三月一日。金曜日。
仕事終わりに片桐と飲んで帰ると、時刻は午後十時をすぎていた。
リビングから明かりが漏れている。遅くなったというのに扉が開いて、愛理が出迎えてくれた。
「おかえりなさい」
「ん。ただいま」
さらに身を寄せて、キスをしてくる。唇に触れたかと思えば、随分と深くて長いキスを数十秒に渡って求められる。終わったのは二、三度繰り返したあとだった。
さっそくお風呂に入ろうと脱衣所に向かうと、愛理がその後ろからついてくる。
「どうした?」
「酔っ払いを一人でお風呂になんて入れられないでしょ。滑って頭とか打たれても困るし」
–––と、言いわけしつつも実際は一緒に風呂に入りたいから待ってたのだろう。
余計なことは口にせず、お言葉に全力で甘えることにした。
脱ぐのを手伝ってくれたお礼に、愛理の服も脱がせてやる。二人とも裸になって浴室に移動すると、俺を椅子に座らせて頭から洗ってくれる。
「どう気持ちいい?」
「あー、すげぇ気持ちいいよ」
背中に当たる柔らかな感触。背筋に押し潰されるような形で押しつけられるおっぱいの感触に全神経を集中させつつ答える。
「ふふ、それはどういう意味かしら?」
「言葉通りの意味ですが」
背中越しに前を覗き込む愛理が、確信的に呟いたが知らぬ存ぜぬを通す。
俺に比べて愚息は元気だ。仕事終わりの疲れなど知らず、元気に背筋を伸ばしている。
「まずは背中からね」
頭の泡を洗い流して、背中に泡立てたタオルが当てられる。背中を程よい力で擦られて、そこから脇の下に手を入れられるとそのまま前にも腕を回して抱きつくような形になる。おかげで背中には大きなものが思いっきり押し付けられた。
胸板。腹筋。上から下へと順に進み、下腹部へ……そしてうちの愚息が悪ガキのように首根っこを掴まれる。
「口がいい?手がいい?それともこれ?」
“これ”と言いつつ胸で挟むような仕草を見せる愛理は、悪戯っぽく笑って前に回り込んできた。
それから一時間掛けて、お互いの体を綺麗にしたあとで一緒に湯船に浸かる。これほどのグラマラスボディを抱きしめながら浸かる湯は温かさもあってすごく眠気を誘った。
「あ、そういえば……」
「んぅ……?」
ふと思い出したように愛理が口にして、眠りかけていた意識が引き戻される。
「お母さん達帰ってきたんだって」
「そうか……」
「それでお土産を渡すのと、お礼も兼ねて日曜日に家に来てほしいんだって」
「お礼か……。特に迷惑かけられた覚えはないんだけどな」
むしろほぼ毎日、志穂さんの料理を食べられただけ得をしているので損はない。
「お父さんも是非って」
あまりにも胡散臭い誘いに、俺は怪訝に顔を顰めた。
◇
「やぁ、直人君。よくきたね!」
翌日。鹿島姉妹と一緒に鹿島宅を訪ねると、とても上機嫌な鹿島父が出迎えてくれた。
まるで別人と思える対応に俺は目を白黒とさせる。
「さぁ、遠慮なく上がってくれ」
「お父さんただいま〜」
「あぁ、おかえり都」
「ただいまお父さん」
「おかえり愛理。マイスイートエンジェル達。直人君に迷惑はかけてないかい?」
父親の様子がおかしいというのに、愛理と都は特に気にした様子もなく家に上がる。
「当然ですよ。むしろ私達がいないと生きられない体なんですから」
「まぁ、おかげでこっちも直人がいないと生きられない体になっちゃったけど」
「そうか。はっはっは!」
上機嫌に笑う鹿島父。……おかしい。おかしすぎる。いったい彼に何があったというのだろうか。
「……おい、様子がおかしくないか?」
先導する鹿島父の後ろで、愛理達にこっそり声を掛ける。すると愛理は嬉しそうにこう言うのだ。
「やっとお父さんにも直人の良さがわかったのよ」
恋は盲目とは言うが、もはや完治は不可能である。俺にも都合がいいので完治しなくて全然いいのだが。
「いいことじゃないですか」
「そうかもしれないけどな……温泉で頭でも打ったんじゃないか?」
そんなことを言っている間に、リビングへ到着した。
志穂さんはキッチンに立っており、最後の仕上げとばかりに天ぷらを揚げていた。
テーブルには所狭しと料理が置いてあり、和食を中心にしたメニューにしたようだった。
「いらっしゃい。すぐ用意できるから座って待っててね」
「日本酒はいけるかね?直人君」
志穂さんからはウィンク。
鹿島父からは昼間っから酒を勧められる。
なんだこの居心地の悪さは……?
