藤宮直人先輩と正式なお付き合いをはじめて一ヶ月が過ぎた。
夏休みの間は定期的に会って、お家デートを繰り返している。本当なら外にも遊びに行きたいけど、この暑さではどこに行く気も起きず家で常に寄り添い過ごしていた。
大学が再開してからもずっとそんな様子で、私と先輩は順風満帆な恋人生活を楽しんでいる。
もうほぼ毎日のように先輩の家に押し掛けているけれど、毎日そうしているわけにもいかない。
「はぁ……」
今日は予定があるため先輩と帰宅せずに大学で別れて正門を出た。傍には黒塗りの高級車が停車しており、否応なく私は現実に引き戻される。
この前はついうっかりしまらない顔をしすぎて、母親に『気が緩んでいる』と叱責されてしまった。それを思い出して、私は改めて深呼吸をするといつもの無表情を顔に張り付けた。
高級車の後部座席に乗ると運転手がちらりと確認して、ゆっくりと発進する。
約三十分程走行すると、いつものあの豪邸が姿を現した。
外の正門を通り抜けて、屋敷へと進む。
いつものように裏口近くに停車して私を降ろすと、送迎車はガレージの方へとゆっくり消えていった。
「すぅ……はぁ……」
深呼吸をして、もう一度気を引き締める。
裏口から中に入り、更衣室で正装に着替えた私はいつもの部屋を目指した。
目的の部屋の前でもう一度深呼吸をする。
そして、私は顔を引き締めると扉をノックした。
「お嬢様。冬海です」
「は〜い。どうぞ〜」
中から待ってましたと言わんばかりの可愛い声が急かすように入室を促す。
心の中で溜め息を吐きつつ扉を開けると、待ってましたと言わんばかりに笑顔の私のご主人様がニッコニコで出迎えてくれた。
「おかえりなさい雪菜さん」
「はい。ただいま戻りました」
入室して扉を閉める。–––その瞬間、何故か私は逃げられないような錯覚を覚えた。
「さぁ、どうぞ座ってください」
お嬢様は待ってましたと言わんばかりに勉強を投げ出し、ソファーへと移動する。テーブルの上には色とりどりのお菓子と湯気のたったティーポットが置かれていた。
最近はいつもこうだ。
お嬢様は勉強の息抜きに私の恋愛話を所望する。
恋に恋しているというか、年相応に恋愛に興味を示すのだ。
だから、私の到着に合わせてお茶会の準備が部屋にしてあるのはいつものことで、それを見た私はつい身構えてしまう。
「……はい」
だけどせめて私の話が息抜きになるのなら……そう思うと、嫌とは言えない私がいて結局は従ってしまうのだ。
私は従者だ。仕方ない。と、言い訳をしつつソファーに座ると、お嬢様が自ら紅茶をカップに注いでくれる。
「喉が渇いたでしょう。どうぞ」
「……いただきます」
うっきうきのお嬢様に勧められては飲まないわけにもいかず、意を決した私はカップを手に二口ほど飲む。
「ふふ、何かいいことでもあったんですか?」
その様子をまじまじと観察されたと思ったら、今度は何を言い出すのかお嬢様はそう尋ねてきた。
「それはどういった意味でしょうか?」
このお茶会は仕方なく私の恋愛体験談を話しているのだ。だから、私が好きでやっているわけじゃないという言い訳を胸に募り見返すと、お嬢様はニコニコとした笑顔を返してきた。
「だっていつもの二割り増し口角が上がってますから……」
ピクッ、と口角が動く。確認したくて手を動かしかけたけど、手に持っていたティーカップが失態を防いでくれた。
「……特に変わりはありませんよ。あの人はいつだって優しいですから」
そう。たとえば月の日で少し体調を悪くしていると休んでいるように言ってくれたり、過保護なまでにお世話してくれたり、風邪気味でも体調を気遣ってあれやこれやとしてくれるのだ。お姫様抱っこで無理やりベッドに運ばれた時はどうかと思ったけど、本音を言えば凄く嬉しかった。私の父は母に対してそこまでしていたところを見たことがないので。
「……おぉ、そうなんですね。やはり、愛されているからでしょうか」
私としたことが口に出てしまっていたらしい。
