「あら、ワインがなくなっちゃったわね」
気がつけばワインが一本空になった。
志穂さんは席を立ち、冷蔵庫から新しいワインを取り出すと戻ってくる。
素面の時は可愛らしい人という印象だったのに、酔うと尋常じゃない色気を醸し出す姿に少しだけ居心地が悪くなった。
しかもさっきまで対面に座っていたのに、何故か右隣に座ってきた。酔うと色気だけでなく警戒心まで薄れてしまうのか、距離は近いし愛理に負けず劣らずの大きさのおっぱいは当たるしで平常心を保つのが難しく、両手に花だというのに喜べない状況に動揺していると対面に座る都の姿が目に入った。なんというか冷めた視線である。
「お兄さんの変態。お姉ちゃんに報告しますよ」
「……何をだよ?」
「お兄さんがお母さんに欲情したって」
「酷い言い掛かりだ」
確かにちょっと胸の谷間やらに視線が動いたかもしれないが、すぐに視線は外したのだ。
「それにしてもぐっすり寝てるわね」
視線がバレていたのか、いないのか。
志穂さんは反対側で眠る娘の安心し切った姿を見て、ふっと柔らかな笑みを浮かべる。
いつの間にやら膝を借りて、ソファーに横になって柔らかな寝息を立てている愛理。その姿を母親と妹が見ているとはつゆ知らず、夢の世界の中で本当に幸せそうだ。
「随分と疲れてるようね。昨日は何時に寝たのかしら?」
「……えっと、割と(朝)早く」
たぶん意図的に意地悪な質問をしたわけではないのだろうが、志穂さんはニコニコと新しく開けたワインをグラスに注いでいた。
「あら、そう。てっきり私は昨日もお盛んだったのかと思ったんだけど」
–––前言撤回。お酒でこの人の理性はネジ一本分外れてることを忘れていた。
「直人君も眠そうに見えるけど」
「……そうですかね」
昨日どころか朝も……。なんて言えるわけもなく、適当な言葉で濁す。事実、緊張で眠れなかったこともあるが、愛理のおかげで快眠だ。
今眠いのはお酒のせいであり、明らかに俺より酒に強い志穂さんに酔い潰されそうになっているからで、睡眠不足が理由ではない。
「そうだ。そんなお兄さんに眠気が覚める面白い話をしてあげましょう」
これ以上掘り下げられるとまずい。
そんな状況を打開してくれたのは、都だ。
本日何杯目かわからないオレンジジュースを飲み干すと、ぱたぱたと駆け出してリビングを出ていく。そのあと卒業アルバムらしきものを抱えて戻ってくると、ソファーに座ってパラパラと頁を捲る。お目当ての頁を見つけたのかふと手が止まった。ニヤニヤと楽しそうな笑みを浮かべて、こんなことを言い出したのだ。
「卒業する時に、卒業アルバムに載せる作文を書くじゃないですか」
「そうだな」
「小学生の時の卒業アルバムに、面白いことを書いた人がいまして」
「……おまえ、まさか全部読んだのか?」
「いえ、一部だけですよ」
卒業アルバムに載せる作文の数は、卒業生全員分だ。それを卒業文集などと呼んだりするが、ただの作文である。将来の夢や、当時好きなもの、他にプロフィールのようなものが載せられていて、思いの外読むところが多かった記憶がある。
「それで、面白いことを書いたやつって?」
たまに奇天烈なことを書く面白い奴もいて、それを読んだこともある。誰が何を書いたかほとんど覚えていないが、覚える必要もないだろう。読みたければ家にあるのだから。
都の世代にも面白い子供はいたらしい。
俺が興味を示すと、満を持して都が口を開く。
「テーマは将来の夢で。タイトルは『将来結婚することのデメリットについて』」
「もう既に面白いな」
俺も同じテーマで作文を書いた覚えがある。
地域によって違うのか、学校によって違うのか。
最後に書くのは『将来の夢』についてだ。
卒業文集にするって教師が言っていた気がする。
「そうですよね。最初から最後まで、結婚することの欠点ばかり書いて、最後には『絶対に結婚なんてしない』でオチを持っていくところとか本当に面白くて。お姉ちゃんの将来結婚して幸せな家庭を築きたい作文も面白かったですが、その対比を考えるともうお腹抱えて笑っちゃいました」
文章を今も読んでいるのか、ふふッと楽しそうに笑った。
ついでに姉の作文まで読まれていることが発覚したが、当人は夢の中だ。知る由もない。
「もう、あんまり人の作文を笑っちゃダメよ」
