飛び乗った電車はかなり空いていた。
降りる時に開く最寄りの扉の近くに陣取り着席した私は、鞄からスマホを取り出して手持ち無沙汰に触る。
普段から連絡の少ない先輩がメッセージを送るわけもなく、意味もなくトーク画面を開くと一昨日した夕食の献立の相談で会話は終わっていた。
それが少しだけ寂しく感じて、とりあえずご報告ということで今の状況を伝えることにした。
『今から帰ります』
するとすぐに既読がついて、先輩から返信が来る。
『送迎車?』
『いえ、電車です』
元より送迎用の車は今日はイベントに貸切状態で、来客の一部を送迎するのにいっぱいだ。
さすがにお嬢様専属の運転手を借りるわけにもいかず、電車に飛び乗ったわけだが……。
逆に一人になれるこの状況で良かったと思う。たまに運転手さんは私の顔を見て、何故か面白そうにくすりと微笑むから。たぶんきっと今の顔を見ても笑われると思う。
『気をつけてな。夜道は危ないから』
『はい』
そう締め括って終わった会話のあとで、私はスマホを鞄にしまった。
車窓に映る街並みは変わらないものの比較的カップルが多いように思う。ふとホテルという看板が見えると、その下に長蛇の列ができていたのを目撃した私は、ついその様子を凝視してしまった。
ほんの一瞬だったけど、理解するのに時間は要らなかった。
あと数時間後には私と先輩も……と、考えると顔から火が吹き出そうになる。
狼になった先輩に身体中をベロベロと舐められて、蹂躙される様子がまざまざと浮かんだ。
「……っ」
それも朝まで。ずっと。
余計な一言まで浮かんで、私はさらに恥ずかしくなって思考を振り払うかのようにぶんぶんと首を横に激しく振った。
『次は〜〜〜駅〜〜〜駅。お降りの際はお忘れ物と段差にご注意ください』
十数分電車に揺られていると、先輩と私の住むマンションの最寄駅がすぐそこまで迫っていた。速度を落とし始めたのと同時に立ち上がり、出口へと我先に進む。
停車した電車の扉が開いた瞬間、私は誰よりも早く電車を飛び降りていた。
早く会いたい。その一心で足がいつもより速く動く。
半ば駆け降りるように階段を下り、駅のホームを出ると、家に一番近い改札口から駅を出た。
「雪菜」
私の名前を呼ぶ声が聞こえた気がする。
慌てて振り返ると、駅の入口付近で先輩が立っていた。
なんでここに、という疑問は置いておいて……。
反射的に駆け出した私は、勢い余って先輩の胸に飛び込んでしまう。
「おっと……おかえり」
「先輩、どうしてこんなところに?」
「暇だったから迎えに来たんだよ」
『暇だった』というのは先輩のよく使う言い訳だ。照れ隠しというか、素直に心配だからと言えばいいのに、いつもそうやって誤魔化す。
先輩は私の背中に手を回しながら、そのままぽんぽんと優しく背中を撫でてくれた。
「……素直に心配だったと言えばいいのに」
「心配だから迎えに行くって言ったらおまえどうする?」
「お断りします」
「だろうな」
副音声に「だから黙って来た」と言わんばかりの、呆れたような表情。お互いのことを知り尽くした私達は、相手の言葉の裏にある気遣いが透けて見え過ぎて、つい気恥ずかしくなって目を逸らしてしまう。
「まぁ、いいさ。寒いしさっさと帰ろうぜ」
「そうですね。夕飯を作らないといけないですし」
そう言った瞬間、先輩は目を逸らしつつ、
「……あと、ついでにイルミネーションを見ていかないか?俺こういうのしっかり見たことなくて」
不器用にもちょっとしたデートにも誘ってくれた。
「……ですが、夕飯が遅くなりますよ?」
「夕飯ならほとんど準備は済ませてあるよ。米も炊いてあるし、スープも作ったし、ハンバーグのタネまで作った」
「……先輩が料理?」
「……暇だったんだよ」
目を逸らしている先輩の横顔は、どこか照れ隠しを必死になってやっているように見える。その証拠に首筋を手で触れて掻くような仕草をしていた。先輩のいつもの癖だ。
