妻に出会ったのは、とても暑い日だったことを覚えている。
テレビでは連日その年の最高気温を記録して、毎日記録を塗り替えていた。
『今年一番の暑さになるでしょう』がお決まりの台詞で、次に『熱中症に気をつけてお過ごしください』がよく聞いた言葉だったと思う。
「ふう、今日も暑いな……」
病弱だった私–––いや、僕にとって夏の暑さは天敵のようなものだった。
流行病は必ずかかるし、季節の変わり目はよく風邪を引いて熱を出した。運動して汗を拭く体のケアを怠れば、必ず体調を崩してしまう。
僕はそんな自分が嫌いで、この体が大嫌いだった。
母はいつも、病弱な僕を『強く産んであげられなくてごめんね』と謝る。
誰のせいでもないのに母は自分を責めて、涙を流してしまう。その度に僕は申し訳ない気持ちになって居た堪れなくなったものだ。
夏休みの登校日、僕はいつも通りに家を出た。
日傘の一つでも差せばいいのに、僕は男のくせに日傘を差していると揶揄われるのが嫌でいつも日傘を差さない。
唯一安心できる場所は、空調の効いた電車での移動だけで、数駅離れた学校に行くのも僕は一苦労していた。
「次は〜、桜花学園駅前〜、桜花学園駅前〜」
電車が降車予定駅で停車して、僕はまた夏の日差しの下へ放り出される。同じく電車を降りた同じ制服を着た生徒達が、我先に改札口へと向かっているのを見ていた。
僕は一人駅を出て、学生達の流れに乗って通う学校を目指す。
すぐに日差しが肌を焼いて、その暑さに億劫になりながらただ学校を重い足取りで目指した。
「はぁ……はぁ……っ」
だけど、その足が段々と重くなってくる。
酷い頭痛がしたし、僅かながら倦怠感を感じた。
やがて足が止まり、一歩も進めなくなる。
後から来た他の学生に追い越されて、僕はただ一人通学路に置いてけぼりだ。
「うむっ–––!?」
急激な吐き気に襲われて口元を抑え、蹲るようにその場にしゃがむ。
「大丈夫?」
そんな僕の背中に声が掛けられた。
優しくて、透き通るような清涼感のある声。
ちらりと少しだけ振り返ると、そこには天使がいた。
赤茶色の柔らかな髪をルーズサイドポニーにした、真紅の瞳を持つ女子生徒が。
「……綺麗だ」
僕はその姿を見た瞬間、恋に堕ちた。
優しくて、綺麗な、女子生徒–––鹿島志穂に。
「……えっと、大丈夫?」
「え、あぁ、平気だ。いつものことだから」
彼女の前でだけは情けない姿を見せたくなくて、つい強がってなんとか立ち上がる。
「それじゃあ僕はこれで」
なんとかその場を立ち去ろうと足を動かして先を行く。
そのあとを彼女は、心配そうにゆっくりとついてきた。
追い抜かせばいいのに、彼女はゆっくりと僕のあとをついてくる。予鈴が鳴っても彼女は急ぐ素振りすら見せず、僕のあとをただ心配そうに見守ってくれていた。
同じ学校の女子制服を着ていたことから、名前を知らなくても彼女のことを特定するのに苦労はしなかった。
まずは同じ学年から探して、奇跡的にも隣のクラスにいることがわかった。
それから僕は猛アタックをして交流を深めて、高校二年の頃に交際できる事になった。
その後、ついうっかり大学在学中に志穂を孕ませてしまって学生結婚をした。
娘が生まれて、僕も大学を辞めて働き始めようなんて言い出したことを覚えている。
妻の両親には、支援してやるからちゃんと卒業して娘をちゃんと養えるようになれと殴られた。それが僕の責任だと。
たぶんこの時にはもう、僕の愛は娘へと傾いていたのだろう。妻ではなく娘へ。
最愛は妻ではなくなっていたのだ。
それが間違っているとは思わない。妻も理解してくれていると思う。娘を愛することは当然のことで、愛する者が二人いることは間違いではない。ただ最愛は一人なのだ。
◇
もう何度目かわからない出張で東北へ来た。