「だって面白いよ実際。お母さんも読んだら興味が出ると思うんだけど」
そう言って都は志穂さんに卒業アルバムを渡す。
まぁ読むくらいなら……と、志穂さんはその頁に視線を落として目を見開いた。
そして、興味深そうに見ていく。ついでとばかりにパラパラ捲って、別の頁も見ていた。
「ふふっ、確かにこれは面白いわね」
何を読んだんだろう。
最初は否定していた志穂さんが心変わりしたのだ。
気になって仕方ない。
アルバムを注視して……気づいた。
「–––って、それ俺と愛理が卒業した年の卒業アルバムじゃねぇか!」
都が面白いと称賛していた卒業アルバムの作文は、彼女の年のものではなかったのである。
「それでお兄さん結婚する気はないんですか?」
ちなみに都が面白いと言った作文も、俺が書いたものだった。
愛理が書いた作文なら読んだことがあるし、対比が面白いと言ったのも納得だ。彼女が書いた作文は、将来どんな結婚生活を送りたいか書かれたものだったのだ。
お互いに卒業アルバムに書いた作文について物申すことがあり、喧嘩になったことは覚えている。発端は彼女が俺の作文にいちゃもんをつけてきたことだった。
「またおまえは答えづらい質問をするな」
「お母さんも気になるよね?」
「そうね。まぁ、気にはなるけど答えなんて目の前にあるようなものだし」
膝の上に座る猫を撫でるように。愛理の頭を撫でていた俺を見て、志穂さんが言った。
「ちゃんと責任を取るつもりはあるんですかお兄さん?」
私の姉に何してくれてるんだこの野郎、と言わんばかりに凄んでくる都だが半分面白がっているようである。
結婚に否定的だった人間が、異性に溶かされて関係を構築した事実が面白いと言わんばかりだ。
「……黙秘する」
「否定しないってことは、それなりに考えてはいるのよね」
NO以外の応えをするとこうなるとは分かり切っていたが、気恥ずかしいものがある。
志穂さんはそれで満足とばかりにワインを傾けた。
「いや、それはですね……」
「じゃあ、結婚しないの?」
「面倒というか……」
あたり障りのない言葉を探す。
逃げても角が立たないような、そんな言葉を。
取り敢えずは、まぁ……持ち上げるところから始める。
「幼い頃は漠然と誰かと結婚して両親のように幸せな家庭を築くものだと思ってたんだけど」
「おや、お兄さんにもそんな時期があったんですね」
「まあ、な」
作文の件で揶揄ってくる都を軽くあしらって話を続ける。
「でも、結婚すると色々と面倒だろ。一人の時間は少なくなるし、結婚式しないといけないし、新婚旅行にも行かないといけない。お金だって自由に使えなくなるし、独身の方が色々と楽っていうか……」
「なら、なんでお姉ちゃんを捨てないんですか?」
「……」
答えに窮して沈黙する。
きっともうこれが答えではあるのだ。
捨てられない。捨てられなくなってしまった。
捕まって、逃げられないのなら。
あとはもう堕ちていくだけだ。
「……もうあとは時間の問題ね」
「お母さん、私胸焼けしてきた」
「奇遇ね。コーヒー飲む?」
「飲む。あとお兄さんが持ってきてくれたケーキ食べたい!」
母娘が揃ってキッチンへ行く。
俺は一人すやすや眠る愛理の頰をそっと撫でた。
珈琲を飲んで一息ついたあと。
カップを置いて、志穂さんが口を開いた。
「そういえばアルバムで思い出したんだけど。直人君、愛理の小さい頃の写真見る?」
興味がないと言えば嘘になる。
俺が興味を示すと、ちょっと待っててね。と言い残してリビングを出て行った。
それから数分ほどで戻ってきた志穂さんの手には、五冊ほどのアルバムが抱えられていた。その上におっぱいが載っている。思わず凝視してしまうのは男の性というやつだ。
「えっと……どれだったかしら。これが……愛理の生まれた頃の写真ね」
そう言って見せてくれたのは、愛理が生まれて間もない写真だ。
まだ薄らとしか毛が生えていない赤子の姿。そんな愛しい娘を抱きながら病院のベッドに座っている若い頃の志穂さんと、号泣している男性の姿が写っている。
写真一枚から溺愛っぷりがわかるほどだった。
「それで次が……初めて寝返りを打った写真ね」
「寝返りを打った写真……」
タイムリーに膝の上で愛理が身動ぐ。そのままころんとお腹の方に顔を向けてきて、がっしりと服の裾を掴んできた。
