家事をしている間に、あっという間に夕方になった。
ご飯が炊けた音を炊飯器が報せるその音が、夕暮れで茜色に染まったリビングで鳴る。時間に合わせて温め直していたスープの火を止めて、私は二階へと視線を向けた。
「……」
今、この家には夫と京介がいる。
娘二人がいない我が家は少し寂しくて、私も直人君の家に住めたら……なんて考えが過ってしまう。
そのいやらしくも浅ましい願いを首を振って振り落とし、私は二階へと二人を呼びにいった。
まずは“あれ”を鑑賞しているだろう夫を呼ぶため、彼が籠っている書斎をノックした。
「……」
返事がないことを考えると、イヤホンかヘッドホンで音を遮断しているからか。その考えに至った私はそっと書斎の扉を開けた。
「〜〜〜ッ」
思った通り、夫はパソコンを使って動画を見ていた。私が他の男に抱かれる姿を食い入るように見つめている。耳にイヤホンを挿しているからノック音が聞こえなかったらしく、私は嫌な思いをしながらも夫の肩を叩いた。
「うわっ!?–––なんだ、志穂か。びっくりした……」
「あなた、ご飯よ。続きは後にして」
「……あぁ、わかった」
そう答える夫の顔は少しだけ翳りが見える。何処か元気がない姿にも気づいていたけど、私は気づかないふりをして書斎から出た。
「京介、ご飯よ!」
「…………はーい」
遅れて京介の部屋から返事が聞こえた。
私は一足先に、一階へと下りる。
あまりの疲労に適当に済ませたかった私は、夕食を簡単なカレーとスープとサラダにした。
カレーはほとんど煮込むだけでいいし、スープはコンソメの素を使えば簡単に作れる。サラダも水菜とツナの和えたもの。
育ち盛りの京介には申し訳ないけど、今の私にはこれが限界だった。
ちょうど配膳を終えたところで、二人がダイニングに姿を現して食卓へとついた。
「「「いただきます」」」
家族揃って合掌をすると、スプーンを手に取って各々の皿に手をつけていく。
私は先にサラダを食べるため、フォークをサラダへと突き刺していた。
「ごちそうさま」
一番最初に完食したのは京介だった。食べ終えた皿をシンクまで持っていき、軽く水で洗い流して水につけておく。
次に夫が夕食を食べ終えて似たような処理をして、再び籠るためか二階へと消えていった。
私は最後に食べ終えた。食器を全部洗って布巾で水滴を拭き取り、食器棚へと食器を戻す。そこには娘達の食器と直人君のために買った食器もあって、少しだけ寂しい思いが込み上げてくる。
「……あら、まだいたの?」
全部終わってこれからどうしようか。
そんなことを考えていた私は、まだリビングに京介がいたことに気づかなかった。
いつもならすぐに二階の自室でゲームをしているのに、今日は珍しくリビングでスマホを弄っている。そのことに驚いて声を掛けると、少し怪訝な顔でこんなことを口にした。
「……なんか親父元気なくね?」
「そうかしら?いつも通りだと思うけど」
私は知らないふりをして冷蔵庫を開ける。買い置きしてある冷蔵の珈琲をコップに注いで、リビングのソファーへと座った。
苦味が口の中を潤す中、京介の怪訝そうな視線は増すばかり。妻である私が気づかないはずがないことを理解しているのだろう。本当に人をよく見てるいい息子だ。
「なんつーか、昨日からそわそわしっぱなしだし、母さんが帰ってきてからもおかしいし」
子は親をよく見てるとは言うけれど、今日の京介は本当にそれだ。気づいて欲しくない変化によく気がつく。
「–––ってか、母さんもなんかおかしくね?」
普段通りにしていたはずなのに、京介にはそう言われて私の心臓はドクンッと跳ねた。
「なんていうか親父に素っ気ないし。……いや、素っ気ないことは割といつも通りだけど、なんていうかよそよそしいというか」
私自身気づかないようにしていたことを指摘されて、私は瞠目して息子を見てしまう。心の動揺が顔や仕草に出ないように私は必死で全神経を張り巡らせた。
