関係改善できるかもしれない」
「それでは貸し二つですね」
–––何故か貸しが一つ増えた。
◇
喫茶店での密会から、約三日。土曜日。
家族会議を開催することになった。
夫婦喧嘩から初めての対面に、緊張しているのは親二人だけではなく……子供達の方もだった。
うちでは狭いので、家族会議は鹿島宅で行われる。
双子を伴い、志穂さんは約十日ぶりに自分の家へと帰ってきたのだ。
玄関が開く音が静かに響く。
人気がない家は静かで、二階から僅かにゲームの音がしていた。
「それじゃあ私は京介を呼んできますね」
二階に駆け上がっていく都が消えて、残り三人となった。
俺達はリビングへ進む。ドアノブを回して、扉を開けた愛理が何かに驚いて飛び上がる。
「きゃっ!……びっくりしたぁ」
そうして開けた先には、何故か土下座待機していた鹿島父の姿があった。
「……私が悪かった。だから、戻ってきてくれ」
真摯に頼み込む鹿島父に、志穂さんは澄ました表情を崩すことなくただ一言。
「それは浮気を認めるってこと?適当な謝罪は聞きたくないわよ。そういうのはちゃんと話し合うって直人君を通じて伝えたでしょう?」
さすが母親。さすがの貫禄である。初手土下座謝罪は通じなかった。
すたすたと歩いてソファーに向かう志穂さんを、慌てて追いかけるように鹿島父が立ち上がる。
愛理はキッチンへ向かって、お茶の準備を始めていた。
一人だけ残された俺は、どこに行くか迷って逃げるように愛理のところへ。邪魔だと言われようが、俺にはあの空気は無理だ。耐えられん。
お茶の準備の間にも、京介と都の双子がリビングに姿を現す。逃げるようにダイニングテーブルについた。
「無言なんですが……」
お互いに会話すらない夫婦を見て、都が俺の背中を押す。あの状況に仲裁役として放り込むつもりだ。
タイミングを見計らっていると、ハーブティーのいい香りがしてくる。飲み物を淹れ終えた愛理が、ただ無言で対面する夫婦の前にティーカップを置きに行った。
「ちゃんと話し合わないと何も解決しないわよ。私はそれで失敗したし」
ちらり、と鹿島家全員の視線が俺に向く。そこで実例に俺を出さないでもらいたい。
「それじゃあ中立の立場として、直人君に進行をして欲しいんだけど」
流れるように進行役を押し付けられて、俺は呼ばれるままにリビングのソファーへと近寄る。
「それでは家族会議を始めます。議題は“夫、鹿島純一郎氏の浮気について”でよろしいですね?」
反論はなかったので、そのまま始める。
夫婦喧嘩の経緯を改めて確認して、鹿島父は浮気について否定した。しかし、証拠となる写真が残されているのである。それがこの二つの写真だ。
「それじゃあこの写真はどう説明するのかしら?」
「それは“キスされた”と何度も説明したじゃないか」
「私には夫が同僚女性を抱きしめて、受け入れているようにしか見えないのだけど」
鹿島父には説明する手立てがないのか、疑いは晴れない。助け舟を出したのは都だ。
「はい!それについては父の潔白を証明する方法があります!」
『異議あり!』と前に出た都は、俺に視線を向ける。
「それではお兄さん、そこに立ってください」
「はいはい……」
あの日の再現をするためか、俺はリビングの空きスペースに立たされた。対面には少し離れて都が立つ。そして、前に一歩踏み出した彼女は前のめりに倒れるように飛び込んでくる。
「きゃっ、躓いて転びそうです〜」
説明口調で飛び込んできた都を受け止めると、そのまま爪先立ちになって顔を近づけてくる。軽く唇が触れると、都は満足そうに笑みを浮かべて離れた。
「–––と、このように唇を簡単に奪えて、おまけに抱きしめているように見えるんです」
「あんたはどさくさに紛れて何やってるのよ!?」
迫る愛理と、俺を盾にする都。姉妹喧嘩を始めた二人には目もくれず、志穂さんは納得したように頷いた。
「なるほどね……。一理あるわね」
「……」
鹿島父は何か言いたいようだが、状況が状況なだけに口を出さないらしく口を噤んだままだ。何を言っても自分の首を絞めることを冷静に理解しているらしい。
「それじゃあもう一つのホテルに入った写真は?夫はホテルに入ったことも否定しなかったし、朝帰りしたことも事実なのよ。何もないわけがないじゃない」
状況だけ見れば、反論の余地もない。
志穂さんは改めて、男の俺に聞く。
「直人君は魅力的な女性と二人きりになって我慢できる?」
「無理ですね。手を出さない自信がありません」
実例を挙げるなら、愛理と再会した日のことだろうか。
