七月下旬。金曜日の夜。
夏も暑くなり始め、梅雨も明けた週末。
夜も鬱陶しく鳴き続ける蟲の声に耳を傾けながら、夕食を食べている時だった。
今日の献立、豚しゃぶのサラダうどんを口一杯に詰め込み、その美味しさに舌鼓を打っていると愛理のスマホが震えた。食事の途中ではあるが、差出人だけでも確認しようと視線を動かして、驚いたように目を見開いた。
「あ、お母さんからだ」
「ふーん。なんて?」
「明日、また来れないかって」
初めての昼食会から一ヶ月ほど。たまに連絡は取っているようで、「次はいつ連れて来るの?」と母親に言われているらしく、そんな相談事を受けたのもついこの間のことだ。
改まって愛理が相談してくるのも珍しく、口一杯に頬張ったうどんを咀嚼して飲み込んでから聞き返す。
「そりゃまた急だな。なんで?」
「相談があるんだって。それとまた昼食を一緒に食べないかって」
「ふーん。それはまぁ……楽しみだな」
「あら、随分と乗り気じゃない。まさかお母さんに会いたいからとか言うんじゃないでしょうね?」
「違うっての。志穂さんの料理美味いからまた食いたいと思ってな」
既に胃袋を愛理に掴まれた身だが、その母親の料理もまた甲乙つけ難いくらい美味かった。また食べたいと思うくらいには、志穂さんの手料理に惚れ込んでしまったのである。
愛理は自分の母親に下心があるのでは?と疑っているが、さすがに本気でそうは思っていないだろう。
「私の料理じゃ満足できないってわけ?」
「いや、おまえの料理はいつも美味いよ。毎日食いたいくらいに。でも、それとこれとは別というか。たまに食べるあの味もいいなって思ってるだけで」
「そ、そう。……わかってるならいいのよ」
頰を僅かに赤らめて、愛理がそっぽを向く。嬉しいのか、恥ずかしいのか、満更でもない様子だ。
「明日行くってことでいいのよね。返事しておくわよ」
「おう」
まだ食べ終わっていないのにも関わらず、明日の昼食が楽しみになってしまう。そんな俺を愛理が呆れたような顔で見て言う。
「まるで遠足前の子供ね」
「子供じゃないってところ見せてやろうか?」
何をされると思ったのか、愛理の顔は耳まで真っ赤に染まった。
◇
「お兄さんいらっしゃい」
翌日。前回と同じく昼前に鹿島家に到着した。
玄関先で出迎えてくれた都は、ちらちらとその視線を俺の手元に寄せる。前回と同じ手土産の中身が気になるらしく、そわそわとしているのが見ていてわかった。
「これは最近人気の洋菓子店のシュークリームだ」
「私が食べたかったやつ!」
中身を教えてやると、都は露骨に機嫌良く笑顔を見せた。
渡してやるともっと笑顔になる。
そのまま案内もそこそこにお礼を言って先にキッチンへと向かってしまい、その様子を眺めていた愛理が呆れていた。
「ごめんなさい。いつもはあんな子じゃないんだけど」
「まぁ、子供はあれくらい素直な方がいいんじゃないか」
そのまま二人でリビングに向かう。
キッチンから漂う匂いにつられるように視線を向けると、そこには冷蔵庫にシュークリームをしまっている都と料理中の志穂さんの姿が。リビングの方には珍しく?弟君の姿もあり、スマホでぽちぽちとソシャゲに没頭しているようであった。
「あら、いらっしゃい」
「どうも。おじゃましてます」
「いいのよ硬くならなくて。自分の家だと思ってくつろいでくれて」
料理をしながら挨拶してくれた志穂さんに、俺はどう対応していいかわからず会釈するとそんな言葉を返されてしまう。居た堪れなくなって視線を逸らすと、弟君と目が合った。「また来たのかよ」という顔だ。
「もうすぐできるからその辺座っててね」
弟君にはどうやら歓迎されていないっぽいので、弟君とは離れた位置に座って待つ。
それからダイニングテーブルに呼ばれたのは、十数分後のことだった。
「直人君はそっち座って。愛理も。京介、ゲームやめなさい」
今日も美味しそうな料理が並ぶ。
アヒージョ、トマトクリームの冷製パスタ、エビとタコとブロッコリーのバジルソース和え。他にも名前も知らないような料理の数々がテーブルを埋め尽くして、少しだけ……いやかなり作りすぎなようにも思う。五人で食べるにしても、その量は過剰だった。
しかし、その程度の量ならば俺なら一人でも食えるので食料を無駄にするということはないだろう。変なものでない限りは完食する自信があった。