「それでこれが初めてはいはいした時かしら」
次の写真に写っていたのは、四つん這いでカメラに向かっていく赤子の姿だった。
「それでこれが……」
パラッ、とアルバムが捲られる。
赤ん坊の時期を過ぎ去って、三歳くらいの頃へ。
何やらシミを作った布団を前に、泣いている愛理がいた。
「おむつを卒業して、おねしょして大泣きしてる写真ね」
「なんでこれ撮ったんですか?」
「カメラマンは基本的に夫よ。数年経ったあと、写真を残されていたことを知った愛理が怒って一ヶ月くらい口を利いてもらえなくてね。だからやめておきなさいって言ったのに」
「大変ですね……」
自分の恥ずかしい写真が披露されているとは露知らず眠りこける愛理を見下ろす。もっとも恥ずかしい姿は見慣れているので今更だが。
その後何枚も頁を捲って、一冊目が終わった。
傍に置きながら、今度は新しいアルバムを取り出す。
「ふふ、これ何の写真かわかる?」
「これ、ですか……?」
頁をパラパラと捲って、志穂さんが手を止めたのはとある頁だ。
そっぽを向く小学生の愛理と、その前で膝をついて泣き崩れるお父さんという構図が出来上がっている。
何か事件があったのか、撮影者は志穂さんだ。
こういうところをバッチリ撮っているあたり、夫婦は似るものみたいだ。
「実はこの日、『お父さんとはもう一緒にお風呂入らない!』って宣言された日なの」
「道理で……」
「友達に聞いたらしくてね。四歳の頃にはもう一人でお風呂に入っているとか。だから、お父さんと一緒にお風呂入るのは恥ずかしいって」
四歳。聞いたことのある歳だ。
確か俺が一人で風呂に入り出したのも、その頃だった気がする。
愛理に喋った覚えはないが、どこかで聞いたのだろう。
小学生の間で一度は話題に上がるし、どこで聞かれてもおかしくはなかった。
「じゃあ、次の写真ね」
そして、更に頁は進む。
次の学年へ上がり、また季節は巡って時は過ぎ。
その変化はすぐに訪れた。
女の子特有の小さな膨らみが、大きくなっていたのだ。
下着姿の愛理の写真だ。
俺の記憶からすると、小学四年生になった頃だろうか。
「この写真は何の記念でしょう?」
再度、言うが下着姿の愛理の写真だ。小学四年生の頃の。特にこの頃は急に愛理の胸が成長して、男子の視線の的になっていた記憶がある。
「……愛理が初めてブラジャー付けた。とか」
「正解。直人君知ってたんだ」
「そりゃあ、よくも悪くも目立ちますし」
体育の授業の時にぽよんぽよん揺れる愛理のおっぱいを見て、凝視した男子は少なくない。それどころか同性からも熱い視線が送られていたくらいだ。知らない方がおかしい。
「この頃から、男の子の視線が苦手になったみたいでね。君はその点見向きもしなかったらしいわね」
「正直異性とかよくわかんないし、給食のことしか考えてなかったんで」
「えー、うっそだぁ」
食欲しかなかった。と宣うと疑わしいと言わんばかりに都が言う。
「本当だって。中学生になるまで赤ん坊が女性の尻の穴から生まれてくると思ってたから」
「お兄さんそれだと排泄物と同じ扱いですよ。いいんですか」
あまりにもあんまりな珍回答にドン引きした様子で、都はジト目を向けてくる。
当然そうなった経緯はあるわけで、俺は諭すようにそれを語った。
「いや、違うんだよ。中学生の保健体育で習うだろ。で、尻に穴が三つあるのかなって」
「誤解が解かれるどころか悪化してる!?」
「だって見たことなかったし」
「いやいや、お母さんのとか見たことあるでしょう。なんでそんな誤解が生まれるんですか」
「見たの小学校上がる前だぞ。ついてないことしか知らんだわ」
そこまで言って気づく。愛理の母親の前で何言ってるんだろうと。
「じゃあ、愛理でたくさん勉強したんでしょう?」
「答えづらい質問やめてくれませんかね」
この人も何を言っているんだろう。
俺は思わずそう口にしかけてやめた。
「それより他に面白い写真ないんですか」
パラパラとアルバムを捲る。
小学四年生から、小学五年生へ。
毎年のように夏は娘の水着姿を写真に収めていたのをスルーして、これまた個性的な写真を見つける。
足に縋り付く父親を見下ろす、困惑した顔の娘の写真だ。
「……どういう状況ですか?」
「あぁ、それね。それは初めて校外学習で一泊二日すると知った時、欠席するように引き止めている父親の写真ね」
