「……あれ、言ってませんでしたっけ?今日は帰りませんよ、私」
ピナに夜ご飯の魚を与えたあとで、都に「いつ帰るか?」聞いた答えが、予想だにしない一言だった。
「いやいや、なに言ってんのおまえ?」
「先輩の家に泊まるって言ってるんですが」
「仮にも男の一人暮らしに、女性が泊まるっておまえ何言ってるかわかってんのかよ?」
膝の上に乗せたピナを撫でながら、俺は困惑する心を落ち着かせる。嘴で戯れついてくるピナのおかげで、平常心は辛うじて保てている。
そんな俺に対して、都は確信犯めいた蠱惑的な微笑みを浮かべて、帰らぬ意思を主張するように椅子から動かない。
「仮にも俺だって男だし、何もしない保証があるわけでもないんだぞ」
「え〜、先輩、私に何かしちゃうんですか?」
顎に指を当てて、あざとく流し目を送ってくる。
一瞬ドキッとしたが、ピナの硬質な嘴を触っていると落ち着けた。
「……まぁ、別に。先輩になら、なにをされても構いませんけど」
そう言い切ってしまう都。その頰は僅かに赤く、冗談ではない真実味が含まれているような気がして、俺は内心狼狽した。
「……仮にも教育係の俺が、指導する社員に手を出したなんて知れたら……」
桜ちゃんが怒るだろう。間違いなく。正座させられてお説教コースだ。
「……何もしないっての。ただ危険性ってものを理解しろって話で」
俺が手を出さなければいい話である。そう結論づけて、俺は問題を放り投げることにした。
「それじゃあ、お言葉に甘えて泊まっていきますね。この時間に車を出させるのも憚られますし」
宿泊を勝ち取った都は、勝ち誇った微笑を浮かべる。
「……それで、お風呂はどうする?」
「先輩からどうぞ。先輩が私の入ったあとのお風呂のお湯を飲みたいなら別ですが」
「飲まねぇよ!」
一言多い都に辟易としながら、ピナを床に下ろす。するとピナはスキンシップの終わりを悟ったのか、おとなしくシェルターへ帰って行った。
「……ん、じゃあ俺は風呂入ってくるから。適当にテレビでも見とけ」
「はい。それではお好きにさせてもらいますね」
リモコンを出して、リビングのテーブルに置いておく。
にこにこと微笑みを絶やさない都に見送られて、俺はリビングをあとにした。
自室の衣装ケースから服を取り出し、脱衣所へ赴く。
リビングは思いの外静かで、テレビの音すら聞こえてこない。
最近の若者といえばスマホ中毒と呼ばれるくらいスマホに依存しているので、家族に連絡を取ったり、ネットサーフィンでもしているのかも知れないが、静かさというのは妙な不安を煽る。
「……そういえば、休日とか何やってるんだろう」
今更ながら、俺が都について知っていることは少ない。
話をするにも俺のことばかり聞いてくるので、聞く機会がなかったというか、話を聞くのが上手というか、話を聞き出すのが上手というか。
話を繋ぐために、聞き返したこともある。が、それは姉と出掛けたり、家事をするといった内容で、ごく普通にありふれたものだった。
だからこそ、一人になれば何をするのか。
彼女は、そんな話をしない。
考えてもわからないので、ピナが構っているか、構われているか、自由に過ごすだろうと決めつけて思考を放棄する。
「さて、もうさっさと風呂に入ってデザートとやらを拝むとしますか」
諦めて、脱衣所で服と共に思考を放棄。浴室へ突入した。
風呂椅子にお湯を掛けて、そこに座る。
頭からお湯をぶち撒け、シャンプーを二度ほど乱暴に手へ出して、豪快に頭を掻き回す。
するとさっきまでのモヤモヤとした考えが、掻き混ぜられて泡となって消えていく。
全部を泡と共に洗い流せば、多少はすっきりした。
「……はぁ、しんど」
しかし、精神的な疲れは表面化してしまった。おまけに一週間分の身体の疲れも重なって、お湯の熱さに力を吸い取られていくようだ。
「もういっそ誰か俺の身体代わりに洗ってくれねぇかな」
「いいですよ?」
–––絶対に聞き届けられるはずのない願いが、背後にいる誰かによって受理された。
「うわぁっ!?おまえいつからそこに!?」
「先輩が頭を洗っている最中です」
驚いて振り返ったら、都がタオル一枚のすっぽんぽんで立っていた。
その彼女は胸元のタオルを押さえながら、静かに浴室へと足を踏み入れて、そっと背後に立った。
「せ〜んぱい♡」
そのまま背中に撓垂れ掛ると美乳とも呼ぶべき形の良いそれが、背中に押し潰されるように形を変える。
「ちょっ、おま、当たって–––」
「当ててるんですよ」
抱きつくような形で撓垂れる都が、背中越しに覗き込んでくる。そして、その顔が見下ろすと同時に真っ赤になり、硬直してしまう。
「……え、あの、こんなに大きいんですか!?」
うちの愚息と初対面した都が、恐れ慄いたように身体を強張らせ、僅かにへっぴり腰になる。
「……」
それでも目を逸らさず、興味津々に人の下腹部を見つめる視線は固定されたまま。
「……でも、えっと、私の身体にそれだけ興奮してくれたっていうことですよね?」
気を取り直して、状況的に鑑みるとそれは悪くない結果だと言わんばかりに、愛おしげな視線へと変わっていく。
「おまえなんで入って来たんだよ」
「……だって、先輩が私のこと女性として意識してないみたいだったから、都ちゃんの抜群のプロポーションというやつを見せてやろうと思いまして」
