あれ以来、遠坂の口から“白雪姫”の話題は出てこない。
結局のところ、一過性の熱病のようなものだったようで、遠坂の興味はすぐに他へと移っていた。元々単純な一目惚れというよりかは、美人に対する憧憬のようなもので恋と称するには程遠かったのだろう。その証左に彼はすでに新たな女性に狙いをつけてアプローチを開始していた。
斯く言う俺も連絡先の交換どころかアプローチもしていない以上、進展などあるはずもなくいつも通りの日常を繰り返す日々へと戻っていた。
あれから一週間後の午後。場所はサークル棟。
午前の講義を終えた俺は、昼食を摂るためここを訪れていた。
すっかり通い慣れた道を通り、角の部屋へ。
その扉には『オカルト研究会』と怪しげな張り紙がしてあった。
「失礼します」
軽くノックを三回、返答がないことを確認してドアノブを回すと鍵は掛かっていないようで抵抗もなく扉が開く。
しかし、扉が開いているということは……。
予想通り、部屋の中には一人の女性が奥の椅子に座っていた。烏の濡れ羽色の黒髪と琥珀の瞳を持つ巨乳美人で、グラビアアイドル顔負けのルックスを持っている。その美貌は構内でも有名で喋らなければ美人と称されるほどで、去年はミスコンで優勝した経験を持つ。
そんな美人に微笑まれているというのに、俺はときめきも何も感じることはなかった。
「やぁ、藤宮君。おはよう」
「おはようございます。麗花先輩」
オカルト研究会“会長”。倉科麗花。大学三年生。俺をこの怪しげなサークルに引き摺り込んだ張本人だ。
「今日も私に逢いに来てくれたのかな?」
その張本人は来客が嬉しいようで、ニコニコしながらアルコールランプに火をつける。ビーカーにペットボトルから水を注いで火に掛けると、うきうきで紅茶の準備を始めた。
「麗花先輩は美人で目の保養になりますからね」
「ふふ、そんな褒めても何も出ないよ。あ、今日はどっちにする?」
「ダージリンで」
麗花はティーポットに茶葉を入れると、沸騰したビーカーの水を注いだ。蒸らす間にティーカップを残りのお湯で温めて、いらないお湯をバケツに流し入れる。
用意できたティーカップにティーポットの中身を注いで、彼女はソファーにティーセットを置いた。
「さぁ、こっちにおいでよ。藤宮少年」
もう少年という歳ではないのだが、その呼び方が好きなのか時折そうやって俺を呼ぶ。
誘いに乗った俺はコンビニで買った菓子パンを手に、ソファーへと移動した。
「相変わらず部員は俺と麗花先輩だけですか」
「そうだね。でも、二人きりというのも悪くないだろう?」
「……それは、まぁ」
美人を独占できるという栄誉には与れるわけで、そこは同意しないでもないのだが……相手は“美人”で有名と同時に“変人”で有名な麗花先輩だ。素直に喜べない。
「それはそれとして、部員の募集とかしないんですか?」
「誰がこんな怪しい部活に入るんだい?それとも君は、私が他の男に盗られても平気なのかな?」
麗花先輩は自前の弁当箱を広げながら、俺を揶揄うように言う。
「論点ずらさないでください」
「ずらしてはないんだけどなぁ」
プチトマトを器用に箸で摘み、口に放り込み彼女は苦笑する。そのままプチっと噛み潰して、もぐもぐと咀嚼した。
「私としては君以外の部員なんていらないんだけど」
「もっと真面目に活動に参加してくれる人探した方がいいのでは?」
「そうは言っても君は私に付き合ってくれるじゃないか」
「俺、幽霊部員なんですけど」
「オカルト研究会だけにね」
ギャグを言ったつもりはないのだが、麗花先輩はケラケラと心底楽しそうに笑った。
「……君だけで十分だよ」
そのすぐにあとで、彼女はぼそりと何かを呟く。
一瞬だけ眩しいものを見るかのように目を細めた先輩は、すぐにその表情をいつものミステリアスなものに変えた。
奇矯というか奇妙というか、神秘的な雰囲気を放つ麗花先輩は本当に綺麗で見惚れてしまう。
–––コンコンッ。
「–––と、おや?来客みたいだね」
そんないつも通りのオカルト研究会部室に、珍しくノックの音が響いた。
「開いてるよ」
「……失礼します」
