シャワーを浴びてからリビングに行くと、既にキッチンからいい匂いがしていた。
空き腹には効果抜群で、その匂いに釣られてキッチンに視線を向けるとエプロンをした雪菜が朝食の用意をしている。
フライパンの上ではソーセージが跳ねて、その横では目玉焼きがパチパチと音を立てて焼けていた。
「ふ〜ん、ふ〜ん♪」
上機嫌に朝食を作る雪菜の背後から忍び寄る影–––俺は背後から覗き込むように肩から顔を出すと、そのまま彼女の細い腰に手を回した。
「きゃっ」
ちょっと触れただけでびっくりした彼女は、肩を跳ねさせて–––その肘を俺の腹に反射的に打ちつけた。
「うごっ!?」
「あ……」
甘い男女の絡みが一転、痴漢の撃退に。
彼女の強かさに安心するやら、若干悲しみを覚えるやらで……複雑な心境だ。
「だ、大丈夫ですか……?」
「……これならストーカーが現れても心配なさそうだな」
「まぁ、護身術くらいは習得していますので」
せめてそのセンサーを恋人の前ではオフにできないだろうか。切実に願う。
しかし、その程度でめげないのが俺である。
可愛い彼女からの打撃を理由に、甘えるように背後から抱きついた。
「もうすぐできるので座っていてください」
「むっ」
焼いていたソーセージを口に突っ込まれる。
もぐもぐと咀嚼してから、飲み込んだ俺はさらに絡みついた。
「……なんというか、どことなく距離が近くありませんか?」
「はて、俺は昨日と同じつもりだが」
「なんというか遠慮がなくなったというか……その、壁がなくなったと言いますか」
「嫌いかね?」
「……いいえ、嫌いではありませんけど」
ほんのりと頰を赤らめて満更でもない顔をする雪菜は、箸先でソーセージを転がす。
「じゃあ、もっとくっついていよう」
お腹に腕を回して、さらに密着する。
「……先輩、なんだか触り方がいやらしいです」
腰のくびれをなぞったりしていると、半目で睨んできた。
「こんなエロい恋人が無防備にしていたら、触りたくなるのが男心ってものなんですよ」
「それ先輩が触りたいだけっ、ですよね?」
一瞬だけびくりと腰を震わせて、雪菜は逃れようと腰をくねらせる。
「ひゃっ、そんな触り方……!」
上へ、上へ、頂を目指す。
「……あれ?」
シャツの下にあるはずのものがなかった。
◇
テーブルの上には朝食が並べられている。
狐色に焼けたトースト、体に優しい野菜スープ。……そして、必要以上にカリカリに焼けたソーセージと、裏面が焦げ気味のかた焼きの目玉焼き。
「……」
その失敗具合を示すように、向かいに座る雪菜の機嫌は斜め気味だ。その不機嫌度は焦げ具合に比例するだろう。
料理中にえっちな悪戯をされたことが大変気に食わなかったらしく、途中から無言で威圧してくるようになってしまった。
「……悪かったって。今度からは本当にしないから」
このように謝り倒しているが、「この人本当にわかっているんですか」という責めるような視線をひしひしと感じる。
「……先輩のことだから、衝動的にやりますよね?」
「…………できるだけ自制するよ?」
「絶対ではないんですね」
「俺もそれは自信ないし、できない約束はしたくない」
「……」
今度は呆れたような視線が突き刺さった。
「先輩、どうして私が怒ってるかわかりますか?」
「……料理中に悪戯したからですかね」
「曖昧ですね。具体的には?」
「……えっちな悪戯したから?」
すっと視線が細められた。あ、これ本当に怒ってるやつだ。ゴゴゴという圧が雪菜の背後に見える。
「料理中は包丁を持ったり、火を使ったりしてるんです。そんな時に周りで悪ふざけなんてしたら、どうなるか子供でもわかりますよね?」
「……はい、申し訳ありません」
素直に謝罪したが、沈黙が怖い。だけど、言わねばならないこともある。
「たとえばの話だけど」
「?」
「もし可愛い彼女さんが裸エプロンなんてしてたらどうするのが正解だと思う?」
「そんな破廉恥な格好しません」
そんな、バカな……!?