誤魔化すように紅茶を口に運んだ。
「……それで、どこまで深い関係に?」
その紅茶が、気管に入って咽せてしまった私は、口元を抑えながら涙目でお嬢様を見た。
「ど、どこまでとは?」
「……そ、その……ちゅーとか、したのでしょうか?」
小学六年生のお嬢様はそういうことにも興味津々らしい。
聞かれた私はつい顔を赤らめて、視線を泳がせた。
「……いえ、その……まだです」
正式なお付き合いから一ヶ月。もう一ヶ月経つというのに進展はない。
そのことに焦りを覚えたけど、さすがにお嬢様にそう言った話をするのは憚られ口を噤んだ。
「ど、どうしてそのような話を?」
「陽菜さんから恋人は毎日のようにちゅーをするのだと聞きましたから、雪菜さんもそうなのかなと……」
「(あの雌猫今度泣かす……!)」
お嬢様に余計なことを吹き込んだ“あれ”の処分を考えはじめたところで、不意にお嬢様が寂しそうに眉尻を下げる。
「いつかは雪菜さんも結婚するんですよね……」
「……そうですね。私としては、今の彼と結婚する未来以外は考えられないかと」
凄く真面目そうな話だったので私も真剣に返すと、お嬢様はまんまるに目を見開いた。
「それほどまでに好いているのですか……?」
「はい」
これだけは断言できる。だけど、それでも言えることは一つだけだ。
「でも、もし結婚をしても、お嬢様のメイドをやめることはありませんよ。あの人に言って続けさせてもらいますから」
「そうですか……?」
「はい。……あの人、たぶんメイド好きなので、むしろせがまれるかと」
もし私が本物のメイドと知れたら、制服姿を見せてくれと言うに違いない。そんな確信があった。
「メイドさんが好きなんですか?」
「……まぁ、たぶん」
私の恋人がメイド好きの変態になった気がするけど、お嬢様は変な曲解はしないはず。私はそう思うことにした。
そして、それは当然のように私にも牙を剥く。
ポンと手を打ち合わせたお嬢様は、何を思ったのか満面の笑みでこう言うのだ。
「それなら今日はその姿で帰って–––」
「嫌です」
食い気味に拒否すると、お嬢様が首を傾げる。
「どうしてですか?お好きなんでしょう?」
「そうですけど、なんというかこれはその……嫌です」
もしこの正装で襲われでもしたら、明日から私は何を着てお嬢様にお仕えすればいいのか。まず間違いなく私は思い出すことになるはずだ。彼とのあれやこれやを。メイド服に袖を通すたびに。
そうなってしまえば私は本当にダメになる気がするので、その一線だけは譲れない。
私が拒絶の意思を示すと、お嬢様はきょとんとしたまま引き下がった。だけど、すぐにいつもの笑顔に戻る。
「結婚式には絶対呼んでくださいね」
「はい、それは必ず」
そんな約束をして、ふとお嬢様は視線を巡らせる。
「そうなると子供もできますよね」
そして、何気なく呟いた一言に、私は過敏に反応してしまった。
「そ、そうですね」
「男の子でしょうか?それとも女の子?どっちも雪菜さんの子なら可愛いと思います」
「そ、そうですね……」
「雪菜さんは知っていますか?赤ちゃんがどうやって作られるのか」
その言葉を聞いて、私は眩暈がした。
お嬢様の情操教育は厳にされている。
蝶よ花よと育てられたお嬢様は、正確な子供の作り方を知らない。
おそらく性的な行為が『ちゅー』くらいの知識で止まっている。
私は思わず、甘やかしてきたツケを一気に背負わされた気分になった。
「……さぁ、どうでしょう?」
「私が思うに人間の子供の作り方は、動物や植物と大差ないと思うんです。おしべとめしべのような器官で受精卵を作るとは思うんですが……具体的にはどうやって作るのかそこがわからなくて……」
しかし、元からスペックが高いお嬢様は足りない知識を繋ぎ合わせて答えに至ろうとしていた。その事実を知った私は、どう伝えるべきか悩む。
「……そういうのは、経験者である御両親に聞いた方がよろしいかと」