「それじゃあ、いただきます」
合掌して改めて思う。俺なんでこんなところにいるんだろう……。
冷静になればなるほど不安が募るので考えないようにしていたが、そんな考えもまぁこんな美味い飯が食えるならいいかと半ば無理矢理に自分を納得させつつ、箸を手に取る。
何故か俺の皿だけ大盛りであったのは、既に鹿島家では俺が大喰らいなのが暗黙の了解となっているのだろう。最初から盛り付けられている料理以外は愛理が盛り付けてくれたが、それも大盛りだった。
「ふふっ、やっぱりいっぱい食べてくれる男の子がいると作り甲斐があるわね」
「それにしたってお母さん、作りすぎだから」
「だって、普段みんな全然食べてくれないんだもん」
鹿島家は少食な人間が多いようで、志穂さんはそれが不満らしく拗ねたように唇を尖らせる。相変わらず可愛いお母さんだ。
昼食が終わると京介は部屋に戻っていく。四人になったリビングで、食後の紅茶を飲みながら志穂さんが二つのファイルを取り出した。
「それで相談のことなんだけど……」
ファイルには“成績表”と書かれており、二人分の名前の記載がある。一つは都のもので、もう一つは京介のものだ。これだけでなんとなく相談の内容を察した俺は、まずは都の成績表を取った。
「へぇ〜、ちゃんと勉強してるんだな」
「私学校では優等生で通ってますので」
わざとらしく胸を張って都が主張する。彼女の成績表はテスト結果が平均九十点台で学力については申し分なく、一学期の成績もオール5で文句のつけようがなかった。
中学時代一度も成績を落としたところを見ないのも、都が並々ならぬ努力を怠っていないからであろう。あれだけ自信満々に主張するのも納得できた。
「ほー、すごいすごい」
「お褒めの言葉は要らないのでご褒美ください」
「はいはい、今度な」
優等生も家の外だけでなのか、俺には取り繕った様子もなく直球的におねだりしてくる。適当にあしらったが、今度改めて要求を聞いてやろうと心の隅に書き留めておく。
「それでこっちは、と」
次に双子の弟、京介の成績表を開く。
簡潔に言えば、“月とすっぽん”。
成績表には1と2と3が並び、テストは平均三十点台。
赤点ギリギリ、成績は1と2が多めだ。
「……なんとも言えない成績だな」
俺も中学時代はこんな成績ばかりだったので、何も言えない。
「その……直人君って、中学時代はこんな成績だったのよね?」
「……そうっすね」
声を大にして言いたくはないが、既に愛理から全て伝わっているのだろう。否定しても無意味だと悟って肯定する。すると志穂さんは真面目な顔で本題を切り出した。
「実はね、都も京介も二人と同じ高校を受験するつもりなの」
「そうなんですね」
「都は問題ないのよ。でも、京介の成績じゃ少し不安というか、ね」
言い淀む志穂さんだが、はっきりとわかっているのだろう。今のままでは無理だと。
俺と愛理の母校を合格するには、最低でもオール3くらいの成績が欲しい。テストも平均八十点前後あればといったところだろうか。
「だから、前例である直人君に助言でも貰えないかと思って」
「えぇ……」
期待の籠った眼差しが俺を射抜く。否とは言えないが、応じるのも難しい。
「そう言えばお兄さんって、どうしてお姉ちゃんと同じ高校を受けようと思ったんですか?」
そんなことを考えていれば、横から都に突っ込まれる。
「……行きたい高校とかなくて、近場ならどこでもよかったんだよ。それで後期に適当に受けようかなって思ってたら、前期で受験に受かった愛理に煽られて『あんたにはここは無理でしょうね』って言われたから?腹が立って、受けた」
「そんな喧嘩売られたから、買ったみたいに……」
あまりの理由に呆れる母娘。そこでふと、都が何かに気づいた。
「……もしかして、お姉ちゃんわざと煽った?」
「……ソンナコトハナイワヨ」
そっぽを向いて、誤魔化す愛理に俺は確信した。最後の三年は、愛理が仕組んだことだったのだ。
「ってか、それなら愛理が勉強教えればいいんじゃないか?」
「そんな時間ないわよ。それにやる気さえ出せば、あの子だって一応できる子なのよ」
「やる気さえあれば、か……」
「お願い直人君。男の子同士の方が何かとわかることもあるし、勉強見てあげてくれないかしら?」
……俺としては、美人な姉か可愛い双子の姉に教わりたいところだ。