高校生活最後の夏休み直前、私の前には一枚の紙があった。
記入欄が白紙のままであるそれには、『進路希望調査表』と書かれている。
提出期限は明日、三者面談にも使用する。
それでもまだ白紙なのは、私自身迷いがあるからだ。–––否、迷うどころか未来への展望すらない。
私にはやりたいことがなく。なりたいものがなく。就きたい職業があるわけでもなく、進学したい学校があるわけでもない。
それは私という人間が、何もない空虚な存在であることの何よりの証左である。
「はぁ……」
何度目かわからないため息を吐き、机に突っ伏して窓の外を見た。
何処かの部活の掛け声と、バットがボールを弾く金属音、ボールの跳ねる音が、教室にも届いている。
何かに夢中になれることが羨ましくて、煩わしくて、もやもやとした感情を振り払うようにペンを置く。
「どう?進路希望調査表書けそう?」
放課後、私以外誰もいなかった教室に女性の声が響く。
声がした方に顔を向けると、教室前方の扉から担任の黒川先生が入ってきた。
黒川先生は、教師である以前に、姉の幼馴染だ。
私からすれば、もう一人の姉のような存在で、割と気軽に接することができる教師だ。
「……取り敢えず、進学?」
その進学先も、まだ決まっていない。
それどころかこのまま進学していいのかも、私にはわからない。
袋小路に入り込んだ気分で、私は机に突っ伏したまま、隣の席に座る鈴音姉を見る。
「あらら」
私の心情などお見通しといった様子で、鈴音姉は頬杖をついた。
「まぁ、いいんじゃない。まだ悩む時間はあるわけだし」
「教師がそれでいいの?提出期限明日だよ?」
「いいのいいの。取り敢えず、進学ってわかってれば、受験勉強はできるでしょ。それにそれは都ちゃんの進路で、急かしてどうにかなるわけでもないしね」
口煩い父と違って、鈴音姉は楽観的に「悩め」と言う。
その言葉に、私は少しだけ救われた気がして、進路希望調査表を再度見つめた。
「……ねぇ、鈴音姉はなんで教師になったの?」
私自身、なんでそんな質問が口から出たのかわからない。
聞いてみたいという純粋な気持ちじゃなくて、興味とも違う何か別の理由があって、ただそれを言葉にするのも難しくて。
今の私は、一本の糸が複雑に絡み合ったみたいに乱雑で、酷く歪な思いを抱いていた。
苦しくて、言葉が出ない。
私の今の状態を、なんと呼べばいいのか。
それすらもわからず、私は–––。
何処に向いて、何処に立っているのかも、わからなくなってしまう。
「なんで教師になったのか、か……」
鈴音姉は、グラウンドで部活をする野球部を眺めて、その視線を私の方へ向けてきた。
「私が教師になりたいと思ったのは、教えるのが楽しかったからかな」
「教えるのが、楽しい……?」
「そう。昔、都ちゃんや京介君に勉強を教えたことがあったでしょ。それが楽しくて、私そういう仕事に就きたいなって思ったの」
そう言われて、納得できるかと言われれば、よくわからないとしか言えなかった。
「そっか……」
「参考になりそう?」
「……いや、まったく」
教えてもらっておいて、私はそんな言葉を返してしまう。
「あら、まだあなたここにいましたの?」
急遽始まった二者面談に、新たな参加者が。
凛と響き渡る高貴な声は、聞き慣れた親友のもので、その声の主は迷わず教室の中に入ってくる。
米倉財閥のご令嬢–––米倉翠。生粋のお嬢様だ。
いつも悩みなどない、といった様子で自信満々で、でも間違ったことは素直に謝るところが逆に愛おしい私の友達。
「帰ってなかったんですか?」
「少々、忘れ物がありまして。まぁ、忘れたと言っても、物を忘れたわけではなくて、招待するのをですけど」
「招待?」
翠ちゃんは扇子を広げる。パタパタと自分を仰ぎながら、彼女は続けた。
「この夏、お姉様が起業することになりましたの。その祝賀会ですわ」
「あれ、翠ちゃんのお姉さんって大学生だよね?」
「そうですわよ。でも、学生が起業するだなんて珍しい話ではないですわよ」
大学生である翠ちゃんの姉が起業。途方もない話に私は驚嘆した。
米倉財閥のご令嬢なら、父親の会社の一部の経営を引き継ぐという方法もあったのに。
翠ちゃんも将来的には会社の一部を担うと聞いていたから、彼女の姉の桜さんだってそうだと思っていたのだ。
それが起業。どうしてそうなる。
「話を戻しますわよ。その祝賀会にあなたを招待したいって姉が言ってましたの」
「いやいやいや、私場違いじゃない?」
「基本的に身内やお姉様のお友達しか参加しませんわ。そういう大人の社交は別の日にパーティーを開く予定ですから」
それなら私も参加していいのか。
桜さんとは、面識がないわけではない。
お祝いもしたい。それに–––、
「ついでに起業した本人に話を聞いたりすれば、あなたの悩みも晴れるのではなくて?」
そういう事情もあって、私には断る理由がなかった。
◇
高校生活最後の夏休みが始まった、数日後。
夜から行われるというパーティーに参加するため、私は米倉邸へと遊びに来ていた。
未だに場違いな気はするものの、来てしまったものは仕方がない。全力で食事を楽しむ所存である。
「それでなんでドレスアップが必要なんですか?」
「淑女たるもの美しく魅せるのは当然でしてよ」
そのパーティーが始まる前、私は米倉のメイド達の手によって生涯着ることはないと思っていた高級なドレスを着せられていた。
