三月十四日。ホワイトデー当日。
「……」
人の気配と視線を感じて目を開けると、至近距離に愛理の顔があった。
「おはよう」
「……おはよう」
随分前から目が覚めていたようで、彼女の声は寝起きとはまた違って優しげな感じがした。
寝顔を見られて恥ずかしがる男ではないが、寝起きに、しかも至近距離に人の顔があれば驚くものだ。
俺はそっと視線を逸らしつつ、枕元にある目覚まし時計へと視線を移した。
「七時か……」
キッチンからは油の弾ける音が聞こえてくるので、都は既に起床しているらしい。
春休みでも規則正しい生活を送る少女のことを考えながら、いつもの起床時間に起きるあたり自分も社会人として毒されていることに気づいてしまう。
まだ布団に入っていたい誘惑に負けて、もう一度目を閉じようとした瞬間だった。
「はい、ダーメ。二度寝禁止」
温かい布団が剥ぎ取られてしまう。
朝の外気に当てられて、眠気が覚めてしまった。
「寒い……」
二人揃ってすっぽんぽんなのに、愛理は気にした様子もない。おまけに裸を見て余計に目が冴えてしまった。
「ほら、早く起きて」
「……はぁ」
ため息を吐くと幸せが逃げる、というが本当だろうか。
確かに目前に広がる光景は幸せそのものだが、それ以上に温かい布団が恋しい。
……なんだか前にもこんなことをしたような気がする。
急かすように起こされて、適当なシャツを着て洗面所へ向かう。
二人で鏡を見ながら歯を磨く中で、俺はふと視界に揺れるたわわな果実の方が気になった。
ブラジャーをつけていないせいで揺れる二つの果実–––通称おっぱい。歯を磨くたびに揺れる様は、俺の野生的な反応を掻き乱してくれる。
「……その手は何かしら」
「いや、重そうだし持ってあげようかなと思って」
「触りたいだけでしょ」
「まぁ、持ってるようで持ってないんですけどね。手ぶらだけに」
「しっかり触っておいてよく言えたわね」
下から支えるようにおっぱい様を持ち上げると、愛理のジト目が鏡越しに突き刺さる。が、嫌がらないので継続した。
「歯を磨く手が止まってるわよ」
愛理は自分も歯磨きをしながら、器用に俺の口に咥えている歯ブラシをゴシゴシと擦る。
「……なんかくすぐっふぁいんだけろ」
歯の裏を擽られるような奇妙な感覚。
カバは小鳥とかに掃除してもらうという話が頭をよぎった。
無言で歯磨きを続ける愛理。
その顔はなんだか……怖い。
「自分でやるから、その手を離してもらえまへんかね?」
もごもご、と対抗すると愛理が歯ブラシを手放す。
やっと解放された……。
そう思っていると、彼女は口を濯いで再びその手を伸ばしてきた。
「さぁ、お口をいーってしましょうね」
いったい何が引き金になったのか愛理は嬉々として歯ブラシを握る。
「ちょっ、なんで!?」
「なんでって……やりたいから?ほら、こういうプレイはまだでしょう?」
「歯磨きなんて特殊プレイ聞いたことない!あ、ちょ–––」
俺の抵抗も虚しく、歯ブラシが口内を蹂躙する。
自分で歯磨きをするのとは違う奇妙な感覚に、俺は口の中を犯されるのってこういうことをいうんだなって。バカなことを考えた。
「はい、口を濯ぎましょうね〜」
気がつけば全部終わっていた。何が起きたのか俺もまるでわからなかった。
ただわかるのは奇妙な体験であったことだ。今度仕返しをすることを密かに心に決める。
「もごもご……ぺっ」
自分で歯磨きをするよりも疲れて、謎の消耗に疲れて愛理の方を見ると何故か彼女はやり遂げた感溢れる顔をしていた。
「ほら、ちゃんと磨けたか見せなさい」
「はいはい」
「まずは、いーってするのよ」
言われた通りに歯を見せると、愛理は顔を近づけてきた。
「んっ」
そして、そのまま唇を重ねてキスをしてきた。
舌で唇を撫でて、割り入れた舌で歯を撫でるように触れる。
口内を這いずり回る舌。これはチャンスだと思った。
「–––ふむっ!?」
すかさず俺は反撃して、逆に愛理の口内を蹂躙する。
舌を絡めて、歯の裏を舌で撫で、激しく口撃すると急に弱々しくなる。
いつも通り受け身の体勢で、愛理はキスを受け入れた。
それから数分、満足いくまで口内を蹂躙してから唇を離す。
「で、ちゃんと歯は磨けてたか?」
「……よくわからなかったから、もう一回」
おねだりに負けて、再検査した。
「歯磨きをしていただけにしては遅かったですね」
歯磨きを終えて、ダイニングに行くと胡乱な眼差しを向けてくる都が待っていた。
せっかく作った料理が冷めちまったよ、と言わんばかりに睨んでくる。「どうせエッチなことをしてたんだろう」と口には出さないものの、顔にははっきりと書いてあった。
「今回に限ってはエッチなことはしておりません。なぁ、愛理?」
「……えっと、そうね……」
「嘘だ。してないなら、なんで顔赤くして目を逸らすんですか!ちゃんと顔見て言ってください」
顔を合わせようとせず、席に着く姉に都は呆れた顔。
「仲がよろしいようで。そんなことばかりしてたら、同窓会で赤っ恥かくのはお兄さんたちですからね」
バカにできない忠告を貰って俺は苦笑いするしかなかった。
「あはは……それより飯食おうぜ」
誤魔化すように笑って、席に着く。
箸を手に、お味噌汁を口につけた。
程よい塩気が体に染み渡り、ほうっと息を吐く。
和食中心のメニューを朝からしっかりと食べる。今日は鹿島宅の方に帰るらしく、そのせいか朝から手の込んだ朝食を都は作ってくれた。
焼き魚、卵焼き、おひたし、根菜の煮物。
味噌汁と白米をしっかりとおかわりする頃には、愛理は朝食を終えてデートの準備に朝から忙しそうに動き回った。
朝食を終えた俺と都は、リビングでのんびりと過ごしている。隣の部屋でバタバタする愛理の様子を耳で確認しながら、食後の珈琲を飲んでいた。
「いやー、朝から大忙しですねぇ」
「だな。シャワー浴びて、着る服チェックするんだって」
そのまま同窓会にも顔を出す予定なので、愛理は張り切っている様子である。
「お兄さんはゆっくりしていていいんですか?」
「俺はほら、前日に適当な服に決めてるから」
「それもそうですが、スーツのポケットに入ってるあの小箱とか忘れたりしたら大変じゃないですか」
都が何のことを言っているのか俺にはわからない。
「……何のことですかね?」
「おや、お姉ちゃん宛ではないので?よし、お兄さんが指に嵌めるタイプの装飾品持ってるってちくってやろーっと」
「ほら、あれはそういうんじゃないから」
さっそく姉に報告しようとする都を、俺は羽交締めにして止める。
「誰の指輪なんだか」
「……あれは勢いで作ったというか。記念品?」
「ダイヤのついた指輪がですか?絶対お姉ちゃん勘違いしますよ」
あんなもの渡した日には、即日入籍もありうる。
「でも、念のため持って行くんですよね」
「念のためな。まだ渡すと決めたわけじゃないぞ」
「腹括ればいいのに」
「結婚ってそう簡単じゃないんだよ。プロポーズなんてしてみろ、今度こそ雁字搦めに絡め取られるぞ」
俺はそう言って、珈琲を飲み干した。