あれほど踏み越えてはこなかった最後の一線。そこを踏み越えたら、あとはもう泥沼だった。
一度味わった快楽を忘れられず、何度も片桐を抱いた。遊びに来た彼女を、泊まりに来た彼女を、何度も、何度でも。
歯止めが利かなくて、一度溢れた欲望は止まることを知らない。やりたいことをやりたいだけ、片桐に試した。女友達で、同僚で、ただそれだけの関係の彼女に。
恋人でもない。婚約もしてない。それでも俺達は何度も体を重ね合わせた。
気がつけばあれから何年も経っており、友達以上恋人未満の名状し難い関係が続いている。
「ほら、起きろ〜。朝だぞ」
昨日の新歓のあと、俺はまた片桐に手を出した。
彼女の柔らかな身体を朝まで堪能し、社会人生活で染みついた起床時間に目が覚める。
裸で眠る片桐を起こそうとしたが、当然疲れて起きない。
「起きろ〜」
肩を揺らす。それでも起きないので、曝け出されているおっぱいを鷲掴みにしてやった。
「起きないと好き勝手に弄くり回すからな」
片桐が絶対に起きないのを俺は確信している。
だから、俺は存分に堪能してやった。
眠り続ける片桐の身体を。好きなだけ。弄くりまわした。
「さて、そろそろシャワー浴びてこないとまずいな。換気もしないと」
窓を開けて、適当な着替えとタオルを引っ掴んで部屋を出る。
シャワーを浴びて酒気と体液と匂いを流したあとは、歯を磨いて軽く身支度を整えた。
–––ピンポーン。
そこでインターホンの音が鳴る。
慌てて玄関に出ると、立っていたのは昨日も見た二人の姿。
「おはようございます。直人さん」
「おはようございます。藤宮様」
桜お嬢様とメイドの冬海だ。今日はメイド服を着ているからか、俺のことは様付けで呼ぶ。それがどうも擽ったいが、背徳感もあって悩ましい。
「休みの日くらい、もうちょい楽にしろよ」
「私も毎日言ってるんですけどね」
「私はお嬢様のメイドですので」
メイドであることを誇りに、休日を返上する冬海の姿には頭が上がらない。立派な社畜精神–––否、忠誠心だろうか。
「ピィピイィィッ!!!」
冬海に感心するような、呆れたような、複雑な感情を覚えていると、二人の足下にあるキャリーケースから存在を主張するような鳴き声が上がった。
「おぉ、ピナ〜。おかえり」
冬海が留め具を外して開けると、白黒の影が飛び出してくる。そのまま俺の足に体当たりするように突撃。その後甘えるように身体を擦り付けてきた。
「どうだ水族館は楽しかったか?」
「ピィッ、ピィ〜〜〜ィィ」
我が家の愛鳥、ペンギンのピナちゃんだ。
昨日は飲み会で遅くなるから、水族館に一時的に預けていたのである。
抱き上げたピナは寂しかったとばかりに突っついてくる。もう本当うちの子可愛い。
「ありがとな。引き取りに行ってくれて」
「いえ、他の動物達を見に行くついでですから。……雪菜さんは早く直人さんに会いたかったようですけど」
「お嬢様、変なことは言わないでください」
勘違いするな、とばかりに睨まれる。だけど、否定らしき否定はなかった。
「それより美月は?」
「まだ寝てる」
「……はぁ、そうですか。起こしてきます」
“叩き”起こすを優雅に言い換えた冬海は寝室へ。
遅れて、ベチンという何かを叩いた音が響いた。
「–––ったあ!?あれ?なんか地味に痛い!」
「さっさと起きて支度してください。お嬢様にそんな姿を見せるおつもりですか?」
「スパンキングなんて藤宮君も滅多にしないのに!藤宮君にお尻叩かれた回数より、雪菜ちゃんに叩かれた回数の方が多いんだけど!」
「日頃の行いですね」
「うぅ。せっかく気持ちよく寝てたのに……酷いよ。私が藤宮君を独り占めしたからって」
「寝言は寝てから言ってください。別にお尻じゃなくて、その無駄にデカいおっぱいでもよかったんですよ?」
「……どうせ今日の夜、泊まるんでしょ。自分だって夜這いするくせに」
–––バチンッ。
そんな音が聞こえたのも二度目。
寝室から事件性のない悲鳴が響き渡った。
「はぁ、まったく世話の焼ける人達ですね……」
朝食の席で、雪菜は嘆息する。
あれから朝食にトースト、ハム、目玉焼き、サラダ、コンソメスープを手早く用意したのはさすが本職がメイドと言うべきだろうか。
すっかりお馴染みになった四人での朝食風景で、まるで大きな子供が二人できたかのように俺と片桐を見る。
「うぅ、まだおっぱいがじんじんする……痛いよう藤宮君」
割と乳は強めに叩かれたのか、自ら胸を労るように揉みながら片桐は小さく文句を言っていた。
「俺が優しく撫でてやろうか?」
「お願いしていい?」
「お嬢様の前で変なことを言わないでくださいっ」
もうすっかりお馴染みの茶番をしていると、痛烈なツッコミが食卓に響き渡る。
「……」
お嬢様は赤い顔で無言を貫く。だがその視線は、片桐の胸に向いていた。
「というか桜ちゃんだってもう大人だぞ。これくらい大丈夫だよ、なぁ?」
「ふぇっ!?あ、はい……大丈夫ですよ。こ、子供の作り方は心得ていますので!」
的を射ているようで、ちょっと的外れなお嬢様の主張は初心だからだろうか。
箱入り娘とは言うが、あまりにも純粋すぎて情操教育の失敗を懸念せざるを得ない。ありていに言えば悪い男にころっと騙されそうである。