同じことを何度も繰り返していると慣れるもので、新しい会社での関係構築は円滑に進み、悪くはない関係が築けていると思う。
この一ヶ月週末にはよく飲みに誘われて、たまに女性社員にも個人的に声を掛けてもらうことがあった。
家族がいるのは最初に伝えているし、そういう気はないのかもしれくて、何度か誘いを受けた時に二人きりだったなんてことは割と多かった。
その後、部屋に連れ込んだり、連れ込まれたり、ホテルに行ったりしないように気をつけているが油断も隙もないとはこのことで、危うく罠に掛かりかけたのは少なくない。
『人が良すぎるのも考えものよね』とは妻の談だ。本当によく何度も引っ掛かるので返す言葉もない。
「そろそろ次の店行きますか〜っ」
「いいね。行こう行こう」
「私はそろそろ帰ろうかな。旦那が家で待ってるし」
「柴田さんおつかれ」
いつも飲みに誘ってくれるメンバーも殆ど固定で、出張で本社から来た僕にも彼らは優しく接してくれる。
一次会がお開きというところで、私に声が掛かった。
「鹿島さんはどうする?」
「悪いけどこの時間は家族に電話しないといけなくてね。そろそろ失礼するよ」
出張と家族関係を口実に、程々にして私は一人帰宅の意思を示すと、離脱者は二人になった。
「そんじゃあ鹿島さん、柴田さん送ってやって」
「あぁ、任された」
この場での会計を済ませて全員で外に出る。
二次会に行く三人を見送って、私と柴田さんだけが残される。
「それじゃあ、行こうか」
柴田さんは既婚者で私を狙ってくる心配がなくて気が楽で、飲み会の後はこうして何度も家に送っている。自宅が徒歩圏内にあるらしく彼女の家は私も知っていた。
お互いに既婚者同士話が合うのか、よく話すのは子供達のことだ。帰り道はよく子供の話に花を咲かせている。時折家庭での愚痴を聞いたりするのも既婚者ならではの悩みが多く、共感できる点があって彼女とは話が弾んだ。
「–––もう本当、夫が全然言うこと聞いてくれなくて……あ、ついちゃった」
気がつけば柴田さんの家の前で、彼女は少しだけ名残惜しそうに家へと入っていった。
「それじゃあ鹿島さん、また来週」
私よりも十歳若い彼女は笑顔を振り撒きながら、家族が待つ家の中へ消えていく。その姿を見送って私も契約したマンスリーマンションへと帰宅する。
「ふぅ……」
マンションへ帰宅するとネクタイを緩めて、シャツのボタンを二つ外した。
冷蔵庫から買い置きしていたビール缶を取り出して、リビングでプルタブを開けてそのまま中身を半分飲んだ。
残りの缶をテーブルに置いて、テーブルに置いていたノートパソコンを起動する。起動したらUSBメモリーを差して、とある動画を再生する。
『–––っ』
その動画には、妻と一人の男が映っていた。
知らないホテルの一室で男と二人きり。
妻はその男を信頼しているのか、緊張しながらも期待に満ちた顔をしている。
『んっ』
その次の瞬間、妻は私以外の男と唇を重ね合わた。
私とはしたこともない長く激しいキスをして、数分もする頃には雌の顔になっていた。
最後には自分から求めていたように思う。
その姿を初めて見た時、愕然としたのを覚えている。今でも胸を締め付けられるようだ。
『–––直人君♡』
やがて妻は服を全て脱がされ裸にされた。
そのまま二人は、快楽に溺れるまま性交を始めてしまう。
それは私が望んだ光景だった–––はずだ。
だけど、それは私が望んだ以上のものだった。
妻は私が見たことのない顔で喘ぎ、乱れ、男に甘えるような仕草で擦り寄る。私とした時とは違って淫らに乱れ嬌声を上げる。その姿は普段とは全く違う。
「……っ」
それは私に一つの事実を突きつけている。私は一度も妻を夜伽で満足させることができず、男としての格の違いを見せつけられているのだ。
私のプライドはズタボロで、男としての自信は喪失した。
私が今まで妻としていたことは、児戯でしかないのだと初めて知らされ呆然とした。
