いつも通り仕事を終えて会社を出ると、外は雨が降っていた。
ゴールデンウィークが過ぎれば、社会人が次に意識するのはこの季節ではないだろうか。
雨が降ると、濡れる。それが嫌で通勤が億劫になって、梅雨の時期は嫌いだった。
雨が降る音を聞きながら、微睡に目を閉じるのは最高なのだが、それはそれ、これはこれである。
家に帰ることに億劫になりつつ、パラパラと小粒の雨を降らし続ける曇天を見上げていると、ポケットに入れたスマホが揺れて誰かからメッセージが届いた。
傘を持っていた手から僅かにずらし、腕に傘を引っ掛けてスマホを取り出すと連絡主はやはりよく知る相手だった。
『ごめん。残業で少し遅くなる』
珍しく残業することになってしまったらしく、申し訳なさそうな絵文字まで文末につけられていた。
「さて、どうするかな……」
残業までしている愛理に夕食の準備を頼むのは酷だろう。かと言って、俺はそこまで料理が得意ではない。手際もあまり良くなければ料理のレパートリーも少ない。外食にでもするか。
そんなことを考えながら、傘をさした。
街には帰宅途中の学生や社会人達が帰路を急いでいる。
その流れに紛れて、俺も自宅へと急いだ。
ふと視線が駅前のケーキ屋に吸い寄せられる。
そういえば駅前のケーキ屋のケーキが美味しいらしいって、愛理が言っていた記憶がある。
たまにはいいかと思って、ケーキ屋に寄ってみた。
愛理が好きなケーキと、おすすめのケーキを合計四つほど買って店を出た。
愛理が喜んでくれるといいなぁ、なんて思って帰路を歩いているとほどなくしてマンションへたどり着いた。
自分の部屋がある階。その廊下で、不自然なものを見つける。
とある部屋の前で、背中をもたれさせながら制服姿の少女が蹲っていたのだ。
赤茶髪のサイドテール。制服もよく知ったもので母校の中学校のものだ。つまり、数駅は離れているはずだからここら辺の子ではない。
「こんなところで何してるんだ」
「あ、お兄さん。奇遇ですね」
「人の家の前で奇遇とか、そんなわけあるか」
少女が背にしているのは、俺の部屋だ。
嘯く少女をよくよく観察してみると、シャツが雨で張り付いて透けている。色鮮やかな下着までくっきりで、愛理と再会する前なら目のやりどころに困ったであろう。
少女はそんなすけすけの姿で、わざとらしく自らの体を隠すように抱きしめる。
「お兄さんのエッチ」
「そんな色気のない体で言われてもな……」
「確かに私はお姉ちゃんと比べて胸は小さいですけど、一応Cはあるんですからね!」
「どっちかっていうとギリギリC……B寄りのCだろ」
愛理は中学生の頃にはD寄りのCだったから、中学生の中ではだいぶ大きかったかもしれない。もしかしたら、中学三年の頃にはDはあったかもしれないが。それに比べるとやっぱり小さい。
「くちゅん!……それより風邪引きそうです。早く中に入れてください」
「あぁ、そうだな……」
普通、見知らぬ女子中学生を部屋に入れるのは抵抗というか世間体的にまずいのだが、知らない仲ではないので俺はあっさりと開錠して少女を部屋へ招くことを決めた。
「ニーソってこういうとこ不便ですよねー」
鍵を開けると少女は靴を脱いで部屋に入っていく。
濡れた靴下を脱ぎ捨てて、少女はちらりと振り返る。
そして、こう言った。
「それ、好きにしていいですよ」
「……俺にどうしろと?」
「男の人って女子中学生の靴下が好きなんでしょう?」
「誰だそんなこと言ったやつ」
「うちの弟のベッドの下にある、エッチな本ではたいていそうですが」
「忘れてやれ」
どうやら少女の弟とやらはベッドの下にお宝の類を隠しているらしい。
