『私は父親のことをよく知らない』
昔から父は“仕事人間”であまり家にいなかった。帰りは遅く、朝も早い。出張で家を空けることも多かった。
私が物心ついた頃には当たり前の光景で、顔を合わせるのも一日一時間にも満たなかったかもしれない。だけど最初からそれが当たり前に思えたから、不思議と変には思わなかった。
ただ少し怖かったことはある。父が私を見る時のあの目。『お父様』と声を掛けると、冷たくて、無機質なものを見るかのようなあの視線が返ってくるのだ。
その視線の理由がわからなかった私は、父との距離感を掴めずにいた。
そんなある日、突然、母が職場に復帰すると言い出した。
ついに母まで私の前からいなくなるのかと不安を覚えたけど、そんなことはなく……私は母に手を引かれて、その職場へと連れて行かれたのだ。
連れて行かれた先は、我が家など比べ物にならないほどの大豪邸だった。思わず私はその大きさに呆気に取られ、呆然と外観を見上げたのを覚えている。そんな私の様子を見て母はクスクス微笑っていた。
『さぁ、行きますよ』
母に連れられるまま裏から屋敷に入ると、更衣室で母はメイド服に着替える。そして、そのまま私を連れて広い屋敷を進んでいく。道中、母と同じ服を着た人達が沢山いた。私を見て手を振ってくれる。二言三言言葉を母と交わして、親しげにすると私にも挨拶をしてくれた。
そうこうしているうちに一つの部屋へとたどり着き、ノックをした後、声が掛けられて入室することになった。
『よく来たな』
『はい、おじ様。今日より復帰させていただきます』
『うむ。そして、その子は……随分と大きくなったなぁ』
父親とは違う男の人がいた。ムキムキだ。なんか強そう。が、感想。
そのおじさんは私を見てのっしのしと歩いてきて……私は反射的に母の背後へ隠れる。
『おぬしが赤ん坊の頃に会って以来じゃのぅ』
しゃがんで目線を合わせてきたおじさんは、さっきまでの岩のような硬い皺だらけの顔を破顔させて笑う。その笑みで私の警戒心は少しだけ緩んだ。
『この人はねー、おじいちゃんのお友達ですよー』
『おじいちゃんの……?』
そう言われて私の警戒心はすっかりなくなった。優しい祖父のことは好きだったから。
『あいつの孫はわしの孫じゃ。これからよろしくのぉ』
そう言いながらおじさんはポケットから飴玉を取り出すと、私の手に握らせてくれた。
–––これが、私が米倉邸に行った初めての日の出来事だった。
それから毎日、私は母に連れられて米倉邸に行った。
毎日柱の陰から母の仕事ぶりを観察する。
その度に思ったことは、母があの中で一番綺麗だということだ。容姿もだけど、所作も洗練されていて美しい。
母の仕事ぶりが私の心に刺さり、いつしか母のようになりたいと思った。
『私もお母様みたいになりたい!』
『んー、それじゃあやってみましょうか。私はこう見えて厳しいですよー』
それから私はメイドさんが教えてくれる保育園や幼稚園で習うような基礎教育の合間に、メイドとしての嗜みを学ぶことになった。
その翌日から、私のメイド教育は始まった。
他にもいた同年代のメイド候補の中に放り込まれ、基本的な事を教え込まれる。それが終われば母からの個人レッスンを、常日頃から叩き込まれるという徹底ぶり。口調は優しいけど、内容は厳しかった。
忙しくて、大変で、でも楽しくて。
私はつい父親がいない“◼️◼️◼️”を忘れた。
この頃には、私も母もほとんど米倉のメイド寮で生活しており、ほとんど家に帰ってはいない。週に二、三度掃除しに帰る程度だった。
もう何年もそういう生活が続き、私が小学生になった頃。
米倉邸には、大きな変化が起きた。大旦那様の本当の孫が誕生したのだ。
可愛らしい女の子で、とても小さい。
大旦那様からは『妹のように可愛がってほしい』とお願いされた。私は孫のように可愛がってもらっていたこともあって、私自身もその子を本当の妹のように思っていた。
“米倉桜”。彼女の子育ては、実の母親と大人のメイド達の仕事だった。初めて子育てをする奥様を手伝い、子育て経験のあるメイドを中心に赤子のお世話をしていた。
当然、メイド見習いである私は関われていない。精々お嬢様の機嫌がいい時に顔を見る程度だ。