「期待はすんなよ。俺あんまり料理上手くないし、ザ男の料理ってやつしか作れないし」
予防線を張っておくことも忘れないところが先輩らしい。
「それでも私は先輩が私のために料理を作ってくれたことが嬉しいです」
素直にお礼を言うと、先輩は変な表情をする。
「俺だって普段やってもらってるだろ。……礼を言われると変な気分になるからやめてくれ。だから、その……いつもありがとう」
不器用にも感謝を伝えてくれる先輩の言葉に胸がキュンとなって、あまりの胸の高鳴りに感情のやり場を失う。
本音を言えばキスをしたい。でも、ここはお外だ。お外。私は自分に言い聞かせるように復唱した。
「……そ、それじゃあ行きましょう」
行き場のない感情を全て手に込めて、伝われとばかりに先輩の手を握る。
握り返した先輩は、いつものように苦笑するような笑みを浮かべていた。
◇
先輩と見るイルミネーションの感想を述べるとすれば、『わからない』が正直な感想だ。
イルミネーションよりも先輩が作ったという夕食の方が気になり過ぎて、他のカップルが楽しげに観ている煌びやかな光が全く頭に入ってこなかった。視界には映っているはずなのに、映像が記憶として焼きつかないのだ。
十分くらい鑑賞して帰宅すると、先輩は真っ先にキッチンへと向かう。私も手伝おうとあとを追った。
「座っていていいぞ」
「いえ、そういうわけにはいきませんから」
強情にも無理やりキッチンに入ると、鍋の付近からはトマトの甘酸っぱい匂いがする。トマト系のスープだろうか?
「つってもあとは焼くだけだしなぁ」
既にフライパンは火にかけられており、切った付け合わせのブロッコリーやニンジンまで並んでいた。
「明日は一緒に料理しよう。な?」
「むぅ、仕方ありませんね……」
キッチンから言葉巧みに追い出されてしまった私は、先輩がよく見えるようにダイニングテーブルについた。
ほどなくしてフライパンにハンバーグのタネを投入した先輩は、軽く片面を焼いて焼き目をつけ、反対にひっくり返すと蓋をして鍋の様子を見る。
パチパチと弾ける肉汁の香りに食欲を刺激されながら、待つこと約十分。皿にハンバーグを盛り付けて戻ってきた。
「できたぞ〜」
続いてポテトサラダが入った小鉢に、スープを注いだ深皿–––中身はミネストローネだった。
「……先輩が割とオシャレな料理を」
ザ・男飯とか作りそうな人なのに、洋食を作り出すなんて……そのギャップに少し意外性を感じてしまう。
「先輩意外に料理できたんですね」
「まぁ、ほどほどにな。好きな料理はだいたい作れる。が、魚だけは扱えん。というか捌くの面倒臭い」
「鯖の味噌煮は自分じゃ作れないんですね」
「いいんだよ。コンビニとかに美味いの売ってるから。それに自炊しなくても雪菜がいるし」
「も、もう……」
遠回しの愛の告白にドキドキしつつ手を合わせ、私は頬の火照りを誤魔化すために早口で唱える。
「いただきます」
まずはスープで体を温めようとスプーンを突っ込む。中には賽の目斬りにされた人参や玉葱などの具材と、大豆、貝殻みたいなパスタ–––コンキリエ–––が入っていた。
「……普通に美味しい」
野菜の生臭さもなく、芯までしっかり火が通っている。トマトの甘酸っぱさも濃すぎず、すっきりとした味わいだった。
次に目をつけたのは、メインのハンバーグ。
箸を入れると、肉汁が溢れ出し–––中からチーズがダムからの放水が如く流れ出る。
まさかのチーズハンバーグに驚きつつ、一口サイズに切り分け口に運ぶ。と、挽肉がこれでもかと殴りつけてくる。なんだかずっしりとしているような感じがして、私が作るハンバーグよりなんだか密度が濃い気がした。
「……なんだか、ボリュームたっぷりですね」
「そうか?挽肉が多すぎたのかな」
「ちなみにどれだけ入れたんですか?」
「一人三百グラムくらい?」
「なるほど……」
