「きゃあああぁぁぁぁ!!!!」
その日の朝は、事件性のある女性の悲鳴から始まった。
深い暗闇から叩き起こされたと同時に、胸の辺りに急激な圧迫感が襲い掛かりベッドを転がる。
「ぬへっ!?」
突然の浮遊感がしたかと思えば、真っ逆さまに落ちた。
見事に頭から着地した俺は、完全に目が覚めたと同時に反転した世界を目にするというとても奇妙な体験をしていた。
寝起きは完全にギャグである。頭で逆立ちしながら、大股を開いて硬直、数秒その姿勢を保ったあとでずるずると床に崩れ落ちる。
世にも奇妙な体験をした俺は、床からのっそりと起き上がった。
「–––ってぇ、なんで朝からこんなことに……」
なんとなしにベッドの上に視線を向けると、その上には薄い掛け布団を纏っている“冬海”がいた。
「「……」」
お互いに無言で見つめ合う。
数秒間見つめあったあと、彼女の方から視線を逸らした。
「ど、どうして先輩が私の家にいるんですか!」
「えぇ……?」
寝室を見回すと、見慣れた家具、天井、壁、カーテンが目に入る。どう考えても俺の家だ。
「俺の家だぞ?」
「へっ……?」
慌てて冬海は周りを見た。そして、
「–––先輩のすけべ!変態!」
過程を通り越して、結論から非難の声を上げた。
「いやいやいやいや、俺なんもしてないぞ?」
「嘘です。だって、朝起きた時、私のこと抱きしめてたじゃないですか……!」
……確かに何か抱き枕にしていたような気もする。が、俺の記憶にはない。あるのは感触だけだ。
「それなら一つだけおかしいことがある」
「な、なんですか……?」
「服を着てるのはおかしいだろう」
「せ、先輩が私が寝てる間に襲って、服を着せた可能性だってあるじゃないですか……」
「いや、俺は裸の女の子と抱き合って寝たい派だ」
「なっ!」
思わぬカミングアウトを受けて、冬海は顔を真っ赤にする。そしてそのまま、自らの体を守るように抱きしめた。
「……ほ、本当に何もしていないんですか?」
「それはどういう意味だよ」
「だって先輩が手を出さないのはおかしいじゃないですか」
まだ訝しむような視線を向けてくる冬海は、何を思ったのかそんなことを宣う。
「俺だって手を出していい相手と手を出しちゃいけない相手は弁えるぞ」
「……わかりました。いちおう信じます」
まだ不満そう。というか、むしろ不満そうな視線を感じる。
「どうした?」
「……いえ、別に」
「何かあるなら言えよ。俺は言われなきゃわからんからな。あと知らないままも嫌だし」
「……いえ、その……初めては痛いって聞きますし、筋肉痛もするし……」
冬海的には断定的証拠があったわけである。それは疑うわけだ。
「……痛むのは手足とかだろ」
おそらく痛いにしても初体験の痛みはその部位じゃない。と、俺は思う。女じゃないから知らないけど。
「そ、そうですね。そうですよね……?」
意味深くお腹を触る冬海のその仕草は、なんだか扇情的で見てはいけないものを見たような気がして、俺はそっと視線を斜めに外した。
「まぁ、誤解が解けたならよかったよ」
「はい。お騒がせしました。……それと、申し訳ありませんでした」
「ん?」
改まって、彼女はベッドの上に正座をして小さく頭を下げる。
「その……先輩を突き飛ばしてしまって。……痛かったですよね?」
本当に申し訳なさそうな顔をする冬海に、俺はついさっきのことなのに“そんなこともあったっけ?”と他人事である。むしろ寝起きに突き飛ばされたことなど、かけらも覚えていなかった。
……冬海が同衾しているという事実が衝撃的すぎて。
そのことを思い出したのはいいのだが、原因を考えると責められないのでこちらもどう反応していいものか。首に手を当てながら照れ隠しに言葉を発しようとすると、
「や、やっぱり首とか捻りましたかっ?」
焦った様子で、彼女は心配してくる。
「違う違う。それはなんともねえよ。丈夫だし。これはなんという癖で。……俺の方こそ、悪かった」
「本当に大丈夫ですか?見せてください」
「ええ〜、いいよ」
「見せてください。もし先輩に何かあったら、私は……」
僅か数ミリ冬海の眉が下がったのを見て、俺はベッドへと戻り背中を向ける。
「ほれ、なんともないだろう」
「……」
冬海は優しく、丁寧に首に触れる。
時折刺激するように触れて、俺が痛みを我慢していないか確認をした。それでも何の反応も返さないのを確認して、ようやくほっと小さく安堵したため息を吐いた。
「……みたい、ですね。でも、何かあればすぐに病院に行ってくださいね。絶対ですよ」
「へいへい」
おざなりな返事をすると、しょげた顔をする彼女。
「そんな顔すんなよ。その時はおまえが引き摺っていけばいいだろ」
「……先輩って本当に手の掛かる人ですね。でも、そこだけはちゃんとしてほしいです。私がやっておいてなんですけど、こんな風に先輩のこと心配する人だっているんですよ」
「……おう」
あまりに真剣に話をするものだから、俺も面食らって茶化せなくなる。適当に流せなくなる。彼女がそうさせてはくれないから。
「……もし、先輩に何かあれば、それ相応の責任は取りますから」
「たとえば?」
「下半身不随になったら一生お世話します。そして、先輩が死んだあとは……私も……」
「いやそこまで重く考えなくてもいいだろ」
「私はそれだけ本気ということですよ」
