翌日、大学構内は朝から妙に騒ついていた。
一限目からの講義を受けるために教室に行くと、既に複数人がグループで固まって席に着いており、ひそひそと談笑していた。話に夢中で教室に誰が入ってきても気づいた様子もなかった。
俺は隅の方に空いている場所を見つけるとそこへ座る。
次に受講する講義の準備もそこそこに、スマホを確認すると朝からメッセージが二つ届いていた。
冬海と麗花先輩、この大学が誇る二大美女からだ。
要約すると“朝の挨拶”である。俺は『おはよう』と適当に返事を送り、聞こえてきた談笑の一部に耳聡く反応する。
「–––白雪姫に彼氏ができたんだって」
「嘘だろ!?狙ってたのに」
「おまえじゃ無理だって」
冬海との恋人契約をしたのが昨日の昼。
それから一日足らずで、もう学内では噂になっているらしい。
男達の噂の中心はもっぱらそのことで、朝からそのことについて盛り上がっているようだった。
「藤宮、おはよう」
「おはよう。遠坂」
「聞いたか?」
「白雪姫に恋人ができた件か?」
「おう、もう知ってたか」
「今知ったところだよ」
慣れたように隣に座ってきた遠坂が、挨拶もそこそこに例の噂を口にする。どうやらこいつもその話をしたいようだ。俺も客観的にどうなっているか知りたいため、その話題に乗ることにした。
「構内じゃその話で持ちきりだな。どこの誰が彼女の冷たい心を解かしたのかってな」
「そりゃまたたいそうな話になってるな」
「そりゃうちの大学でトップレベルの美人だからな。話題になるのも当然だろう」
「当人からしたら迷惑な話だろうに」
俺はそう言って興味なさそうに頬杖をつく。が、当然話は終わらない。
「噂じゃ新聞部もそのネタ集めてるらしいぞ」
「新聞部ってそんなこともやるのか?」
「裏掲示板に載ってた。白雪姫の恋人の情報を売ってくれたら賞金一万円だとさ。貧乏な苦学生が血眼になって探してるらしい」
「ろくでもないなうちの新聞部!?」
思ったよりも大事になっていて、俺は心の中で絶叫する。こんなこと安請け合いするんじゃなかったと。
しかし、既に後の祭りである。芸能人の熱愛報道ばりの報道精神を見せる新聞部に見つかるのも時間の問題だ。気にしたところで意味がない。
「どうして放っておかねぇかな」
「本当にな」
……本当にどうして放っておいてくれないのか。巻き込まれた俺としても切実に願う。
「でも、おまえも気になってるんだろ?」
「まあな。せめてどんなやつか顔を見てみたいもんだよ」
「今見てる顔だよ」とは言えず、俺は苦笑いするしかなかった。
◇
二限目が終わると教室を出てサークル棟に向かう。
見慣れた『オカルト研究会』の扉を叩くも反応は無し。試しにドアノブを回すと扉が開いた。
顔を覗かせてみるとソファーには麗花先輩が座っており、こちらの姿に気づくと嬉しそうに顔を輝かせた。
「あ–––な、何をしにきたんだい。裏切り者の少年N君」
しかし、その直後。麗花先輩は思い出したかのようにハッとすると、ぷいっと顔を背ける。
「なに拗ねてるんですか?」
「別に。拗ねてないし。君の勘違いじゃないのかい?」
そう言いながらもぷくっと頰を膨らませる。そして、ぼそりと呟いた。
「……私で童貞捨てたくせに」
わざと聞こえるように呟いているあたり根が深い。
俺は聞こえていないふりをして、先輩の隣へと座った。
「なんで隣に座ってるんだい。正面が空いてるじゃないか」
文句を言いつつも麗花先輩は嬉しそうに声に喜色を混ぜる。面倒臭い乙女の心情とやらを隠し切れていなかった。
「隣に座りたい気分だったので」
「そうか。……なら仕方ないね」
そのたった一言で機嫌を直してくれたのか、麗花先輩は机の上の空いていたティーカップにティーポットから紅茶を注いで、俺に一つを寄越してきた。
「しかしまあ、随分と面白いことになっているみたいだね」
愛用のティーカップにおかわりを注ぎ、麗花先輩はとても興味深そうに笑みを深めた。
「たった一日で噂になり、新聞部含めて噂の真実とやらを血眼になって探している。ふふ、すっかり有名人だね」
「こんなはずじゃなかったんですけどね」
「君は彼女の影響力を甘く見過ぎなんだよ。……まったく、私を裏切るからこうなるんだ」
すっかり調子づいた様子で、麗花先輩は姿勢を崩した。普段の脚を揃えた綺麗な姿勢から、脚を組む扇情的な姿勢は太ももがより質感を増して魅力的に見えてしまう。それに今日は珍しくミニスカートだ。黒のニーハイと白い肌の絶対領域のコントラストが眩しい。
「昔風に言うと魔女狩りってやつだねぇ。見つかったら大変だ」
俺の視線に気づいた麗花先輩は、俺の額をツンと優しく小突いた。
「裏切るとは失敬な。交際申し込んだら断ったの麗花先輩じゃないですか」
「それはそれ、これはこれだ」
「それに冬海とは仮の恋人ですよ。発展する可能性もないですし」
俺が断言すると、麗花先輩は微妙な顔をする。
「さて、それはどうかな」
含みを持たせた勿体ぶるような彼女の一言に、俺は怪訝な表情を浮かべた。
「君はやっぱり女心というものがわかってない」
「先輩に指摘されるのはちょっとなぁ」
「それはどういう意味だい?」
怒った先輩が頰を摘んで引っ張ってくる。
