冬海雪菜の家を出たのは、日が暮れてからのことだった。
もっと一緒にいたい。そんな気持ちを隠して、名残惜しくも別れを告げて少しだけ暖かくなった夜道を歩く。
途端に冷たい風が吹いて、身体を縮める。
普段は見ない夜空を見上げて、欠けた月を見るとどうも寂しい気持ちになってしまう。
「……帰るか」
随分と遅くなってしまった。
マンションに辿り着いたのも夜七時を過ぎた頃だ。
紙袋を片手に家へ帰ると、リビングから明かりが漏れていた。
玄関の扉を開けて数秒、バタバタと慌てたように走る音がしてリビングから愛理が飛び出してきた。
そして、そのまま俺に抱きつくと、ぎゅっと強くしがみついてしまう。
「おぉ……どうした?」
なんだか様子がおかしくて声を掛けたが、返ってきたのは鼻を啜るような音。
「……もう、帰ってこないのかと思った」
涙声で告げられた言葉は、意味が全くわからない。
「いや、ここ俺の家だし。–––っ!?」
当たり前のことを言うと、不意に唇が塞がれる。
少し強めに唇を押し付けられて、そのまま激しくキスを強請ってくる。
唇を舐めて、こじ開けて、絡め合う。
強引に求めてくるキスに少しだけ戸惑ったものの、俺は紙袋をそっと置いて応戦した。
「んっ……。ねぇ、もっと……」
数分に及ぶキスをしても、まだ足りないとばかりに唇を押し付けようとしてくる。
胸を押し付けて、腰をくねらせ、下腹部を擦り付けては、太股で足を挟み全身で求愛する。
「それはあとでな」
いつになく積極的な彼女の頭を優しく撫でてから、リビングに移動しようとすると背後から追突される。そのままお腹に腕を回されて捕まってしまった。
「……なんで?いつもは玄関で襲ってくるのに!メイドさんにご奉仕して貰ったからなんでしょ!?」
おまけにとんでもないことを口走った愛理は、俺のズボンに手を掛けて脱がし始める。
「ちょっ、おい、こら、脱がすな!ご飯食べてからいくらでも相手してやるから!」
「どうせ勃たないんでしょ!メイドさんにいっぱいご奉仕してもらったから!」
さっきまで雪菜–––冬海と一緒にいたことがバレている。
「確かにご奉仕はされたけどなぁ」
膝枕に耳掻きとか。それ以上は冬海の名誉のために黙っておく。
「どんなプレイしたのか言ってみなさいよ!」
「言ってどうするんだよ」
「それ以上のプレイで上書きしてやるわよ!姉妹じゃないとできないやつとか!」
それはとても気になる。と、思ってたら巻き込まれた当人がリビングの扉から顔を覗かせた。
「二人とも何小っ恥ずかしい言い争いしてるんですか。ご飯が冷めちゃうので早く来てください」
都に怒られて、俺と愛理は一時休戦する。
ダイニングに行くと、既にテーブルには夕食が並んでいた。
カツ丼、切干し大根、ほうれん草のおひたし、白味噌の味噌汁。
偶然だろうか。カツ丼が取り調べをする、という意思表示に見えて他ならない。
「いただきま〜す」
席に着くと、都は箸を手に味噌汁を飲む。
今日もいい出来、と自画自賛してちらりと視線を向けてきた。
「お姉ちゃん。そんな不機嫌そうな顔しててもどうにもならないよ。喧嘩になったらそれこそお兄さん盗られるけど。いいの?」
妹に釘を刺されて、「わかってるわよ……」と弱々しく呟く。
惚れた弱みというのを十全に理解しているようで、姉の扱いも上手かった。
なんとか危機を脱したかと安堵していると、都が不敵に笑む。どうやら貸し一つということらしい。
危機はなんとか脱したものの、微妙な空気に居た堪れなくなる。俺はふと視線に入った夕食を話題にすることにした。
「今日はカツ丼か」
「はい。やっぱりこういう日はカツ丼ですよね」
「合格祈願か?」
「いえ、刑事ドラマだとこういう時はカツ丼食べさせますよね」
「……」
話を合わせてくれるかと思えば、墓穴を掘るという結果に。
元恋人とデートした俺を弄りたい都は、凄くいい笑顔である。
「そういえばおまえはそういうやつだったな」
最初から味方などいなかったことを実感すると同時に、ダシの染み込んだカツを噛み切る。米と一緒に咀嚼してから、味噌汁で胃の中へと流し込む。
「それでお兄さん。元カノとのデートは楽しかったですか?」
「……あくまでお嬢様のホワイトデーのお返し買いに行ったんだからな。デートじゃない」
冬海が元恋人という話を、愛理は驚いた様子もなく聞いている。どこで知ったのかは想像に難くない。
「……桜ちゃんか」
いつも出先で会うお嬢様と遭遇しなかった。その事実を深く考えると、やっぱり出会さないように立ち回っていた可能性が浮上する。
あのお嬢様が考えていることはよくわからないが、冬海の邪魔をしないように立ち回っていたのは間違いない。それこそ邪魔になる存在を、介入させないようにするとか。
–––この場合、邪魔者とは鹿島姉妹のこと。
「はぁ。どこまで見てたんだか」
「デート開始から、メイドさんの家に入るまで、ですかね」
「ほぼ全部じゃねえか」
「でも、家の中で起きたことは私達は誰も知りませんよ」
「それは良かった」
そこまで知っていたらさすがにドン引きである。
「大変ですよ〜。お姉ちゃんのご機嫌取るの」
ほうれん草のおひたしを摘みながら、都はニヤニヤと笑う。
「そうみたいだな」
カツ丼を小さく口に運びながら、何かを考え込む愛理。
心ここに在らずといった様子で、俺の方をじっと見ては言葉を食事と共に飲み込んでいた。
「まぁ、どうせお兄さんにえっちなことされたら全部忘れるんでしょうけど」
都がジト目で睨んでくる。それは俺のせいではないと言いたい。
「おまえもしてやろうか?」
「ふえっ!?」
仕返しにそう言うと、都の顔が真っ赤に染まった。
「そ、そう言って私のご機嫌取ろうとしても無駄ですからね!というかお兄さんが私に触りたいだけじゃないですか!」
箸を動かすスピードが上がる。
「早くお風呂で可愛がって欲しいのか?」
「…………」
「冗談だよ。……都さん?」
もぐもぐ、ばくばく。夕食を食べ終えた都は、完食すると椅子から立ち上がった。
「お姉ちゃんは調子悪いみたいなんで。私が文字通り一肌脱いであげますよ」
愛理の方を一瞥した都は、わざとらしく胸を当ててくる。姉に見せつけるように。
「それじゃあ私達は、先にお風呂に入ってますね」
挑発的な笑みを浮かべて、都は姉を煽る。
ただ腕に伝わる鼓動は、思ったよりも早かった。