あまりに物騒で重い覚悟に引きはしないが、逆に心配になってくる。
「……こういう重い女は嫌ですか?」
「いや、それはそれで嬉しいよ。だけど、それはそれで困るな」
「……?」
「なんていうか……その、おまえには幸せになってほしいけど……そのあと誰かと付き合ったり結婚するところは見たくないというか……」
言ってて恥ずかしくなって、俺は言葉を区切った。
きょとんとした冬海の顔が視界の端に見える。
「先輩、それって……」
「……なんだよ」
「私を独占したい、ということですか?」
「……まぁ、そうなる」
「それって、そういう意味ですか……?」
「…………いや、まぁ……どうなんだろう?」
確かに俺の中には“冬海を誰にも渡したくない”という独占欲がある。しかし、それは大小差はあれど、あの先輩二人にだって言えることなのだ。
俺にとって“今大事”なのは三人。優劣がないと言い切るのは無理がある。同じくらい好きという言葉は、同等であり同一ではないのだから。
「……俺もよくわからないんだよ。その……人を本気で好きになったことがないから……」
少し期待をさせて、がっかりさせてしまっただろうか。
気まずくなって振り返れない俺は、背中に刺すような視線を感じた。なんだかむず痒くなるような視線を。
「先輩」
優しく、甘く、囁くように呼ばれる。
「……直人、先輩」
背後から抱きしめられて、離さないように腕がお腹の上で結ばれた。
「いいんですよ。それでも。“付き合う”のに必ずしもお互いが“好き”であることは重要じゃないと思います。お互いに気になっていれば、“付き合ってみる”というのもお互いを知るための手段ですから。だから、先輩……この前の返事、今ここでお聞かせ願えませんか?」
この前の返事–––お風呂でのことが、頭を過ぎる。
「私だけを今ここで選ぶ必要はありません。……本当は選んでほしいですけど、でも付き合ってみてから、じっくり考えてみるのも手だと思うんです」
甘く蕩けるような冬海の優しい言葉が耳朶を擽り、胸の奥で何かが熱く沸る。
「……それじゃあ、まぁ……俺でいいのなら」
「っ!!!!」
付き合う。そう決めた瞬間、激しく抱擁された。背中には柔らかい……布一枚越しのおっぱいが押し付けられて、いきなり恋人特権が得られて体が硬直してしまう。
–––これ下着つけてないのでは……?
ブラジャーの感触がない。その事実は、俺の思考を瞬く間に埋め尽くした。
「っ〜〜〜〜〜!?!?」
「先輩、好きです。大好きです」
「それは知ってる」
『俺も好きだよ』と返せないことが、少しだけ胸に小さな棘を刺した。
◇
「やぁやぁやぁ、昨日はお楽しみでしたね。お二人さん」
寝室から彼女と腕を組みながら出ると、リビングにはめっちゃニヤニヤした陽菜先輩がいた。
「お楽しみって……?」
「そりゃもう“お楽しみ”はお楽しみっすよ〜。あんなに雪菜を濡れ濡れにして、疲れ切った体に激しくするなんて……!」
「っ!?!?!?」
冬海は顔を真っ赤にして、ちらりとこちらをみてくる。
「やっぱり……その、寝込みを襲ったんですか……?私、初めてだったのに……」
「それはさっき完全に否定したろ。陽菜先輩が言ってるのは、プールのことだよ」
「プール……?」
陽菜先輩の言葉を反芻して、状況に当てはめてみる。『濡れ濡れ』『激しく』その単語が意味することは卑猥に聞こえるが、実はそうでもない。プールにも当てはまることはあった。
「っ!?〜〜〜っ、ひ、陽菜先輩っ!」
「雪菜もまだまだっすね〜。あたしはただ昨日のプールのこと言っただけっすよ」
肩を竦めてこの後輩は何を言ってるのやら、と素知らぬ顔をする陽菜先輩だが、確信犯であったことは間違いない。
「というか見てきたみたいに言うんですね」
「あたしを誰だと思ってるんですか。直人君の専属のストーカーですよ」
「そういえばそうでしたね」
普通に入り浸っているせいで忘れていたが、この人は自称ストーカーである。
「そういうのよくないと思いますよ陽菜先輩」
「大丈夫っすよ。昨日はプールの監視員のバイトで堂々と見てましたから、合法ですよ合法」
「行動力……っ」
冬海は責めるところがなくなって、悔しそうに口を噤んだ。
そんな冬海を、陽菜先輩はニヤニヤと見つめる。
「だから当然、直人君が雪菜を連れ込んだことは知ってますし、付き合い始めたのも知ってますよ。よかったっすね〜」
「っ……」
あまりにも生温かい視線に耐えかねて、冬海は陽菜先輩の揶揄うような視線から目を逸らす。
「みんなに言いふらしてやろ」
「ちょっと誰に言いふらすつもりですか!?」
「バ・イ・ト・さ・き」
「なっ!?」
「なぁ〜んて、うそうそ、言わないっすよ」
「この前はおじょ–––言ったじゃないですか」
「それはそれっす」
冬海は俺の腕に抱きついたまま威嚇するように陽菜先輩を睨む。
「お〜、こわいこわい。さて、用も済んだし今日のところは帰りますか。熱々のところ割り込むのも気が引けますし、あたしは都合のいいペットなんで」
「なにしにきたんですか?」
「そりゃあもう『昨日はお楽しみでしたね』は憧れのセリフですし、これは一度くらい言っておかないと人生損ですから」
そう言って陽菜先輩は席を立つ。
「あ、そうそう。3Pとかしたくなった時は呼んだらいつでも飛んできますんで」
バッチリウィンクを飛ばして、陽菜先輩は帰っていった。