上がり過ぎた心拍数を隠すように問い掛ければ、彼女は拗ねたようにそう言う。
「この状況わかってるか?猛獣と兎を同じ檻に入れたみたいなもんだぞ?」
「……わかってますよ。先輩の方こそわかってますか?私がこんなことする意味を」
「……美人局?」
俺が現実逃避気味におバカな回答をすると、ぎゅうっと抱き締める力を強くする。
「–––不正解です」
その言葉と共に、頰に柔らかな感触が襲う。
一瞬だけの接触に、キスをされたと自覚したのはその数秒後。
「これじゃあ子供っぽすぎましたか。それなら–––」
唖然として、まったく動けなかった俺に追撃が襲い掛かる。
這い寄るように前に来た都が、すっと前から抱きついてくると、そのまま唇を押し付けてきた。
「–––これで、どうですか?私の気持ち、伝わりました?」
甘く蕩ける瞳が、熱情を持って向けられる。
それは尊敬する先輩とか、上司としてではなく–––別の感情を秘めた想いが込められていて。
こちらから手を伸ばしてしまいそうなほど、魅惑的で、退廃的、人をダメにする蠱惑的魅力があった。
「……それは、まぁ、いや、でも……だいぶ歳も離れてるだろ」
「歳なんて関係ありませんよ。私にとっては兄くらいの年齢差ですし」
「いや、それにしたってなんで……」
わからない。どうして彼女がここまでするのか。
歳が十も離れていて、ただの上司でしかない俺に。
彼女なら、相手は選び放題だろう。
イケメンとか、将来有望なエリートとか、伝手を辿るまでもなくあっちの方からやってくる。
実際、彼女は口説かれているところをよく目にする。いつも「好きな人がいますので」と断っている姿も。
「そうですね。わからないのは無理ないですよ。一目惚れして、勝手に燃え上がって、話してみて、勝手に好きになったのは私なんですから」
息も掛かるくらい近い距離で、彼女の睫毛が緊張で震えたのがわかった。
「–––だから、先輩はただ私を受け入れてくれるだけでいいんです」
その震えは肩に、腕に、指先に伝わり、巻かれたタオルに掛けられる。そうして引っ掛けた指が、留められたタオルを解き–––、
「……たくさん味わってくださいね?」
はらりと剥がれ落ちると、抜群のプロポーションが惜しげもなく晒されてしまう。
襲い掛かってきた後輩の甘美な誘惑に抵抗できるはずもなく、俺は極上のデザートを味見してしまうのだった。
◇
ちょっと冷静になったのは、賢者タイムがやってきたあと。
『やっぱり指導する女性社員に手を出すのは不味い』と理性に訴え掛けた、頭の中の賢者に引き止められてから。
本番はしていない。–––してないけど、準ずる行為はした。
罪悪感と背徳感に引き留められながら、よくもまあ思い留められたものである。
「……危なかった。賢者タイム様々だな」
さすが賢者様である。ヒーローは遅れてやってくる、とは言うが遅過ぎないだろうか?
「……今のうちに冷静になろう」
髪を拭き、身体を拭いて、逃げるように出てきた。
おかげで用意した服は脱衣所だし、戻る頃には脱衣所にあいつが待ち構えているだろうし。
もし、もう一度、誘惑されたら……賢者先生では太刀打ちできないかもしれない。
「さっさと寝ちまうか」
風呂場で一悶着あったおかげで、すっきり眠れそうである。うちの愚息は元気だが。
–––そう思い、適当にパンツを引っ掴んだ、その時だった。
「先輩、なんで途中でやめちゃうんですか?」
寝室の扉から、ひょこっと可愛らしい顔が覗く。
まだ髪が濡れているのかしっとりとした色気を放つ、都の顔が。
「自分だけ気持ちよくなって逃げちゃうなんて、酷くないですか?私初めてなんですよ」
そう言って、寝室のドアを開けて入って–––、
「おまえ何その格好?」
その身体に纏っているのが、普通の服ではないことに気づいた。
何処かで見たブレザー、ワイシャツ、スカート。絶対領域を演出するのは、ニーハイソックスを穿いた脚だ。
それを総称するなら、何処かの学校の制服–––それも俺が通っていた高校の制服だった。
「私が高校の時に使っていた制服です。先輩は一度、目にしているはずですが」
「俺が一度、見ている……?」
「思い出しませんか?–––冬の日なんですけど」
「–––あ、おまえあの時の……っ」
微かに覚えがある。一度、見た記憶が。
「ようやく思い出したみたいですね。まぁ、それだけじゃないんですけど。今はそんなことどうでもいいです。先輩も今はそんなことどうでもいいようですし」
そう言って、彼女がまた俺の下腹部を見つめる。
愚かな息子と書いて、愚息–––。
愚直な息子だったろうか–––、いや、そんなことは今はどうでもいい。
「おかわりなんてどうですか?」
都は指先でスカートを摘み上げ、挑発的な笑みを向けてくる。
そこまでされて、俺の中で何かがぷっつりと切れた。
「–––きゃっ!?」
ベッドの傍に立っていた都の腕を掴み、そのままベッドに押し倒して、馬乗りになる。
「……あの、先輩?」
「そこまでしたんだ。覚悟はできてるんだろうな?」
「え、なにか怒らせちゃいました?」
「……おまえの望み通り、たっぷり味わってやるから覚悟しろよ。何度もおかわり自由なんだよな?」
「いや、そこまでは–––っ!」
散々煽ってくれた都には、朝までたっぷりお仕置きしてやった。
次回、たぶん回想です。