俺はあまりのショックに顔が歪む。
「そんな悲しそうな顔してもしませんよ」
「……」
「…………しませんからね?」
「……」
「………………料理中にエッチなことしないって約束するなら、一回くらいならするかもしれませんが」
「裸エプロンに襲い掛からないのは不可能だろう。それが罷り通るのは、不倫や浮気をしている旦那さんだけだと思うぞ」
「……確かにそれは一理あるかもしれませんね」
少しずつ雪菜が譲歩の姿勢を見せ始め、もう一押しで落とせそうだった。彼女は悩ましげに思案する。
「……それなら、包丁と火を使っていない時だけ、なら……」
包丁と火を使っている時に背後をうろちょろしてやろう、そう決めた瞬間だった。
「先輩何かよからぬことを企んでますね?」
「いいや、何も考えてないぞ」
「その顔は嘘です」
「おまえも俺のことよくわかるようになったよな」
「やっぱりよくないこと考えてますよね?」
「否定はしない」
誤魔化すようにトーストを口に運ぶ。何もつけていないが、食パンが香ばしく焼けており実に美味い。
「……はぁ、私が愛想尽かしても知りませんからね」
「そのラインは頑張って見極める」
そう言ってなんでもしてくれるのが雪菜だ。今までだって嫌じゃなければ大抵のお願いは叶えてくれた。
–––♪♪♪
しばらく無言で朝食を食べていると、どこかでスマホが鳴った。メッセージの着信音だ。
「どっちのでしょうか?」
「持ってくる」
食事中ではあるが、緊急性のある連絡だと困るので寝室にスマホを取りに行く。スマホを二つ手にダイニングに戻ると雪菜のスマホを渡した。そして、すぐに確認する。
「俺のじゃないな」
「私のですね。……陽菜先輩から」
メッセージに視線を通した彼女は、何やら百面相をしたあと……すっと真顔に戻した。
スマホは伏せてテーブルに置く。万が一にも見られない対策済みだ。
「バイトの話でした」
「あー、念のため送り迎えに行こうか?」
「いいです。問題はありませんので」
「……そうか」
俺はなんとなく気になりつつも、雪菜がそう主張するので踏み込めずに引き下がった。
「何かあったら言えよ」
「はい」
せめて何かあればすぐに助けられるように……。
そう願ってもいいはずだ。
◇
同棲開始から約一週間、問題なく同棲生活は継続している。
俺からすれば雪菜には何の不満もない。料理ができて、洗濯してくれて、掃除もしてくれるよくできたお嫁さんだ。逆に何もさせてくれないのが居た堪れないが、今や懐柔されかかっている。
いつも通りに午前の講義を終えてオカルト研究部の部室に行くと、そこには見知った姿があった。
「おはよう、藤宮君」
「おはようございます麗花先輩」
敬愛する麗花先輩に挨拶を返しながら向かいのソファーに座ると、彼女は不満げにこちらを半目で見てくる。
「君ってそういうところあるよね。隣が空いているのに、どうして向かいに座るのかな」
「……なんとなく?」
わざわざ隣に座る理由もないと思うが、もはや習性のようなものなのでどうしようもない。
「まぁ、いいんだけどね。それより同棲生活は上手くいってるかい?」
「ええ、おかげさまで」
その証拠にお弁当を広げてみせる。雪菜特製の愛妻弁当だ。
「君の食生活が充実しているようでなによりだよ」
肩を竦めてみせる麗花先輩は、どこか寂しそうだった。
「まぁ、問題はないですよ」
「そうだね。ストーカーも捕まったというし、同棲を継続している以上上手くいってるんだろう」
「え?」
「え?」
お互いに顔を見合わせる。今、先輩はなんと言ったか?
「ストーカーが捕まったって言いました?」
「聞いてないのかい?同棲を開始してすぐに冬海君の家にストーカーが侵入して、住居への不法侵入で捕まったって……陽菜が言ってたけど」
「えぇ……雪菜、それ知ってるんですか?」
「伝えたと聞いているが」
「「……」」
二人で見つめ合い沈黙する。思い合っていることはたぶん違う。
ただその思いは別のところに通じた。
「–––失礼します」
ドアをノックする音がして、扉が開く。
そこから姿を現したのは、件の彼女。
「このむっつりスケベ娘!!!!」
雪菜に向けて、麗花先輩は指をさして叫んだ。
「だ、誰がむっつりスケベ娘ですか!」
「事件が解決したのに黙って同棲生活を継続している君だよ!」
その後、雪菜は反論したが麗花先輩の圧勝だったとだけ言っておく。