そして悩んだ末、原因達に丸投げした。
それから一時間ほど、私の新生活を語りお嬢様の部屋を出た。
空はすっかり黒く塗り潰されて、星の瞬きが空を彩っている。
廊下に出た私が最初に目にしたのは、ニヤニヤと笑うメイド姿の陽菜先輩だ。
「いや〜、ずいぶん長い惚気話でしたね」
意地悪く笑う姿にイラッとしたもののポーカーフェイスを崩さずに冷たい視線を投げつけると、陽菜先輩は軽く跳ねるように近づいてきた。
「にしても意外でしたね〜。キスもまだだとは」
「っ」
気にしているところを指摘されて、私はつい睨むように陽菜先輩を見る。すると肩を軽く抑えられた。
「まあまあそう怒らない。……でも、となるとそれ以上のことは“まだ”ってことっすよね?」
付き合いはじめて一ヶ月。まだ一ヶ月だ。本来なら焦る段階ではないけど、私が焦っているのは目の前にいるこの雌猫のせいだ。先輩を性欲で堕落させ組んず解れつした変態メイドのせいである。
私は嫉妬で狂いそうになる心を“恋人になれた”という余裕で押さえつけ、澄まし顔で応対する。当然声音にも出さない。
「……何が言いたいんですか?」
「いや、意外だなぁと思って」
「それは先輩がすぐに手を出さないことに対してですか?」
私が「隠れて先輩の性欲処理してるのあなたでしょう」という咎める視線を向けると、彼女はケラケラと笑う。
「やだなぁ〜この一ヶ月あたしも直人君とそういうことしてないっすよ〜。付き合いはじめた熱々カップルに悪いじゃないですか〜、それくらいの良識くらいあたしもあるっすよ」
「…………」
「おや、疑ってるんっすか〜?」
心外な、とばかりに陽菜先輩は鼻息荒くフンッと唸った。
「それに直人君だって彼女を大事にしようって気持ちの一つや二つありますよ。だから、あたしの知る限りでは、あたしも麗花も直人君とはご無沙汰っすね」
「……え、そうなんですか?」
「少なくとも彼女差し置いて他の女と交わってるってことはないっすよ。だから、まぁ……単純に雪菜とヤッてないだけっす」
断言した陽菜先輩の言葉を受けて、私はほっと……できなかった。
「…………それってつまり、私には手を出す価値がないと?」
陽菜先輩の胸と見比べる。どう考えても私の胸は陽菜先輩の胸と見比べて小さい。あまりのショックに私は膝から崩れ落ちそうになった。
「そ、そんな……どうすれば……」
「あー、別にそういうことじゃないと思うっすよ?」
「じゃあ、何故先輩は私に手を出さないんですか?」
「……ん〜、雪菜ってほら、お堅そうというか……そういうことに無縁そうというか、そういう雰囲気があるから手を出しにくいんじゃないっすか?」
そんな私にトドメを刺すように陽菜先輩が問題点を指摘して、私は思い当たる節に思わず考えを巡らせてしまう。
「た、確かに……そういうことは結婚してからという考えはありますけどっ。でも、それは……」
「過去のことと」
最後の言葉を代弁されて、私は思わず顔を赤らめた。
「おーおー、うぶっすね〜。こういう真面目な娘ほど、そういうのにハマるんですよね」
「わ、私は別に、そのようなことは……っ」
「口ではそう言っても体は正直ってやつっすね。麗花がそうでしたし」
「え、あの人元から変態じゃなかったんですか?」
「違いますよ。色に狂っただけです」
それはそれでどうなのかと思ったけど、あれが私の未来だとすると……嫌すぎる。
「私はそうはなりません」
「そうだといいっすけどね。でも、大変っすよ?あまり我慢させすぎると……」
「が、我慢させすぎると……?」
「そこから先は自分で確かめてください。……ただ、一言で表すなら『合意の上で犯される』とだけ」
「!?!?!?」
「それじゃあ、あたしはこれで」
思わぬ言葉にどんなことをされるのかと脳内を自主規制された映像が駆け巡る。気がついた時には、廊下には陽菜先輩の姿はなく、遠くで鳴く梟の声だけが屋敷に木霊していた。
花粉終わったかと思ったら翌日に大ダメージを受けたでござる