新入社員が入社して一ヶ月以上が経過した。
この会社の給料は“月末締め、翌月二十五日払い”だ。
今日はその給料が支払われる日。新入社員にとっては初任給である。
俺の手元には、二つの封筒がある。その一つには鹿島都と記載されており、俺が直接指導係として渡すように言われた彼女の給与明細だ。
その都は、何故か最近副社長室に入り浸っている。
ペンギンに合わせた室温が快適だからか、ピナに会いに来たのか、理由はまるでわからないが。
今日の昼休憩も遊びに来たのをいいことに、俺は何の前触れもなく封筒を差し出した。
「なんですかこれ?」
「おまえの給与明細」
「おぉ、初給料です!」
無邪気に喜んだ都は、さっそく受け取った封筒を開封する。
「おぉ〜、学生のアルバイトでは滅多にお目にかかれない金額が!」
「そりゃあ正社員だからなぁ」
そこらの中小企業も比べ物にならないくらい急成長している会社だ。そこの正社員とあれば、並大抵の金額ではないだろう。それなりに大変だが。
「手取り二十万超えてます!」
「それだけうちの会社は上手くいってるってことだろう」
「私この会社辞めなくてよかったです!」
「辞めようとしてたのかよ」
「いや、なんかちょっと変な会社だなって思ってたので。副社長はやる気ないし、自覚ないし、ペンギンはいるし、社長や副社長は嬉々として指導してるし。あと副社長はそれっぽくないし」
「おまえ俺をディスりたいだけだろ?」
後輩の酷い物言いに嘆息しつつ、俺は昼食に戻った。
コンビニで買った焼きそばを紅生姜と共に口に放り込み、食欲を誘う紅生姜の風味を噛み締める。
喉が渇いて濃いお茶を流し込み、今度はホットスナックのチキンでタンパク質を補充する。
「先輩はいくらくらい貰ってるんですか?」
「……おまえ、よくもまぁ上司相手にそんな大それたこと聞けたなぁ」
こちとら仮にも上司である。忌避のない言い方をすれば先輩だ。
「そこは私と先輩の仲じゃないですか」
「どんな仲だよ」
そこまで仲良くなった覚えはない。最近の若者の距離の詰め方ってこんなものなのだろうか。
「いいじゃないですか。今後の参考とか、私のやる気にも繋がるかもしれませんよ?」
「まぁ、それでおまえのやる気が上がってくれるなら、いいことなんだろうけどなぁ」
直接見せるわけにもいかないので、指を立てて示す。
「ん」
「……私の倍以上ありません?」
「そりゃあ、それなりに仕事はしてるし。桜ちゃんは結果に報いるタイプだから」
桜ちゃんは年功序列ではなく、能力を評価してくれる。そういう意味では自分は少し評価が高過ぎるのではと思わなくもない。
「……いいなぁ。恵まれない新入社員に何か奢ってくださいよ。具体的にはご飯とか」
「それで俺に何のメリットがあるんだよ?」
「可愛い後輩とデートできちゃいます」
「はっ」
「鼻で笑われた!?」
不満そうにむくれて、都は食事を再開した。
自炊をしているのか持ってきたお弁当箱から、プチトマトを口に放り込む。
「というか食事くらい行けるだろ。せっかく初給料貰ったんだから、少しくらい贅沢してこいよ」
「私金欠になる予定なんですよ」
「なんでだよ」
「私、初任給でお母さんに洗濯機買ってあげるって決めてるので」
その一言に、焼きそばを啜っていた箸が止まる。
「ふ〜ん。……ったく、しょうがねぇなぁ」
「……え?」
何故か驚いた顔で、都が俺を見つめる。
「なんだよ?」
「いえ、こんな図々しいお願い聞いてくれると思ってなかったので」
さっきまでの図々しい姿がなりを潜め、謙虚な姿勢を見せる都に今度は俺が困ってしまう。一から説明するのも面倒で、恥ずかしくて、照れ臭くて。誤魔化すように頰をポリポリと掻いて、
「……親孝行しようっていう、おまえの姿勢に感心したんだよ。悪いか。俺自身そういうの苦手だから、素直にそういうの凄いなって思ったというか……俺はろくに親と会話したことないし」
「……」
「なんだよ。何か言えよ」
「……いえ、先輩可愛いとこあるんですね」
「どういう意味だよ?」
「そのまんまの意味ですよ」
都はおかしそうに笑って、弁当箱の卵焼きを摘む。
「はい、先輩、あーん」
「……急にどうした?」
「いえ、なんかご飯奢ってくれるみたいなんでお礼です。こうした方が先輩は約束を反故にしないかなという打算ありきなので、遠慮せずにいってください」
突き出された卵焼きは本当に美味しそうで、ただそれ以上に間接キスの危険性に、俺は困惑した。
◇
五月二十五日の業務が終了した。
夕刻、俺と都は揃って会社を退勤する。
夜の帷が降りていく街並みを、揃って歩いていた。
「ところで先輩、何を食べに行くんです?」
「何が食べたい?」
質問に質問で返すようで悪いが、俺は女性のエスコートが大の苦手なのである。オシャレな店は知らないし、よく行く店など片桐や冬海に教えてもらうばかりで、それに一人で行く店もファストフードとかばかりだし。あとはラーメン屋くらいならものだろうか。
「私が決めちゃっていいんですか?」
「あぁ、いいんじゃねぇか。俺が言ってるんだし」
「……図々しいとか、思ったりしません?」
「おまえ今更何を怖気付いてるんだよ?」