その理由はわかってる。鹿島父の豹変ぶりだ。気味が悪すぎて鳥肌が立つ。
「旅行に行った時に買ったんだ。すごく美味しいんだよ」
もう返事を聞く間も無く徳利とお猪口が寄せられていた。拒否権すらない。
「ふふ、娘にそれ相応の相手ができたら一度こうやって酒を酌み交わしたいと思ってたんだ」
前もやったよね、とは突っ込まない。あれはおそらくそういう意味ではなかったのだろうから。
「あなた〜、先走りすぎよ。もう」
「あぁ、すまん。ついはしゃぎすぎてしまったようだ」
「あの……大丈夫ですか?温泉で頭とか打ってないですか?」
「いや、打ってないよ。今まですまなかったね。あんな態度をとって。よければこれから仲良くしてくれると嬉しい」
「そうっすか……」
もう何がなんだか訳がわからない。俺は勧められるままにお猪口に口をつけていた。
「お父さんって身内にはこれくらいの距離感なんですよ」
「なるほど。わからん」
改心したというか、中身入れ替わったんじゃないかと思うほど対応が違う。天と地、両極端すぎる対応の変化に俺だけがついていけてなかった。
それから昼食が終わっても、鹿島父の暴走は続く。
酒を飲んでストッパーが外れた彼は、愛理と都のアルバムを持ってくると娘自慢を始めた。
生まれた頃から始まり、アルバムの最後まで。五時間に渡って語り続けた。
「……あの、お父さん?そろそろ……」
「おや、もうこんな時間かい?泊まっていきなさい」
「さすがに明日は仕事があるんだし、無理よ」
「むぅ。そうか……」
助け舟を出してくれた頃には、俺は何故か愛理の幼少期の写真を持っていた。どうやら貰ったらしいのだ。全然記憶にない。
ただこれはとても珍しいことらしく、志穂さんですら驚いていた。娘の写真を手放すなどありえないらしい。それはなんとなくわかる。
本当に残念そうな鹿島父に見送られて、俺達は鹿島宅を出た。
ようやく解放されて、心底安堵したものである。
「やっと帰れる……」
「随分と気に入られましたね」
「そうみたいだな……」
「お父さんは結婚式で娘とバージンロードを歩きたいそうですよ」
「そうみたいですね……」
「その時はお願いしますって、言っちゃいましたね」
「社交辞令って知ってる?」
「お父さんがそういう意味で受け取ると思います?」
「確約って意味ですね。わかります……」
外堀は着々と埋められている。
何故か静かな愛理の方を見れば、すっごい上機嫌だった。
何を思い馳せているのか。……想像に難くない。
一番頑固な邪魔者が味方に回って、結婚への障害を排除できたと思っているのだろう。
「ここから入れる保険ってありますかね……?」
「都ちゃんとの婚姻届にサインすればいいんですよ」
「それにサインしたらどうなるの?」
「エッチなことをしてくれる義姉が手に入ります」
死んでも墓まで一緒になりそうだった。
ある意味敵であり、味方であったはずなのに……。