そんな極秘情報をこともなげに語って、少女は需要がないとわかるとニーソを回収して洗面所の方へと消えていった。そのあと、ひょっこりと顔を出して言う。
「お兄さん、シャワー借りますね」
そのままパタリと扉を閉じる。
その後、すぐに水を吸って重くなった衣服の衣擦れの音が聞こえてきた。
俺は洗面所を通り過ぎて、キッチンへ。
冷蔵庫にケーキを収めて、お湯を沸かす。
その間にタオルと着替えになりそうな服を探して、洗面所に置いておいた。しばらくするとシャワーの音が止んで、ドライヤーの音が聞こえてくる。
それをBGMに、ティーバッグで作るアールグレイの紅茶を作っていた。
「ありがとうございました」
「あぁ、ケーキ食う、か……ッ!?」
少女の方を振り返りつつ上げた声が素っ頓狂なものになる。
それもそのはず、少女は下着にワイシャツだけの無防備な姿で洗面所を出てきたのだ。
「おまえ用意した服は!?」
「ジャージは可愛くないので嫌です」
「羞恥心捨ててまでそんな格好するか普通!?」
「あれ〜?お兄さんさっき私の体貧相だって言ったのに意識しちゃってるんですか〜?」
「いや、そこまでは言ってないだろ……てか、その下着はどうした?」
「女の子は予備の下着を持ち歩くものですよ」
「そう、なのか……?」
悪戯っぽい笑みを浮かべて揶揄ってくる少女だが、僅かに頰が赤く羞恥心はあるのだろう。俺が経験もなければ気づかなかったし、もっと初心な反応があったかもしれない。
「それよりお兄さんケーキですよ。ケーキ。さっき持ってたのって、駅前のケーキ屋のケーキですよね!ひとつ五百円以上するすごく高いやつ!」
「あぁ、おまえ紅茶とコーヒーどっちがいい?」
「紅茶、砂糖を入れた甘いやつで」
「はいはい」
正面から少女の半裸を見ないようにしつつ、紅茶の準備をしてケーキを冷蔵庫から取り出す。フルーツをふんだんに使ったタルトを添えて、出してやると我慢しきれないといった様子でフォークでタルトを切り分けて、口に運んでいた。
「ん〜、美味しい!お姉ちゃん、毎日こんな美味しい思いしてるなんて狡いですッ」
「いや、別に毎日じゃないからな。今日はたまたま買ってきただけだ」
「そうなんですね。じゃあ、私はタイミングが良かったと」
自画自賛して再びタルトを口に運ぶ。
その姿はどこか歳相応で、微笑ましかった。
温かい紅茶を飲んで、ケーキを食べて。
夢中で堪能している姿は、やはりどこか似ている。
「それよりいいんですかお兄さん。名前も知らない女子中学生を家に連れ込んで」
「まぁ、問題はないだろ。なぁ、鹿島妹?」
呼び掛けると僅かに手が止まったが、少女は面白そうにこちらを見据える。
「へぇ〜、私のこと知ってたんですね。お姉ちゃんに聞きました?」
「双子の妹弟がいることは知ってたが、写真とか見せてもらったことないし、会ったのもあのショッピングモールが最初だぞ」
だから、半信半疑であったのだが“鹿島愛理の妹”で合っているらしく、少女は満足そうにタルトを口に運んでから、不満そうに唇を尖らせる。
「酷いです。お兄さん、私を弄んでたんですね」
よよよ、と泣く真似までしているがまったく悲壮感がない。
罪悪感も浮かばなければ、俺はそんな少女にこう言っていた。
「そういうおまえこそ人の家に押しかけてきて、弄んでいるのはどっちなんだか」
「あ、バレました?」
偶然を装って人の家の前に座り込んで、挙げ句の果てには上がり込んで、半裸でケーキを食べるとか。もし俺が変な人であれば大変なことになっていたであろう。
「というかおまえ、この前のショッピングモール俺と会ったのだって偶然じゃないんじゃないか?」
「いえ、あそこにいたのは偶然ですよ。受験勉強の息抜きに来ていただけで。そこまで疑うなんて心外ですね」