今の私は私服ではなく、何処かの令嬢も斯くやという真紅のドレスを身に纏い、それに見合った化粧もさせられていた。
「さぁ、もうパーティーは始まってますわ。行きますわよ」
淡い黄緑色のドレスを纏った翠ちゃんが、先導するようにずんずんと先を歩いていく。高いヒールを履いているのにものともしないのは履き慣れているからか、転ける様子すらない。
「はぁ……」
普段なら嬉しい着飾るという行為も、今は何故だか楽しめない。
私は彼女より少し浅めのヒールでなんとかバランスを取りながら、あとを追いかけた。
パーティーをやっているのは、米倉邸の大広間。
そこには既に数十人ほどの参加者がおり、私達は一番最後にやってきたようである。
入室した途端、様々な視線がこちらを向いた。
それはなんというか値踏みする視線というか、おそらく普通に生きていれば味わうことのない視線だったような気がする。
私が普段異性から向けられるものとも違い、奇妙な感情が湧いた。
「さぁ、まずはお姉様に挨拶しに行きますわよ」
振り回される私の感情を知らずして、翠ちゃんは先に進む。
むしろそれが今はありがたく、私は彼女の背に隠れるようにして桜さんのいる場所へと向かった。
「お姉様!」
「あら、翠ちゃん。……それに、まぁ!そちらの女性は都ちゃんですか?」
妹の呼ぶ声に振り返った桜さんが、妹を見てから私に視線を移す。そうしてその顔が、本当に嬉しそうな微笑みを浮かべる。
「えっと、お久しぶりです」
「随分綺麗になりましたね。元から可愛いと思ってましたけど、とてもドレスが似合っていますよ」
「あ、ありがとうございます……」
本当に綺麗なのは桜さんの方だ。翠ちゃんも綺麗な方だとは思っていたけど、桜さんは大学生故か大人っぽい色気があってより綺麗に見える。
そんな人に「綺麗」と言われるのは、少し気恥ずかしい。
「えっと、この度は起業おめでとうございます」
「いいんですよ。そんな硬くならなくて。私達はいずれ義理の姉妹になるんですから」
「京介様とわたくしが結婚しますものね!」
高笑いしてそういうこと言わないで欲しい。ほら、他の人の見る目がなんか別の意味で変わってる気がするから!
そんな私の無言の訴えが届いたのか、急に翠ちゃんはすんっと真顔になる。
「それはさておき。お姉様のお話をお聞かせください」
「話ですか?」
「ええ。都が進路に悩んでいるんですの」
「なるほど……」
多くを語ったわけではないのに、桜さんは得心を得たと言わんばかりに頷いた。しかし、すぐに彼女はゆるゆると首を横に振る。
「でも、それなら私ではなく、あの二人の方が力になれると思いますよ」
代わりに示したのは、会場の隅の方で一緒になって大量の料理を食べている若い男女。
「……あれ、お姉様のお友達–––信用している部下ですわよね?」
「はい。私のお友達です!」
「……なにをしてますの?」
「大人の社交場では、好きに飲み食いできないから、ここで腹いっぱい食べるって楽しんでいるみたいですね」
「……本当になにをしていますの……」
呆れた様子で、翠ちゃんが二人を見る。
私も大人が全然大人っぽくなくて、ちょっと面食らってしまった。
でも、何故か–––男の方から目が離せない。
以前、何処かで会ったような気がするのだ。何処でかは思い出せないけど。
「まぁいいですわ。行きますわよ、都」
「……」
「……都さん?」
「–––え、あ、なんですか?」
視線が逸らせなくて、じっと見ていると急に肩を叩かれた。そこでようやく視線を逸らすことができた。
そんな私を怪訝な表情で見た翠ちゃんは、首を傾げて心配する。
「どうしたんですの?あなたらしくもない」
「いえ、なんだかあの人……前にも何処かで会ったような気がして」
「男の方ですの?」
「……はい。そうですけど。なんですかその目は?」
「ふふっ、あなたが男に興味を持つなんて珍しい。一人で行ってきなさい」
「ちょっ、私一人で行くんですか!?」
慌てふためく私を、翠ちゃんはニヤニヤと笑いながら見ている。
「–––だってその方が面白そうですもの」
–––全然私は面白くない。
「……はぁ。わかりました。行きますよ。行けばいいんでしょう」
全然納得していないけれど、言われた通り一人で米倉姉妹の傍を離れる。そして、その人の近くに立って、隣の椅子に座れる距離まで来た。
『–––隣いいですか?』
たった一言、そう言うだけなのに。
何故か、言葉が出なかった。
手が震えて、脚が震えて、前に踏み出せない。
こんなこと初めてで、どうしたらいいのかわからず、ただ背後に立つという不審な行動をしてしまう。
–––人見知りなんて、らしくない。
私はどうしてしまったのか。自分で自分がわからなくなってしまう。
「……ん?」
すると私が動くより先に、男の方が気づいた。
もっきゅ、もっきゅと何かを食べている。ハムスターみたいに頰を膨らませて、いったい何を咀嚼しているのか。
咀嚼を終えると、ごくん、と飲み込んで–––、
「すっげぇ美人だ」
–––と、一言呟いた。
頰は赤く、ちょっと酔っているよう。
テーブルにはお猪口があって、日本酒を飲んでいるようだ。
それがわかっていても、少しだけドキッとした。
彼の言葉に、私の心は弾んでしまう。
「……隣、いいですか?」
「ん、あぁ、どうぞ」
彼はすぐにこちらに興味をなくして、食事に戻る。
結局その日は、私は彼に話し掛けることができず、ただ美味しそうに料理を食べる彼を見つめているだけで終わってしまった。
後編に続く