「大丈夫か?これ絶対悪い男に誑かされるぞ?」
「……悪い男筆頭の藤宮様が言いますか」
自覚はあるので、反論ができない。
「俺が桜ちゃんに何かすると思ってんのか?」
「……それはそれで残酷な話なんだけどね。似たような立場だった私からすれば」
片桐が訳知り顔で言う。それがちょっと不満だ。だから、テーブルの下でちょっとした悪戯を敢行する。
「–––ひゃん!?」
「どうした?テーブルの下にピナでもいたか?」
「……藤宮君でしょ」
赤い顔でテーブルの下に手を置いた片桐が、可愛らしく睨んでくる。俺は素知らぬ顔でトーストを齧った。
朝食を終えると、掃除に駆り出される。
片桐が寝室と風呂、冬海がリビングや廊下、桜ちゃんが客室など。
なお戦力外通告を受けた俺は、庭の手入れとプール掃除だ。
「待ってろよ〜。ピナ。すぐにプールを綺麗にしてやるからな」
元々、ピナのために用意したプールである。ストレスなく広い場所を泳ぐなら水族館に連れて行くが、それ以外は家に作ったプールがピナの遊び場だ。
週に一回は清掃しているため、プール清掃は慣れたもの。ゴミを取り除き、水を抜いて、内部を綺麗に洗浄する。たっぷり一時間掛けて掃除したら、栓を閉めて水を貯める。
「よし、綺麗になったな。いいぞ、ピナ」
「ピィッ」
掃除を終えて合図を送ると、ピナは嬉しそうにプールに飛び込んだ。
俺もプールの淵に腰を下ろして脚をつける。するとピナが足に纏わりつくように近づいてきた。まるでドクターフィッシュのように、ツンツンと嘴で突いてくる。
「擽ったいなぁおい」
ちょっかいを掛けてくるピナを捕まえる。そして、水面に向かって放り投げた。
「ピィッ♪」
ピナは泳いで戻ってくれると楽しそうに鳴く。いつものスキンシップにご満悦で、また投げると泳いで戻ってくる。それを数回繰り返していると、水場から勢いよく上がったピナにタックルを喰らった。
「うおっ!?」
あまりの勢いに、背中から倒れる。
ピナはしっかり受け止めているため、怪我はないだろう。
ただ強い衝撃が、背中を打った。
青い空には、白い雲。麗らかな春の日差しが心地よく庭に差し込んでいる。
「……はぁ、いい生活してるよなぁ」
美味い飯食って、いい女を抱いて、可愛いペットがいて。休日は美女三人と過ごして。
唯一不満があるとすれば、仕事が忙しいことだが。それを差し引いても、今の生活は順風満帆と言える。
「……本当にいい人生だな」
「あ、藤宮君サボってる」
天を仰ぎながら現状を振り返っていると影が差した。
キャミソールにドルフィンパンツという薄着姿で、顔の横に立つのは片桐だ。
「サボってないよ。終わったよ」
「ところで今何考えてる?」
「スカートだったら、パンツ見えたのにって」
「もう、藤宮君のすけべ」
それはそれとして、眩い太腿が見えているのは素晴らしい光景と言えよう。
「それより何独り言呟いてたの?」
「いや、うちには可愛いペットがいるなぁって」
「それって私のこと?」
「おまえペットだったの!?」
「藤宮君が私をペットにしたいって言うなら、ペットになっちゃうけど。だってピナちゃん愛されてるみたいだし」
「残念ながらおまえの場合そういう扱いにはならないからな。愛の形にも色々あるし」
「じゃあ、すけべなペットだ」
「そういう風に扱った覚えはないからな?」
人間の尊厳が危うくなったところで、一応否定はしておく。
片桐は横に腰を下ろして、ジト目で見下ろしてきた。
「でも、藤宮君、私が寝ている間に悪戯したでしょう」
「……証拠はあるのかよ?」
「私のおっぱいとか、お尻とかべとべとしてたし。絶対藤宮君でしょ」
「キオクニゴザイマセンネェ」
「じゃあ、誰かもわからない人が、窓を開けて私の寝込みを襲ったってこと?」
不安の色が顔に出る。音色として声に乗る。
誘導だとわかっているが、俺には自白するという選択肢しかなかった。
「それは卑怯だろう。わかったよ。俺がやった」
「おかげで私は雪菜ちゃんにお尻叩かれたんだけど」
「それは俺のせいじゃなくない?起きなかったおまえが悪いんだろう」
「怒りの大半は藤宮君のせいだと思うなぁ」
ピナを押し除けて、跨ってくる片桐。
ギャアギャアと抗議するピナの声が、庭に響き–––。
「ねぇ、藤宮君。朝の続きを–––」
「なに二人してサボってるんですか?」
そこにメイドの影が忍び寄る。
片桐は俺に跨ったまま、静止した状態で硬直。
夏でもないのに、だらだらと異常な量の汗を流し始める。
「美月。寝室のゴミ箱の中身を片付けてありませんでしたよ?」
「い、いや、あれは別にいいかなって……」
「お嬢様が目にしたらどうするんですか?あんな汚らわしいものを。そういうことをするなら痕跡は完璧に消しなさいとあれほど言ったじゃないですか」
「でも、ゴミをゴミ箱に入れるのは正しいことだと思うなぁ〜って」
片桐の主張はもっともだ。ゴミをゴミ箱に入れる当たり前の選択である。何を間違っているというのか。
しかし、冬海の冷たい視線は冷たさを増すばかりで、まるでゴミを見ているようである。
「……はい、すみませんでした」
あまりの圧力に、片桐は屈した。
先に冬海さんの話出すべきか……。