急に控えめな性格になる都に、俺は怪訝な顔をする。
それがあまりにも普段の彼女らしくなくて、元気がないように見えるというか。
都はおずおずと小さな声で提案する。
「……それじゃあ、焼肉とか」
「ん。じゃあ、行くか」
二人で夜になる街を歩き、よく行く焼肉屋を目指す。
そうして辿り着いたのは、全国チェーンを展開する焼肉店だ。
「何名様ですか?」
「二人です」
「二名様ですね。こちらへどうぞ」
店員に案内されて、店の奥へ。
ボックス席に二人向かい合って座ると、店員からの軽い説明が始まる。水はセルフ。注文はタッチパネルで。そう告げて、点火するとおしぼりを置いて去って行った。
「ここって食べ放題とかじゃないんですね」
「一皿注文ごとに金取られるタイプの店だな。金はかかるけど、そういう店の方が美味いし」
俺の言葉を聞きながら、都はタッチパネルに視線を移す。
「好きなもの頼めよ」
さっきみたいに遠慮しそうだったので、タッチパネルを取り外して手渡してやる。そうしてようやく都はメニューを見始めた。
「いっぱいありますね。先輩は何を頼みます?」
「俺はウーロンハイかな」
「……それじゃあ、私はピーチサワーにしようかな」
飲み物をリストに入れる。決定ボタンを押して、注文を送信した。
「お肉はいろんなのありますね。先輩は何食べるんですか?」
「イチボとミスジ、あとホルモン入れといて」
「わかりました」
都は次々と商品をリストに入れていく。品定めをして、何事か悩んだあと、注文の確定ボタンを押した。
しばらくして、まずは最初に注文した飲み物が届き、肉が届き、サラダが届く。
渇いた喉を潤すために、ウーロンハイを口にしてほっと一息。
「……どうした?」
「いえ、こういう時、乾杯しないのかなって」
「好きに飲めよ。したがるやつはいるけど、おまえしたかったの?」
都は曖昧に苦笑いして、困ったような顔をする。
俺はその様子に、ちょっとだけ罪悪感を抱えながらグラスを掲げた。
「それじゃあ、乾杯。–––よくここまで頑張ったな」
「……はい」
どこか嬉しそうにグラスを合わせ、都が微笑む。
少しだけ緊張の解けた姿に、俺も安心して肉へ意識を向ける。
牛脂を塗り、ミスジを網に載せた。
肉がジュージューと焼ける音が響いて、その音にだけ耳を傾ける。若い女の子と何を話していいかわからないが故に。
「……」
「……」
俺はトング。肉を焼く係。余計な感情はいらない。
そう自分に言い聞かせて、この難局を乗り切ろうとした。
いや、仕事の話なんてどうだろうか?
仕事が終わって仕事の話をする上司なんて、嫌われる理由筆頭な気もしなくもないが、なにせ話す内容がない。
「あー、その、なんだ。仕事は慣れたか?」
「急にお父さんみたいなこと言い出しましたね」
「お父さんなら“仕事は上手くいってるか?”じゃないか。いや、どっちも似たようなもんだけど」
「大丈夫ですよ。慣れましたから」
「そうか。それならいいんだが、困ったことがあれば言えよ」
「そうですね。頭の片隅にでも入れておきます」
反面焼けたミスジをひっくり返し、再び肉を監視する作業に戻る。
「……」
「……OK。わかった。仕事の話はやめよう。何か俺に聞きたいことないか?」
無言の圧力を感じて、俺は早々に音を上げる。すると都は改まって、
「それでは僭越ながら」
と、咳払いをした。
妙にドキドキする。いや、上司の収入聞いてくるくらいだから、どんな質問がきてもおかしくはないが。どんな質問がくるのか。戦々恐々と構えていると、その唇から解き放たれたのはとても奇妙な質問だった。
「–––先輩って彼女はいますか?」
その質問がされたことを理解するまで、たっぷり数十秒。具体的にはミスジが焼けるまで硬直する。
「先輩、お肉焼けてますよ?」
さっきの質問がなかったことのように振る舞う彼女に、慌てて肉を取り皿に分けて、そこでようやく質問されたことを自覚した。
「いや、なんて?」
「先輩って彼女いるんですか?」
どうやら聞き間違いではなかったらしい。
女の子はいつだって恋バナが好きなのだろうか?
「いや、いないけど」
片桐とは明確には恋人ではないし、冬海とはそういう関係になりそうもない。事実、二度失敗しているのだから。
「そうですか。じゃあ、結婚は?」
「俺の左手見てわかる通りしてないよ。強いて言うならピナが恋人かな」
「気持ち悪いですね。先輩」
「普通に心に刺さるから冗談を真に受けないでくれないかな」
「半分本気だったでしょう」
「まぁ、否定はしないけどな」
追加の肉を網に載せる。その間に、焼けた肉を口に放り込んだ。
「それにしても先輩は独身ですか。よかったです」
「それはどういう意味ですかねぇ?」
ちらりと正面の都に視線を向けると、彼女はなんとも言えない表情を見せていた。緩く微笑むようなそんな顔を。
普段のイタズラっぽい表情とは違って、女性らしい魅力が詰まった一面に俺は面食らってしまう。
「あ、もう、何見てるんですか?いやらしいですね」
「なんで顔見るだけでそんな謗り受けなきゃいけないんだよ」
憤慨と共に口に放り込んだイチボは、甘い味がした。
面倒見のいい先輩と生意気な後輩ちゃんの図