「先輩って一般的女子とは言い難いじゃないですか」
「ほう。どの部分がとか聞いても?」
「自分の胸に訊くのが一番じゃないですかね」
「……藤宮君の変態」
「いや、胸の大きさの話はしてないですよ」
冗談だとはわかっているが否定だけはしておく。
数分ほど人の頰を弄んでいた彼女は、やがて満足したのかようやく俺の頰を解放してくれた。
「話を戻すけど、本当にこれから大変だよ」
「……大丈夫じゃないですかね。騒ぎが治まるまでなんとか身バレしなければ」
「それは無理だろうね」
俺の平穏は無理だと断言する麗花先輩に、つい勢いよく視線を向ける。
「……何故ですか?」
「答えは簡単だよ。昨日君を見つけるまでに、彼女随分と他の人に君の居場所を聞いて回ったみたいだし」
「……」
麗花先輩の言い分が正しいことは瞬時に理解した。だからこそ、反論するべく脳を高速でフル回転させるが……結果は見ての通りだ。否定する言葉の一つも浮かばない。
俺はなんとか平静を保つべく顔に手を当てて思考するが、良案なんて浮かぶはずもなく出てきたのは諦めの文字だ。
「私は高みの見物をさせてもらうよ」
いい観察対象を得たとばかりに、麗花先輩は微笑を浮かべる。
薄情者と叫びたいところだが、その表情があまりに可愛すぎて言葉が喉の奥につっかえてしまう。
–––コンコン。
絶望に打ち拉がれていると『オカルト研究会』の門戸を叩く音が響いた。そして、すぐに「失礼します」と噂の片割れが入室してくる。
「おはようございます。倉科先輩」
「……おはよう。一応言っておくけど、ここは逢引する場所じゃないんだけどわかってるのかな君達は」
冬海に対して対抗心を燃やす麗花先輩はおとなげなくも苦言を呈するが、冬海は顔色ひとつ変えることなく冷静に対処した。
「すみません。ここ以外に先輩と静かに昼食を食べられる場所がなかったので」
礼儀正しく謝罪されると毒気を抜かれてしまったのか、麗花先輩は小さくため息を吐いて「まぁいいけど」と紅茶を啜った。
その間に冬海は俺の隣にさりげなく座り、弁当箱の入った巾着袋を二つテーブルに置いた。
「はい、どうぞ。先輩」
「お、ありがとう」
そのうちの一つを俺へと差し出してくる。
俺は恭しく包みを受け取り、中身を開封する。
弁当箱は二段。白米とおかずの二つだった。
「おぉ、美味そうだな」
白米には種ぬきの梅干しが一つ載っており、それだけで食欲がそそられる。つい唾液が分泌されて涎が垂れそうになった。
問題はおかずの方である。メジャーな卵焼きにはタコさんウィンナーといった定番のおかずに、ミニハンバーグにプチトマト、スパゲッティ、サラダが詰められていた。
オーソドックスなお弁当ではあるが、普通とは違う何かを感じてしまう。
「いただきます」
その違和感を探るべく、俺はミニハンバーグを箸で摘む。
一口サイズのそれを放り込んで咀嚼すると、詰まった旨味と肉汁が溢れ出してくる。
たまらず白米を口に放り込み、もぐもぐと咀嚼を続けた。
最後まで堪能してから飲み込むと、俺はミニハンバーグに感じた違和感の答えを口にした。
「なぁ、このハンバーグ……手作りか?」
「よくわかりましたね。そうですよ。昨日タネを作ったハンバーグの残りをお弁当用に小さくしたんです」
「いや、市販のやつとは味が違ってさ。正直食べたことない味だったから」
お弁当用の冷凍食品に勝るクオリティーの高さに舌鼓を打ちつつ、俺はスパゲッティへと狙いを変えた。そして、俺はそれを一口でまた食べる。
「……んん?」
そして、やっぱり首を傾げてしまう。
「……お口に合いませんでしたか?」
「いや、美味いよ。これも手作りか?」
「よくわかりましたね」
「いや、これも冷食とは違ったし……」
一番手を抜きがちなスパゲッティが手作りとは恐れ入る。
俺は宝探しをする気分で弁当を食べ進め、最後まで完食した。
その結果、わかったことがひとつある。
お弁当の中身が、全部手作りだった。ひとつも冷食を使わないで作られていたのである。おまけに全て高クオリティで食べ応えもあった。惜しむらくはこれが“弁当”だという事実。
弁当という縛りさえなければ、もっと美味しいものが作れるのは確実だ。
俺はすっかり彼女の手料理の虜になり、あわよくばという欲を抱いていた。お弁当自体が望外の幸福にも拘らずだ。
「ごちそうさまでした」
「お粗末さまでした。お弁当箱を返してください」
「洗って返すよ?」
「いいですよ。明日も作ってくるんですし、そっちの方が手間なので」
「そうか。すまん」
包みに入れ直した弁当箱を返却すると、彼女は微かに笑みを浮かべながら受け取る。その顔はどこか嬉しそうだった。
「……君達、私のこと忘れてないかい?」
隣から聞こえた声にハッとして顔を向けると、むくれた麗花先輩が恨めしそうにこちらをみていた。
「……忘れてないですよ」
「……そんなことはないですよ?」
お弁当に夢中で存在を忘れていたことは十中八九バレているだろう。長い付き合いだからそれくらいはわかる。嘘が機能していないことも。
「ふーんだ。白雪姫の手作り弁当を恋人君が食べてたって新聞部にチクってやる」
–––再び拗ねた先輩を俺は全力で拝み倒した。