「ぐっ……すまん」
「まぁ、偶然お姉ちゃんを見つけたと思ったら男の人と仲良さそうに歩いていたので、これは何かあるなとつけ回したのは事実ですが。誤算だったのは尾行の最中にナンパされたことですかね」
少女–––鹿島妹は悪びれた様子もなく告白した。懲りた様子もなく人の家に押しかけてきているあたり、反省はしていないのかもしれない。
「しっかし、よく俺の家知ってたな。愛理に教えて貰ったのか?」
「いえ、一度帰ってきたお姉ちゃんが出掛けていくのを尾行して突き止めました」
「おいおい」
「だって、聞いたって教えてくれませんよ?名前でさえ知りませんし」
それは……家族には関係性を隠していた、ということだろうか。
俺自身曖昧にしているので、それも仕方のないことかもしれないが。
「そうか。じゃあ、改めて自己紹介でもするか。俺は藤宮直人」
「私は鹿島都です」
本当に軽い自己紹介だった。
お互いに知り合ってだいぶ経つが、今回が二回目。
それもやっと名前を知って、何かあるわけでもなく。
関係性は未だ、不確定。
それも愛理との関係性が不確定なせいなのだが。
「ところで、気になってたんですけど。やっぱりお兄さんとお姉ちゃんって付き合ってるんですか?」
「ん〜、友達以上恋人未満、ってとこかなぁ」
友達どころか恋人以上のことをしている気がするが、あくまでそういうことにしておく。すると少女が初めて驚き目を見開いた。
「えっ、お兄さんとお姉ちゃんって付き合ってないんですか!?」
「あぁ、まぁ、そうなる、かな……」
目を逸らしつつ頰を掻く。
愛理には悪いことをしているような気がするので、後ろめたい思いがないわけではない。
そんな俺に対して、都は面と向かって言い放った。
「お姉ちゃんに朝帰りさせておいて、まだ付き合ってなかったんですか!?」
バンッと机を叩いて、詰め寄るように身を乗り出す。
カップに入れた飲み物が波紋を描いて、それが静まったころに都はすとんと椅子に腰を下ろした。
シャツが乱れて、肌色成分多めの光景もさることながら、実にいい眺めではあるのだが。
これを愛理に密告されると困るので、体裁を守るためにも形だけでも目を逸らしておく。
「信じられません」
むぅ、と睨むように視線をぶつけてくる都に対して、俺は苦笑いするしかない。大切な姉が弄ばれているとでも思っているのか、すごく不満そうな表情だ。
–––と、するとあんな格好してるのもわざとで誘惑するような素振りも、俺を試しているのだろうか。
「まぁ、大人には色々とあるんだよ。色々と」
「へぇ〜、男の影も形もなかった姉を突然朝帰りさせた理由が、いろいろと」
責めるような視線に胸が痛くなるが、それで関係性が改善できるならとっくにしている。
俺は黙って冷めた紅茶を啜った。
「納得してくれとは言わねぇよ。文句があるなら受け付ける」
「……潔いですねぇ」
文句がありそうな顔をしつつも、タルトを食べ終えて満足そうに冷めた紅茶を傾けていた、その時であった。
「ただいま」
玄関が開いて、愛理が帰ってきた。
そのままぱたぱたと足音がして、リビングに顔を出す。
「ねぇ、直人。お客様でも来て–––」
「あ、おかえり。お姉ちゃん」
そして、リビングに入ってきた愛理が硬直した。
現実を受け止めるまでの数秒間、フリーズした彼女が再稼働を果たしてわなわなと震える手を上げて指をさす。
その先には、鹿島都。実妹の姿がある。
なんかこんな光景、俺も前に体験したなぁと他人事のように思い出す。
「な、なな、なななんであんたがここにいるのよっ!?」
「てへっ、きちゃった⭐︎」
都は悪戯が成功した子供のように、悪戯っぽい笑みを浮かべてそう言うのだった。