胸が苦しい。痛い。たぶん私は後悔しているのだろう。妻を別の男に抱かせたことを。
だけど、私は何度もこの動画を再生する。
同時に私をここまで興奮させた動画は、これ以上存在しないのも事実だったから。戒めを刻むように私はその目にこの光景を焼き付け続けた。
「……と、そうだ。そろそろおやすみの電話を入れないと」
動画観賞をしていると時間は夜の十時を過ぎる。
音声をミュートにして、動画を再生したまま娘達に電話を掛けた。
コール音が数回した後、回線が繋がり通話状態になった。
『なに?お父さん?』
電話向こうで嫁に行った娘–––愛理の声がした。
ただ少し不機嫌なようで、声音が普段よりワンオクターブ低かった。
「いつになく不機嫌だね。マイスウィートエンジェル」
『その呼び方やめてって私言ってるわよね?』
今日は本当に怒らせそうなので、ゴホンと咳払いをして娘の扱いを改める。
「それでどうしたんだい?」
『別に。なんでもない』
「……直人君と何かあったのかい?」
『……』
原因に心当たりがあったためにそう問い返すと、少し長めの沈黙が返ってきた。
もしや妻と直人君のことがバレたのか、とたらりと脂汗が垂れたがこちらも言葉を発さないことでどうにか取り繕う。
愛理の出方を窺っていると、深く息を吐いたあとで口を開いた。
『ちょっと帰ってくるのが遅いだけよ』
「おや、どこかに出掛けているのかい?」
『最近、お母さんのダイエットに付き合ってジョギングしたりしてるみたい。二人で飲んで私達に言えないような愚痴とか吐いてるって聞いたけど』
「……」
その言葉を聞いて嫌な予感がした。だけど、私は娘へと何も言うことができず呆然とすることしかできない。
「そ、そうか。おやすみ愛理」
『おやすみ。それと都に替わる?』
「いや、今日はいいよ」
私は急ぎ電話を切って、妻へ電話を掛けた。
『留守番電話サービスへ接続します。ピーと鳴ったら御用件と–––』
すると一度目は留守番電話サービスに繋がってしまう。私は再度、電話を掛け直した。
–––プルルルルルッ。ガチャ。
次はワンコール内に通話が繋がる。私はおそるおそる耳にスマホを当てて、息を潜めるかのように電話向こうの音に耳を澄ませた。小さな音の一つも聴き逃さんとすれば、電話向こうから少しだけ荒い息遣いが聞こえてきた。
『はぁ……はぁ……。ごめんなさい。今、直人君とジョギングしていて出られなかったの。どうしたの?』
「え、あ、あぁ……ほら、いつもおやすみの電話をしてるだろう。だから、一日の最後に妻の声を聞きたくてね」
何やら妻は疲れている様子だった。週末ということもあるが、それ以外の何かがある気がしてならなくて私の耳は敏感に反応する。
『んっ……そう』
その声は、どこか艶かしかった。
普段の妻が話すようなトーンより少し高い。
微かな変化に私の心臓は早鐘を打つ。
嫌な予感が、胸を締め付ける。
「最近、直人君とジョギングしたり相談に乗ってもらってるんだって?」
『えぇ……そう……よ。彼凄く頼りになるの。夜のボディーガードにも、子育ての相談相手にも。人生相談にも、ね』
電話向こうで何か聞こえないか全神経を集中するけど、それらしい音は聞こえてこない。あるのは妻の妖しい息遣いだけだ。
『っ……ぁ……そろそろ、いい、かしら』
「え、あぁ……おやすみ」
『おやすみなさい。あなた。……あ、それともうひとつだけ』
荒い息遣いの向こうで、志穂は期待に満ちた声でこんなことを言う。
「ねぇ、次の撮影はどうする?」
証拠はない。確証もない。だけど、私は取り返しのつかないことをしたのだと。ようやく理解した。
前に鹿島夫妻が出会った時の話を設定した記憶はあるんですが、どこに書いたか見つからず再設定です。元は大学時代って設定にしたような気がするんですが、見つからないんですよね。脳内だったか?