そんなある日、こんな噂が流れてきた。
『お嬢様の物心がつけば、側にメイドを付随させる。それも歳の近いメイド見習いを』
私としては別に興味はなかったのだが、母のような優秀なメイドを目指すという目標の近道であることは確かだった。
頭の片隅にそんな思惑が浮かんだが、何もそれだけがメイド道ではないと思う。
周りのメイド見習いだってそこまで熱心に、お嬢様付きのメイドを目指していない。みんな噂程度に留めていた。
『別に選ばれなくてもいい』と、母は言った。だから、私も話半分に受け止めて、深く考えてはいなかった。
それから数日経ったある日、私は珍しい人物が屋敷に訪れた事を知った。
『そういえば雪菜のお父さんが来てるらしいですよ』と、言ったのは仲の良いメイド見習い。
私はただ告げられた内容に、『父が会いに来てくれた』のだと本気で思った。
だから、私は父の姿を屋敷で探した。探して、回って、見つけた。
『雪菜』
珍しく父から声を掛けてきた。
それが嬉しくて、駆け寄った。
この時ばかりは母の走るなという注意も忘れて、父の元へ一目散に。
『お父様っ』
『おまえメイドをやっているそうだな』
『は、はい……』
初めて父が私を見た気がした。目を見て話してくれる。それが嬉しくて、つい舞い上がってしまう。
次は何を言われるだろう。そんな期待に胸をざわつかせる私に、父はこう言った。
『桜お嬢様の側付きになれ。期待している』
『は、はい……!』
初めて父にそんな事を言われた。期待していると、褒められた気がした。
『仕事が残っているからもう行く』
父はそれだけ言い残して去っていった。
私は父の真意に気づかず、もっと頑張ろうと思った。
桜お嬢様が二歳くらいになった頃だろうか。
父はよく米倉邸に来ていた。
月に一度、訪れているらしい。仕事の話が大旦那様とあるからか毎回は会えないけど、その度に激励の言葉を掛けてくれる。
だから、これは仕方のない事だと自分に言い聞かせた。
『あれ、お父様……?』
そんなある日、たまたまお父様を見つけた。
お庭で遊んでいるお嬢様の側に。
いつものような冷たい表情ではない、人好きのする優しい笑顔だった。私はそんな顔向けられた事ないのに、お嬢様には優しく接している。
『え……?』
私は困惑して、近寄れなかった。
思わず物陰に隠れてしまう。
そんな時、聞こえてきたのはメイド達のとある噂だった。
『……またお嬢様に会いにきているわよ。あの人』
『取り入るために必死ねぇ。まあ、大旦那様に溺愛されている初孫だからね』
『娘や妻には毎回会わないのに、お嬢様だけには必ず会ってるわよね』
『それでも未だにお嬢様に警戒されてるけど』
『ほら、お嬢様は聡い子だから』
噂話と聞き流すことはできなかった。
胸にストンと落ちたのだ。
メイド達の言葉を理解できてしまったのだ。
お父様は私に期待していたんじゃない。私に利用価値を見つけたのだ。
–––私は幼いながらに、それを理解した。
◇
目を瞑れば、かつての苦々しい記憶が蘇る。
目蓋を開ければ、目の前には昔と変わらない白と黒のコントラストが美しい普通の二階建て住宅が建っていた。
値段は聞いたことないけれど、結婚した当時に建設したらしい。
本来なら家族の思い出があるはずの場所だけど、私の記憶には母と笑い合った記憶も僅かしか思い出せない。当然父との思い出は一つもなかった。
「帰ってきてしまったんですね……」
ポツリと寂しく呟きつつ、私は気が進まない中、ほとんど使ったことがない実家の鍵を使って鍵を開けた。
中はがらんとしていて生活感はない。
ここには母も寄り付いてはおらず、義務的に掃除だけがなされていた。掃除の腕が一級品の母がすると新品同様で、と言いたいところだけど生活感の無さに拍車を掛けているだけだった。
玄関には靴があった。
男性用のビジネスシューズ。その価格は一流の企業に勤めるのみならず、財閥の幹部役員である者に相応しい高級な品を使用しているようだ。
……そんな値段のもの母にも買い与えたことはないのに。
私は思わず毒を吐きつつ、玄関から上がった。
まるで他人の家に上がるようで、気分は良くない。
さっさと用事を済ませて帰りたい。そんな気持ちで父を探した。
