「ただいま」
三月末頃、私はここしばらく体調が悪くて、先輩の家ではなく実家に帰っていた。
玄関に入ると珍しくくたびれた父の靴を見つけて、ちょっとだけうんざりした表情を浮かべてしまう。
普段ならまだしも、今は本当に体調が悪くて父のうざ絡みが嫌だったから。
先輩の家に逃げようかな、なんて考えたけど、もし変な病気だったら移したくない。普段から何度もキスをして、体を重ねているから今更だけど。
諦めた私は靴を脱ぎ、家に上がるとリビングへ。
すると予想通り、リビングには両親と姉が揃っていた。
「ただいま」
「おかえり都!我が愛しのマイスウィートエンジェ–––」
「お父さん煩い。体調悪いから静かにしてください」
「そ、そうか。病院は行ったか?」
「別にそれほど体調が悪いわけじゃないし、寝れば治ると思うから別に」
こういう時、父は冷たくされた方が煩くならないので、私は長年の経験で培った父の取り扱い説明書に従い冷たくあしらう。
すると父はリビングのソファーに殊更深く沈み込んだ。
「あぁ、それとお父さんおかえり。出張から帰ってたんだ」
昨日は私は先輩の家に泊まっていたので、父がいつ帰ってきたのか知らない。改めて父の帰宅を祝うと嬉しそうに父は笑った。
「あぁ、ただいま。本当は明日の予定だったんだがね。家族に早く会いたくて仕事終わりに新幹線に飛び乗って今日帰ってきたんだよ」
相変わらず父の無駄な行動力の凄さには舌を巻くけど、今の私には父の話し相手を長々とするほど体力はない。
キッチンで料理している母と姉の姿を見つけて、私はダイニングテーブルの方へ避難することにした。
「ただいまお母さん、お姉ちゃん」
「おかえり都。今日はあっちじゃないのね」
「むしろ体調悪いなら帰ってこない方が良かったのに」
姉の辛辣な父の扱いにも年季が入っており、私と姉は顔を見合わせると苦笑した。
「もうすぐ夕飯できるから、座って待ってなさい」
「うん。……あと、私少しでいいから」
「わかったわ」
いつもなら私が手伝うことを見越して、母が心配そうな顔をしながらそう言ってくれる。お言葉に甘えて私は椅子に座ったまま料理ができるのを待った。
それから十分もしないうちに、できた料理を母と姉が運んでくる。
そのタイミングで、ソファーでゆっくりしていた父もダイニングへやってきた。
「それじゃあ食べましょうか」
いつも通り「いただきます」と合掌して、唱和する。
箸を手にして、私はまず味噌汁に口をつけた。
どこか薄味で、体調の悪い私に気遣った味付けにされたそれは、白味噌で味が纏められていた。
「……」
–––美味しい、とは思うけど味噌汁だけでも十分だって身体が訴えている。
それでも少しは食べないと、そう思っておかずに手をつけた。
ごはんと一緒に無理やり味噌汁で流し込もうとして、ふと喉を込み上げてきた吐き気に口を抑えた。
「–––うっ!?」
そのままトイレへと駆け込み、込み上げてきたものを吐き出す。さっき食べたものと胃液が一緒に出てきて口が酸っぱくて嫌な気分になってしまう。
「はぁ……はぁ……っ」
「大丈夫?都」
掛けられた声と一緒に、背中を優しく撫でられる。
母の声に少しだけ安心して、私は気持ちが軽くなった。
「……ん。大丈夫」
「他に症状はない?倦怠感とか、微熱とか。あとはそうね、生理が遅れてたりとか」
母の言葉に思い当たる節があって、つい驚いた顔をしてしまう。そんな私の顔を見て、母は確信したように断言する。
「都、あなた妊娠してるわね」
「え……?」
確証があったわけじゃない。だけど、母にそう言われて私の胸にストンと落ちた言葉は、事実として嵌る。
「そっか……私、妊娠しちゃったんだ」
言葉にすると現実がより近づく気がする。
お腹に手を当てて、私は確かにそこに何かを感じていた。
◇
翌日、予約を取って産婦人科に行った。
昨日も念の為に市販の検査薬で検査をしたけど、結果は陽性だった。
それで色々と医者と話をして、家に帰ったのは昼過ぎ。
そのまま私はベッドに倒れるようにダイブして、毛布を巻き込み蹲る。
「……私、妊娠しちゃったんだ」
医者からも太鼓判を押されて、言葉にしてようやく実感が湧く。昨日はまさかという思いで、今日は確信を得た言葉で。
同時に私は不安を覚えて、そのままぐるぐると毛布に巻かれていた。