「ただその日、彼は同僚三人と飲んでいたようですが」
「それは連絡があったわ。……そのあとは朝まで連絡もなかったけど」
「その日は随分と泥酔していたようで、ホテルの廊下を歩いている証拠の動画があります」
冬海から手に入れた動画をスマホで再生する。それを二人に見せると、別のところから反応が返ってきた。
「よくこんな映像集められたわね」
「このラブホテルは米倉の系列店だから、多少の融通が利くんだよ。それに普通のホテルにしか見えないから入りやすいんだ。外見じゃわからないから、誘導するのも容易いしな」
「……私のこと騙して連れてったものね。家じゃできないすっごいプレイされたし」
……そんなこともあった気がする。それはさておき。
「まぁ、そのおかげで騙されて連れて来られる女性が増えて、警備は強化されたんですが」
志穂さんは話を聞きながらも、じっとスマホを見つめる。
「確かに酔っているけど、何もなかった証明にはならないわよね?」
酔った夫がどうなるか理解しているが、それでも酔いが覚めればそれは別の話だ。彼女の言う通り何もなかった証明にはならない。
「まぁ、彼の思惑はともかく、何もできなかったのは事実ですよ」
最後の証明として、用意した診断書をテーブルに置く。
それを見て、志穂さんは目を見開いた。
「……ED?」
「勃起不全のことですね。勃っても性行為を行えないくらいのものを言うそうです。詳しくは知りませんが」
志穂さんの視線が夫の股間に向く。
「真偽は二人で調べてください」
「ええ、そうね……」
これについては確認もしたくない。何が悲しくて鹿島父の勃起不全の確認をしなければならないのか。
「誤解は解けましたか?」
「……ええ。他にも気になることはあるけど、あとで確認することにするわ。夫の拗れた性癖とか」
NTR系のAVについては、まだ和解してないらしい。そっちの疑いは自分で晴らして欲しいと思う。
「子供達が生まれてから、思えば子供のことばかりだったし。お互いにもう少し話をする必要がありそうだわ」
「あ、あぁ、そうだな……」
浮気の疑惑は一旦晴れて、鹿島父の顔に生気が戻る。
上手くいった事を察して、俺はテーブルの上に封筒を置いた。
「あら、これは?」
「三泊四日の温泉旅行のチケットです。夫婦で行ってきてください」
「これって結構有名なところじゃない?行きたかったのよねぇ。それに結構高くなかったかしら」
「あぁ、金額については気にせず。ただ同然で手に入れたんで」
–––京介の身柄と引き換えに。当然、同日の三泊四日である。
「でも、卒業も近いし、受験ももうすぐでしょう。仕事も急に休むわけにはいかないし……」
「そちらについてはこちらで調整してあるんで、子供達のことは愛理と一緒に面倒見ますし、隣には黒川もいますから」
「それじゃあお言葉に甘えちゃおうかしら。ね、あなた?」
「そうだな。……久しぶりに夫婦で旅行にでも行くか」
顔を見合わせる二人は、まだ少しぎこちないものの本来の距離感を取り戻したようであった。
◇
二日後、二人は温泉旅行に向けて旅立っていった。
志穂さんがいなくなると少し寂しいような気もしたが、女性三人に囲まれなくて少し肩が軽くなったような気もする。
夕方のリビングで、仕事の疲れにソファーに倒れ込むように横になりながら、今は県を跨いで隣県にいる夫婦のことを考えていると、急に腹の上に重いものが乗せられる。
「今頃旅館で楽しんでる頃かな」
「さぁ、どうでしょうね?」
腹の上に乗っかってくる愛理が、妖しく笑みを浮かべている。
「なに一件落着みたいな顔してるのよ」
「いや、これでゆっくりできるなーっと」
「ふふふ、お母さんがいるのによくも毎夜悪戯してくれたわね。声抑えるの大変だったんだから!それにお母さんが帰る最終日なんてわざと激しくしたでしょう!」
ぷんぷんと怒った様子で愛理が掴み掛かってくる。その手は俺のシャツのボタンを外し始めていた。
「そう言うおまえの方こそ、いつもより反応は良かったが」
「それとこれとは別よ!今夜は毎日いじめられた分、たっぷり仕返ししてやるんだから」
意気込んでいるところ悪いが、簡単にやられるわけにはいかない。
俺は彼女の腕を掴むと引き倒して、位置を入れ替える。逆転して愛理に馬乗りになる形で彼女を組み伏せた。
「えっ、ちょっと……!」
「あまりやりすぎないように我慢してたからな。今夜はたっぷり楽しませてもらうとしよう」
–––このあとめちゃくちゃ返り討ちにした。
これにて夫婦喧嘩終結です。