その量ならもう少し大きいハンバーグができるはずなのだが、どうやら先輩は力で密度の高いハンバーグを作ってしまったらしい。いつも私が作るハンバーグは挽肉二百ちょっとである。それなのに私が作るハンバーグと大差ないのはやはり密度が違うのだろう。そこだけ先輩らしい肉肉しい出来上がりである。
–––とはいえ、これは私にとってもチャンスだ。
すかさず私は一口大に切ったハンバーグを、先輩の方へと導く。
「先輩、はい、あーん」
「あー……ん」
「美味しいですか?」
「うん……ってこれ俺が作ったやつ」
「私の愛情増し増しですよ」
「何故か旨味が二倍になった気がする」
そのまま咀嚼して先輩は何事もなかったかのように食べる。そして、さらに私は食べきれないであろう量を調節するために先輩の口へと運ぶ。
「はい、あーん」
繰り返すこと三回、私が食べられる量になったので自分の食事に戻る。いっそのこと全部食べさせたいけど、そんなことをすれば私はこのあとスタミナ不足で朝を迎えられない気がするので、おとなしく食事に戻った。
「ポテトサラダもいい感じですね」
「まぁ、それなりに作ったからな」
そう言った先輩は、少しだけ遠くを見るような目をしていた。
夕食を食べ終えて、食後のティータイムに移行する。
いつものように二人でソファーで並び、食後の珈琲を飲む。
「……」
時間は午後九時少し前。もうすぐで“例の時間”が訪れる。
刻一刻と迫るその時に、私はつい緊張をしてしまっていた。
もう何度肌を重ね合わせたかわからないのに、私は初めての時のように心臓のドキドキが止まらなかった。
「っ……!?」
膝が触れるたび、ぴくりと体が反応してしまう。
九時になったら、先輩が狼さんに変身するのを知っているからだ。
「……」
そんな肉食動物に弄ばれる小動物のような私を、ニタニタと楽しそうな笑みで追い詰める狼さんは、言葉にしないまでも全てわかっているようである。
「な、なんだかその顔は腹が立ちます……!」
「えぇ?どんな顔だよ?」
「……狩りをする狼さんみたいな顔です」
当然、狩られるのは私なわけで……。
捕食対象である私は、美味しく食べられるしかない。
肉食動物に怯える私に、先輩はどこか優しげな顔をして、頭を撫でてきた。
「いきなり襲い掛かったりしないから安心しろよ。俺だってムードとか弁えてるつもりだぞ」
そういう先輩の首から下に視線をちらっと向けると、『ここをキャンプ地とする』と言わんばかりにテントが張ってある。だめだ。飢えていらっしゃる。
カチ、と針が進み、私の余命は幾許もなく。
先輩は優しく肩を抱いてくるけど、そのせいか余計にドキドキして辛い。
この日のために、先輩は一週間ほど我慢している。
そして、それは私も同じだ。ほぼ毎日のように先輩に襲われて調教されてしまった身体は、先輩のことを求めてしまっている。本当は触れて欲しくて仕方なく、抱きしめられるだけで多幸感にどうにかなってしまいそうになる。キスだって朝したきりで、帰ってからそういう接触は一度もない。もしキスしてしまえば、お互いに止められなくなってしまうのがわかっていたからなのかもしれない。
あと数分、もう少し……気がつけば私は怯えていたはずなのに、心待ちにしていることに気がついてしまった。
律儀に待つ先輩に腹が立つ–––というよりかは、お腹が疼いて仕方がない。だから私は、はしたなくもそっと彼に寄り掛かる。
「(なんでこういう時だけ我慢強いのこの先輩は……!)」
本当は彼の膝の上に乗って、ぎゅーっと抱きつきたい。だけどそこまではしたないこともできず、私はいつもの自制心で私を律する。
カチ–––。
長い針が頂点に達した。
その瞬間、喜んだのは、果たしてどちらだったのか。
顔を盗み見れば、視線が合う。
絡め合い、複雑に絡みあった私達は、どちらからともなくキスを求めて……そっと、ソファーの上に倒れ込んだ。
「先輩……」
私が引き込んだのか……。
先輩が押し倒したのか……。
わからないまま、お互いに求め合った。
お互いに疲れ果ててしまうその瞬間まで。