「なんでまたそんなことに……」
「当時『娘がどこの馬の骨ともわからんやつと一つ屋根の下なんて許せるか!あの小僧俺の娘に手を出したらぶっ殺してやる!』って大騒ぎだったんだから」
「もうそれほぼ俺名指しじゃないですか」
よくわからない因縁をつけられて、ぶっ殺される方の身にもなってほしい。迷惑すぎる。
「それでこっちが『新婚旅行なんて許さない。あの小僧ぶっ殺してやる!』の写真ね」
次に見せられたのは、小学六年生最大のイベント修学旅行前夜の写真だ。
校外学習と同じく娘の足に縋りついて懇願する父親と、それを困惑気味に見る呆れた表情の娘が写っていた。
両手に服を持っているあたり、持っていく衣服を選んでいたのだろう。そこに父親が現れて衣服を選ぶどころではなくなった瞬間を撮影したらしい。
その隣には、父親一人倒れ伏す写真があった。
『パパうざい』の一言を受けて、致命傷を負ったと記載されている。
このあと出発の時まで口を利いてくれなかったとか。
後悔の念と共に綴られていた。
「小学生はあとは卒業式の写真と……」
毎年のように似たイベントの度に写真を撮る。
そういう方針のようで、同じイベントでも毎年分写真があった。
二冊目のアルバムが終わり、三冊目のアルバムを開く。
中学校の入学式から始まり、家族仲良く過ごす写真ばかりで埋められていた。
小学生の時ほどイベントの写真はない。
それでもどこかに出掛けて、写真を撮っていた。
夏は海へ。祭へ。実家へ。
部活動で大会に出る愛理の写真もあった。バレーボールのユニフォームがなんというか目の毒なことになっていたが。
クリスマスはミニツリーを飾り、何故かサンタコスをさせられた愛理が恥ずかしそうに妹弟にプレゼントを配っていた。
大晦日からお正月は家族で過ごした写真があった。初詣に着物を着て行った写真だ。
「……この写真は……」
「あら、気づいちゃった?」
いつものごとく号泣している父親が写っていた。
その傍で、一つだけ違う包装の包みを大事そうに抱えている愛理の姿がある。
父親が号泣しているのはいつものことだが、その手には透明なラッピングのチョコレートが握られていた。よく見れば机の上には同じものがいくつもある。父親の持っているのは、量産型の方だ。
「中学の時も、あの娘、チョコレートを作ったのよ。毎年ね。でも、結局渡せなかったって落ち込んでたわ」
「そうなんですか……」
その写真を見ると、胸が締め付けられるように痛んだ。
俺が悪いわけではないのに。
ふと説明書きを見ると、『あの小僧娘から特別なチョコ受け取るとか絶対に許さない』と血涙を流さんばかりの筆圧で書かれていた。
「すみません。高校の時のアルバム見せてもらってもいいですか?」
「ふふ、いいわよ」
中学時代のアルバムを最後まで見ることもせず、俺は差し出された高校時代のアルバムを手に取った。
入学式から始まるそれには、明らかな恋心の発露が見て取れてむず痒い。
奇妙な感覚を味わいながら見ていくと、最後の年のバレンタインで『今年こそは絶対に』と愛理自らが書いたような記述を見つけた。
その頁はそこで終わっており、俺は焦るように頁を捲る。
そこには愛理の部屋の扉の写真が一枚。説明書きに『あの小僧うちの娘泣かせるとか処す』と穴が開きかねない筆圧で書かれていた。
それから何枚か捲って、卒業式の日。
大泣きしている愛理が、卒業証書と共にあの日贈ったプレゼントを抱えて、両親と一緒に写っている写真だ。
「大学のも見る?」
「ええと、はい」
そう言って、また新しいアルバムを開く。
大学時代の愛理は、ツインテールをやめてポニーテールやサイドポニーの落ち着いた髪型にしていた。
どの写真もワインレッドのシュシュで一纏めにしている。
捲っていくうちに輝きを失うシュシュを見るに、それは間違いなく全部同じものだろう。類似品などではなく、俺が贈ったホワイトデーのお返しだ。
一枚、二枚と捲って……。
半分も捲らずに、アルバムが終わった。
「あれ……?」
「あぁ、ごめんなさいね。それで終わりなの。愛理の大学在学中に夫は事故で、ね」
どこか寂しそうに語って、志穂さんは家族写真を撫でた。
お父さんを星にするかどうか迷ってしまった結果引き延ばしてしまった……。