その日の夕方、我が家のキッチンは“彼女”に占領されていた。
もはやその姿は見慣れたものであり、通い妻というよりかは新妻も逃げ出すような新婚さんも斯くやという幸せオーラを纏いながら料理をしている冬海がいる。
我が家ではすっかり見慣れた光景になってしまったので違和感もなく、むしろいない方が違和感であった。
その偽彼女–––改め、真彼女さんは見ているこちらがわかるくらい楽しそうに料理をしている。あまりにも幸せオーラが出過ぎて同一人物かと疑うほど、今の冬海は雰囲気から違う。
「ふ〜んふ〜ん♪」
まず俺の知っている冬海は鼻歌なんて歌わない。あんなの初めて見た。
「先輩、できましたよ」
キッチンの占領をはじめて約一時間ほど。
ようやく料理ができたらしく、続々と料理が運ばれてくる。
「冷製パスタ、ローストビーフ、アクアパッツァ、アヒージョにカプレーゼ」
その他にもなんかよくわからん料理がいくつか。
どこの料理だよそれというものが出てくる。
前半の五つは俺がリクエストしたが、他にも二つほど料理が並ぶ。なんぞそれと言うしかない。
「すみません、作りすぎちゃいました」
そう言って微笑を浮かべる冬海が何故か五割り増し可愛く見える。普段と表情はそんな変わらないはずなのに。
「まぁ食えるだろ。たぶん。残しても明日食べればいいし」
「そうですね。それじゃあいただきましょうか」
料理が並べられたダイニングテーブルにつき、俺はさっそくカプレーゼから手を伸ばす。
「ん。美味い」
「それはよかったです。どんどん食べてくださいね」
ガッツリローストビーフに手を伸ばし、アヒージョに手をつけ、冷製パスタに舌鼓を打つ。気分的には米類としてパエリアも欲しいところだったが今はなくてよかったかもしれない。
「おう」
完全に餌付けされている俺は、もうこのご飯なしでは生きれる気がしなかった。
「……うまい」
二度目の感嘆が、思わず口から転がり出る。
なんだか冬海にニヤニヤと微笑まれている気がして、視線を皿に戻して無心でローストビーフを口に運ぶ。
しかし、あいつは俺のコロコロと変わる表情を見ては終始ニコニコしていた。
「たくさん食べてくださいね」
優しく「ゆっくり味わって食べてくださいね」と言外に告げられた気がして、俺は箸を運ぶスピードを緩めてじっくりと味わうように食事を続けた。
「うぐっ。……もう食えねぇ」
皿に盛り付けられていた料理をひたすら食べ続けて、気がつけば皿の中は空になっていた。
果てなき激闘を終えた俺は、食べ終わるや否やダイニングからリラックスできるソファーへと移動して背もたれに全力で体重を預けながらくつろぐ。
さすがに洗い物を手伝う気力もなくソファーにぐったりとしていると、洗い物を終えた冬海がマグカップを二つ手にソファーへと歩いてくる。
「先輩、すぐに寝ると牛さんになっちゃいますよ」
「それよく聞くけどどういう理屈なんだよ?」
「さぁ、私も母に昔言われただけですから」
「……つまり、子供の頃のおまえは割と自堕落だったと?」
「小さい頃の話ですよ。一回で直しましたし」
冬海は小さい頃から勤勉だったようで、粗を探したはずが冬海が冬海たる所以を聞かされたみたいでなんだか擽ったい気持ちになる。
「なんというか子供らしくない子供だな」
「よく言われます」
そう言いながら俺の頭を持ち上げると、柔らかいクッションを挟んでくれる。すべすべとして柔らかくも温かいそれは、人肌の温もりの温かさを教えてくれる。
–––膝枕だ。
見上げれば彼女の顔が形のいいお山の向こうにあり、触れて、見て、三度美味しい素晴らしい機能性を披露してくれる。
「あー、気持ちいい」
それに太腿の少しひんやりとした体温が心地よく、思わず頬擦りしてしまいたくなる。
「きゃっ、頭動かさないでください」
「すまん。つい」
ベストポジションを探していれば、頭を押さえつけられるように膝枕に埋没させられた。
抵抗をやめて大人しくしていると、拘束が緩み彼女の薄らと赤い顔が姿を現した。
「ついでに耳かきをしてあげましょうか」
「おー、頼む。自分でやるとついやりすぎて耳痛くなる時あるんだよ」
「……先輩ってそういうところズボラというか、徹底しているというか……不器用ですよね」
「すまん」
「これからは私がしてあげますから、ちゃんと言ってくださいね」
「マジで?やった」
さっそく彼氏特権を得られてご満悦で膝枕を堪能していると、いつの間にやらどこからか取り出した梵天付き耳掻きを冬海が手にしていた。まるでこうなることを想定していたみたいに。
「はい、それじゃあごろんしてくださいね」
「ん」
冬海から背を向けるように寝転がると、優しく耳朶を触られる。髪を掻き分けるように撫でられて、耳朶を優しく引っ張って、耳の奥を確認するかのように彼女が上体を倒した。
「それじゃあ、いきますね。動かないでくださいよ」
子供に優しく諭すかのような物言いで警告すると、その手に持った梵天耳掻きの先を耳へと侵入させてくる。
その優しい手つきになんだか気持ちよさを覚えて、俺は全力でリラックスしながら身を預けていた。