「……先輩、私が妊娠したって言ったらどういう顔をするかな」
子供ができて嬉しいとか、先輩は思うだろうか。
そもそも私と先輩は付き合ってないし、まだ夫婦でもないし。
本命は冬海さんで、私じゃない。
そのことが重く、私の心にのしかかる。
「先輩には他にも女の人がいて、代わりはいくらでもいて、妊娠した私なんて……」
–––捨てられてしまうのではないか、という不安が私を襲う。
そう思うとお腹の子が忌々しく思えて、自己嫌悪に陥る。軽率だった私を呪ってしまう。
ハロウィンの日、ゴムにこっそり穴を開けたことが原因だろうか。
–––あの時は『お菓子くれなきゃイタズラしちゃうぞ』のイタズラに掛けて、ちょっとしたイタズラのつもりだったのだ。
クリスマスの日、避妊せずにしたことが原因だろうか。
–––あの時は特別で、ゴムに比べれば安全性は下がるけど、薬だって飲んでいたし、他の人だって条件は同じだった。それに一番濃いのは抜け駆けされたし。
他にも正月とか、バレンタインとか、色々心当たりはある。
先輩に求められるまま、その欲望を体で受け止めてきた。私自身嬉しかったし、それこそ先輩に好かれるためなら生でもヤった。一番に妊娠したら特別にしてもらえると思ったから。
だけど、でも、今は喜びより、先輩に捨てられるかもしれない恐怖が勝ってる。
先輩はそんな人じゃないのに。何故か、不安が止まらない。
私の心を暗闇に引き摺り込もうとする。その声が、耳の奥で鳴っている。
心を爪で引っ掻き、傷つけて、傷ついて。
それが自分の爪だと理解して、自分の声だと自覚して、私の心はぐちゃぐちゃに掻き混ぜられる。
「……」
密かに堕ろすか。
悪魔が囁いたところで、私はスマホを開いた。
今朝貰った心配するメッセージ。
それに対して、気が動転して送った冷たい言葉でやりとりは終わっている。
「こうやってメッセージにして報告した方が、いいのかな……」
顔を合わせない方が気楽でいいとは言うけど、今の状況ではそう喜べるものでもなかった。先輩がどんな反応をするかこちらにもわからないのだから。
「明日……いや、明後日……」
そこでカレンダーを見て気づく。
四月一日は、エイプリルフールだ。
冗談めかして伝えてみよう。それでダメだったら、その時はその時で考える。そう思うと気が楽になった。
「先輩……」
私は毛布に包まれたまま、考えるのに疲れて眠りについた。
夕方、目を覚ました。
その頃には不安も幾分か解消できた。
よく考えれば、先輩が私を捨てるなんてあり得ない話だ。
恋は戦争、とは言うけれど、冬海さんはもし先輩が私を捨てればあの真面目さを考えれば逆に先輩を捨てる可能性もあるわけで、そんなことを先輩がするとも思えない。
寝てスッキリした頭で階下に下りると、既にリビングには家族三人が帰ってきていた。
「おかえり」
「それで都。改めて聞くけど、どうだったの?」
「……うん、四週くらいだって」
「四週?何がだい?」
「だから、都妊娠してるのよ」
「「えっ!?!?!?」」
姉と父が驚いた声がリビングに響く。
特に父は驚く通り越して顔面蒼白だった。
「そ、そんな……いつの間に……」
相手がいたことも驚きだが、妊娠していることにも驚きで、父の許容量をオーバーする情報だったようだ。
「そ、それで、相手は誰なんだ?何処のどいつだ!?」
危機迫る表情で叫ぶ父親の頭に、ぽこんと丸めた雑誌で殴りつけて物理的に母が諌める。
正直、こういう時の母親の存在がありがたかった。
「相手は会社の先輩。指導してくれた人で、私がその会社に就職する理由になった人」
「なぁにぃ〜!?指導係だと!?その男は、入社して間もない可愛い娘に手をつけたのかッ!」
「うん。いや、まぁ……そうなんだけど」
字面にしてみればなかなか酷い内容だ。他にも身体の関係を持っている女性がいるなんてとても言えない。
「そういえばその人って、年上なのよね?」
「うん。……十歳くらい」
「なぁにぃ〜!?十も歳上のオジサンだと!?」
「……それって私が三十にもなっても結婚できないおばさんだって言ってるのかしら」
「ち、違うんだ愛理。おまえはいくつになっても可愛い女の子だから、な?」
それから父は先輩に会わせろと、煩くなる。
当然母に聞いても同じ答えが返ってくるので、先輩を呼ぶことを余儀なくされるのだった。
以上、鹿島宅での出来事でした