リビングから気配がする。
私は長年メイドとして培った技術を用いて、父の居場所を探し当てる。
もう何度目かわからない心の準備をしつつ、扉をノックして確認をする。
「……入りなさい」
「失礼します」
一声掛けて入室すると、ダイニングに父の姿があった。
「……ただいま帰りました。お父様」
「座りなさい」
「……はい」
音を立てずに椅子を引いて、ゆっくりと座る。
それから数秒待ったあと、父は単刀直入にこう言った。
「–––おまえの結婚相手が決まった」
「……………………は?」
まるで既に決定された事実を伝えるかのような物言いに合わさり、突然過ぎて理解できなかった内容に、私は最初言葉の意味がわからなかった。
「……いま、なんて?」
「おまえの結婚相手が決まった。相手は西倉二郎君だ」
「ちょ、ちょっと待ってください、いきなり何の冗談ですか……!?」
「来月、見合いがある。それはただの顔合わせだ。おまえも相手は知っているだろう」
「西倉二郎さんのことは知っています。でも、それとこれとは–––」
「くどい。私に何度も言わせるな。これは決定事項だ。–––話は以上だ」
父は私の話も聞かず立ち去ろうとする。
言いたい事を一方的に言いつける。自分の都合だけを押し付けて、勝手な事を言う。
この男は、昔から何も変わっていない。
あまりにも自分勝手な言い分に、私は父を引き留める言葉を探した。
–––探すまでもなく、胸の中にあった。
「私にはいまお付き合いしている人がいます!」
本来なら、米倉の何処か一流企業に就職してから告げるつもりだった言葉。最低でもそれくらいでないと父は認めないだろうと思っていたからだ。
父はようやく私の方を見た。
冷たい視線は、苛立っているようだった。
「そんなどこの馬の骨ともわからぬ男すぐに別れろ」
「嫌です!」
「わがままを言うな。そんな学生のお遊びが長く続くと思っているのか?」
「続きます。私は先輩のこと愛してますから!」
「たとえおまえがそうだとしても、相手がそうとは限らんだろう」
まるで見下すような視線に、私はつい怒りが沸く。
「いいか。こんなチャンス滅多にないんだぞ。相手は米倉の分家筋、それに二郎君は既に会社を一つ経営していて財閥の中でも将来的にも高い地位が約束されている男だ。おまえが幸せになるのに、これ以上の相手はいない」
「それが私の幸せにどう繋がるというのですか!私には、心に決めた人がいます!」
「フン。そんなもの先立つものがあってこそだろう」
明らかな価値観の違いに、父が本気で言っている事を感じて、私は言葉に詰まる。
「お母様のあの様子を見て、本気で言っているんですか……?」
母は何か高価なものを強請ったことはない。
私が知らないだけかもしれないけど、そういった類の装飾品だって何一つ持っていなかった。
母は贅沢をしない人で、必要以上に欲しがらなかった。
メイドとしての給金だって、私に何か買い与えようとしていたくらいでほとんど使っていない。
「家庭を顧みず、仕事に明け暮れて、そんな相手と結婚生活を送ることの何処が幸せだと……!」
「誰のおかげで生活できていると思っているんだ!」
–––お母様のおかげです。と、言うとプライドの高い父のことだから面倒なことになると思って言えなかった。むしろ呆れてしまった。
「なんだその目は!?」
「……別になんでもありません」
瞑目して、数秒心を落ち着けて目蓋を開く。
「……とにかく、私はあの人と別れるつもりはありませんから」
「フン。それならこちらも考えがある。もしおまえが見合いの日までにその男と別れなければ、その男が財閥関連の企業に就職できないよう働きかけることもできるんだぞ」
「!?–––そんな、それは職権濫用ではないですか!」
「私にはそれだけの力があるということだ。話は以上、これ以上おまえと話すことはない」
それだけ言い残して、父はリビングから出て行った。
残された私は、ただ呆然とするしかなかった。
このルートで出す予定はなかったんだけど、雪菜の母親出したいけど、脳内で作った設定が2パターンあって、どう書いたか脳内の設定だったか覚えてないから、生きてるのか死んでるのかわからないという事件が発生している