麗花先輩が入室の許可を出すと、扉の向こうから返事が返ってくる。その数秒後開かれた扉から顔を出したのは、思わぬ人物だった。
「こちらに藤宮先輩がいると聞いて来たんですが–––」
その言葉の途中で、突然の乱入者–––冬海雪菜は俺を見て、「ようやく見つけた」と言わんばかりに僅かに頰を緩ませた。
あまりにも思わぬ人物が登場したせいで、つい聞き逃しそうになったが彼女はなんと言っただろうか。
「君に来客みたいだね。この神聖なオカルト研究会の部室を逢引に使用するとは感心しないな」
「神聖って胡散臭いの間違いでしょう。あと逢引じゃないです」
小さく言い争いをしたあと、一旦休戦して来客に対応する。
「……冬海だよな。どうした?」
「先輩にご相談があって……えっと、そちらの方は先輩の恋人ですか?」
あまりにも飛躍した想像に、麗花先輩は腹を抱えて笑った。
「ぷっ、ふ……くっ、ふぅ。私が藤宮少年の恋人だって。なんなら付き合ってみるかい?」
「冗談言わないでくださいよ。これ以上世話焼かせられる身にもなってください」
「酷いなぁ。……今のはちょっと傷ついたよ」
「……すみません」
本当に傷ついたと言わんばかりの表情で、麗花先輩は悲しげに笑う。
それを見ると俺も悪い気がして反省するのだが、彼女はそれで満足したようでケロッと表情を変えた。
「冗談だよ。本気にしたかい?」
「心臓に悪いんで揶揄わないでください」
今日も今日とて麗花先輩に振り回されて、げんなりとした表情で紅茶を啜る。
喉を潤してから再び冬海に俺は向き直った。
「それで相談ってのは?」
「ここではちょっと……」
「んじゃあ、ちょっと廊下に出るか」
麗花先輩を置いて、俺と冬海は部室の外へ。
そこで冬海は声を潜めて言った。
「……念の為確認ですが、先輩は恋人がいないんですよね?」
「いたらこの前の食事会行ってないだろ」
「……そうですね。失礼しました。先輩にいるわけないですもんね」
「おまえほぼ初対面の相手に割と辛辣だな」
気分を害したというほどではないが、棘が刺さったくらいにはダメージを受けている。あるはずのない胸の痛みに呻いていると、冬海はゆっくりと深呼吸してから言った。
「単刀直入に言います。先輩、私と付き合ってください」
その一言を聞いた瞬間、時が止まったように錯覚した。
「……は?」
「あぁ、いえ、そういう意味ではありません。私が先輩に懸想しているという事実はありませんから」
情緒をぶん殴られるような説明を受けて、俺は困惑した。
付き合って欲しいのに–––好きじゃない。
あまりにも奇妙な話に、脳が混乱して処理不良に陥る。
なんとか話を整理してみようとも思ったが、あまりにも唐突で不可解であったため正解には至らなかった。ただいい話ではないことはわかった。
「少し性急すぎました。すみません」
冬海は一度頭を下げてから、本題に戻る。
「……その、実は困ったことがあって。その……言い方は悪いですが、私ってモテる……方じゃないですか」
言葉を選びきれなかったのか、オブラートに包んでも自慢に聞こえる。ただ本当に困っているようで当人も困り果てた様子だ。
「それで?」
「……今月でもう十三人目です」
「……もしかして、告白された数?」
「……はい」
先週の噂では、十人。
あれから三人増えている。たった一週間で。
「……正直、すごく迷惑で。だから先輩に偽物の恋人になってほしいんです」
大学生活に支障をきたすほどなのか、彼女は嬉しくなさそうだ。見た限りそういうタイプではないことは一目瞭然である。
「放っておけばすぐに収まると思うけどな」
「私もそう思ったんですが、そんな気配が全然なくて……」
「はぁ。それにしたってなんで俺なんだよ?」
偽物だろうが候補はいっぱいいたはずだ。それこそ冬海なら選び放題だろう。
そのことについて言及すると、彼女はすごく懐かしそうに目を細めて俺を見つめながらこう言うのだ。
「……先輩が、私の初恋の人に似ているからですよ」
俺に誰の面影を重ねているのか。
そいつは幸せ者だな、と他人事のように思うのだった。