「母さん古い友人の家に遊びに行ってたんだっけ?」
「ええ、ちょっと誘われてね。私がモテるものだから、あっちの旦那に手を出されないか気にしてたんじゃない?」
「……そうかな。なんていうか喧嘩してる時の雰囲気なんだけど」
喧嘩、と言われてストンと腑に落ちてしまう。確かに私があの人に不満を覚えているのは確かで、それが原因で心の距離が開いたのは本当だから。
「大丈夫よ。いつものことだわ」
「そう。なら、いいんだけど」
京介はそう言って、リビングを出ていった。
残された私は一人、嘘の苦味を珈琲と一緒に噛み締めた。
◇
その日から一週間後、また夫の出張が決定した。
今度は東北の方へ、支社に単身赴任だとか。
七月の始めから、長くても三ヶ月近く支社に勤めることになるらしい。
「すまない。また留守にする」
あの人はそう言って、また出張の準備をした。
あの日からずっと、彼とは殆ど目も合わないし、キスもしていない。それどころか普段していた抱擁さえも求めてこなくなった。
「家のことと子供達のことは任せた」
キャリーケースに必要なものを詰め込んでいく。
着替えと仕事に必要なものと最低限詰め込んだそれには、ノートパソコンとあのUSBメモリが入れられているのを確認した。
「あなた、それ絶対に失くさないでね」
「……あぁ、わかってるよ」
もしそんなものが流出なんてしたら、私は表を歩けなくなる。
そうなった場合は離婚しようだなんて、物騒な考えが脳裏を過った。
それから出張の日はすぐにやってきた。
「最後に娘達に挨拶をしておきたかったんだがな」
夫はそう言って、出張に行くのを渋る。
「仕方ないじゃない。愛理は仕事で忙しいんだし、都もバイト忙しいみたいだし」
なおもう一人の息子といえば、「出張?あ、そう」くらいの反応だ。既に部活へ行っており今はいない。
「……それじゃあ、行ってくる」
こうして夫は、一人出発した。
私には「寂しい」「離れたくない」の一言も掛けず、いつも通り娘のことばかり。抱擁も、キスもない。ただその態度は私一人に見送られるのが不満だったようで、私の心に小さな棘を残していった。
久しぶりに一人になった家は広い。
家事をやるのも億劫になって、私は一人リビングへと戻った。
「……暇ね」
私はおもむろにスマホを取り出して、娘の夫の連絡先を眺める。連絡はあの日以降途絶えており、私のことなんて忘れたみたいだった。
「……あんなに激しく抱いたのに、私のことなんてどうでもいいのかしら?」
所詮、私は妻の母親で人妻。
夫に頼まれて抱いただけに過ぎない関係。
それ以上を望むのは間違っているし、一夜限りにしておくのが無難だ。
–––そんな理性的な私の判断を、心が否定する。
連絡したいならすればいい。
抱いてほしいなら、抱いてほしいって言えばいい。
きっと彼は応えてくれる。そうして、私を、また……この疼きを、鎮めてくれる。
「今頃、何をしているのかしら?」
ソファーに横になりながら、彼とのメッセージ画面を眺める。
すると突然、シュポンと音を立てて新しいメッセージが送られてきた。
「きゃっ!?」
なんてタイミングの悪い。よりによってメッセージ画面を開いている時になんて。
きっと既読の表記が彼の送ったメッセージにはついてしまった。私が彼に連絡を取ろうとしていたことが丸わかりで、凄く恥ずかしくなってしまう。
私は慌てて画面を見た。
『来週の平日、三者面談で半休取ってますよね?俺もその日休みなんです。だから、京介と都と一緒にご飯食べに行きませんか?』
そのメッセージを見て、私はただ直人君とまた逢えるという事実に心の底から喜んでいるのを胸の奥で感じていた。
R-18版二話目投稿しました。
こっちは次回、出張中の鹿島父視点をしてから主人公視点に戻ろうと思います。