「……なんというか恋人っぽいな」
「そうですね。……恋人っぽい、んですかね?」
首を傾げた彼女の髪が頰を撫でる。
「まぁ、晴れて本物の恋人になったわけだし、いいんじゃないか?」
「そうですね。ここまで長かったわけですし。先輩って鈍感ですから」
「人を鈍感系主人公みたいに言うのやめろ。俺はそこそこ空気読めるぞ」
「えー、私の気持ちにかけらも気づかなかったのにですか?」
「その可能性は最初に『こいつ俺のこと好きなんじゃ?』って思った瞬間に排除したから、鈍感系主人公とは違うと思います。俺の場合はほら、可能性を考慮した上で消去したわけだから」
「じゃあ、一周まわって鈍感ですね」
「……そうなるかもな」
改めて鈍感認定されたところで俺は負けを認める。–––鈍感だとは認めたくないが。
「じゃあ、冬海はいつから俺のこと好きだったんだ?」
せめて答え合わせをと問い掛ければ、耳を弄る耳掻きの動きが止まった。
「……さぁ、いつからでしょう?」
「…………」
当ててみてください、と言わんばかりの口調で揶揄ってくる。俺も躍起になって記憶を探るもきっかけとなる場面が見当たらない。俺はいつこいつを堕としたのか。
「…………ん〜。最初から、とか?」
恋人のフリとかそんな漫画みたいな展開おかしいと思うし、その偽恋人役だって宝くじの一等くらいの当選確率だ。
俺のバイブルにある恋愛漫画から抜粋した状況を加味した結果、そういう結論が出たのだが、果たして答えは–––。
「……先輩って変なところで鋭いですよね」
ぼそり、と呟かれた。
「え、おまえ俺を狙ってきてたの?」
「狙ってきたとは人聞きが悪いですね。半分は偶然ですよ。偽恋人はなんというか、まぁ……好きの裏返しというか」
恥ずかしげに赤裸々に語る声がする。いつもの声音より一オクターブ高い気がした。
「ふ〜ん、へ〜。……あれ?いつ俺のこと好きになったんだ?」
「それは自分の心に聞いてみてください」
「いや、教えろよ」
「嫌です。自分で思い出してください。私と先輩は、ずっと前に会ったことがあるんですよ」
「嘘だ。俺おまえみたいな美人だったら覚えてるはずだぞ」
「……」
「覚えてないからこうなってるんですけど?」みたいな圧を感じた。本当に記憶にない。
「え〜、ん〜?…………だめだ、わからん」
記憶の海を探ってみたが、それっぽい記憶が見当たらない。せめてヒントさえあればどうにかなると思うが、
「せめてヒントくれ」
「それを言ったら先輩絶対思い出すから嫌です」
「思い出して欲しいみたいな言い方しながら面倒なこと言うなよ」
「先輩はもう少し女心というものを理解した方がいいと思います」
当人がこの様子である。
「……それは一生わかる気がしないな」
「なら、一生を懸けて先輩にわからせてあげますから」
「なんか逆告白された気がする」
「残念ながら先輩はもう私から逃げられませんから。私付き合う以上は結婚を前提にしてほしいので」
「たぶんおまえの方が裸足で逃げ出すぞ」
「じゃあ、問題はありませんね。私は絶対先輩のこと逃さないので」
自信満々に宣言する冬海の声がどこか楽しげで、俺は胸の内に温かいものを感じながら目を閉じる。
「……ねぇ、先輩」
「なんだ?」
しばらく耳をほりほりと弄られていると、不意に緊張した様子の冬海の声が降りてくる。
あまりの極楽に半分夢見心地で心ここに在らずといった反応をしてしまったが、彼女はそんなこと気にした様子もなく言葉を続ける。
「……せっかく恋人になったんですから、その……もっと恋人らしいことしてみませんか?」
あまりに緊張した様子と台詞に半分寝落ちしかけていた意識が覚醒する。俺は瞼を開いて、その言葉を反芻し意味を考えてみた。
「……つまり、エッチなことをしたいと?」
「ち、違います!そ、その……そういうのはもっと段階を踏んでから……!」
冬海の言い方があまりにもエッチだったので勘違いをしてしまったが、どうやら違うらしく彼女は慌てて否定する。しかし、段階を踏めばいいと?
「耳掻きより恋人らしいことってなんだよ?」
「その……私達恋人同士なのに、先輩ずっと私のこと姓で呼ぶじゃないですか。……先輩達のことは名前で呼ぶのに」
どうやらそこにずっとジェラってたらしい。
いじらしい彼女の可愛さに、くつくつと笑いが溢れる。
「なに笑ってるんですか?」
「いや、なんでも。……雪菜」
「っ!?」
親しみを込めて名前で呼ぶと、太ももが震えた。
「…… なんていうか、擽ったいですね。慣れるのに時間が掛かりそうです」
「おまえは呼ばないのか?」
「先輩、ごろんしてください。反対もやりますから」
「おーい、雪菜?」
「ごろんしてください。反対もやりますから」
照れ隠しに顔をもみくちゃにされて、俺は膝の上をゴロゴロと転がる。
「おっ」
「ひにゃ!?」
「ぐふっ!?」
わざとお臍に顔を埋めれば、情け容赦なくソファーから突き落とされた。
「いててっ」
「……先輩、今わざとやりましたね」
「さて、なんのことやら」
自業自得だが、こんな日常も悪くない–––またやろう。と、密かに心に決めた瞬間だった。