パタン。ガチャ。カチャカチャ。
帰宅直後。施錠した音が響いたかと思うと、靴を脱ぐ間もなく背中に柔らかな感触が押しつけられた。
前に回された腕が胴回りを拘束して身動きもままならず、俺はそっと手を重ねながら一言だけ文句を言った。
「……動けないんだが」
帰宅して二人きり。施錠したことで気が緩んだのか甘えてくる愛理は、そのまま顔を肩甲骨の辺りに擦り付けてくる。
猫が匂いをつけるかのように行われたそれは、背中にくっつくたわわに実った二つの果実まで擦れて、妙な気分を引き起こしてしまう。
あまりの可愛さに抱きしめ返したいところだが、幸いにも一方的に抱きしめられている形なので思考は冷静に働いていた。
「だって、寂しかったんだもん」
「はぁ?寂しかったって一緒にいたろ。それより靴脱げ。話はソファーで聞くから」
無理やり解くように手を払い退けると、力なく愛理が拘束を解除した。
その間に靴を脱ぎ、リビングに行こうとすると今度は腕を掴まれる。
「……脱がして」
「えぇ……」
なんか面倒臭いな今日。とは思ったものの素直に脱がせる。
色気もへったくれもないお願いだったが、むしろ生足を間近に見るいい機会だと割り切って片足ずつミュールを脱がせた。
夏特有の露出した素足に僅かな興奮を覚えつつ、そっと脱がせば愛理は身を預けるように抱きついてきた。
「抱っこして」
「はいはい」
このまま幼子を抱きかかえるように尻を持ち上げやってもいいのだが、要望通りにお姫様抱っこでリビングに連れて行ってやる。ソファーにそのまま腰を下ろすと、愛理は存分に甘えようと首に腕を回したまま強く抱きついてきた。
「で、寂しかったってなに?」
「そうよ。それよ。私寂しかったんだからね」
存分に体温を楽しみながら、文句を言うように睨み上げる。
「だって実家じゃ双子とばかり遊んでるし、私には全然構ってくれないから」
「おまえ実家じゃ全然絡んでこないだろ」
「それでも構って欲しい時が女の子にはあるのよ」
「なるほど。わからん」
実家では、品行方正な優等生のように振る舞うのであまり構ってほしくないのではないのかと思ったが、どうやらそうではないようでお叱りを受けてしまった。理不尽だ。
「だから今からたっぷり構ってもらうからね」
「もう嫌だって思うくらい構い倒してやるよ」
「ふふ、私を満足させることができるかし……ら?」
構ってくれなかった分、甘えてやると言わんばかりに愛理が肩に顔を埋めた。
そんな彼女が何かに気づいたように咄嗟に顔を上げ、怪しく目を光らせる。
「…………ねぇ、他の女の匂いがするんだけど」
「都じゃないか。一緒に遊んでいたわけだし」
「そうね。都の匂いだわ。……でも、なんでこんなに強い匂いがするのかしら?まるで抱きしめていたみたいに」
底冷えする視線が俺を射抜く。
何も悪いことをした覚えがないのに、背筋が凍りそうな寒気が背筋を伝った。
「い、いや。抱きしめてはないぞ。座ってただけで」
「……座ってた?」
愛理の目が据わる。首に回された腕が捕まえた獲物を逃さないように絡みつき、爪先が鎖骨を刺すように喰い込む。
「ふ〜ん。私とお母さんが夕食の準備をしている間に、そんなことしてたんだ。勉強の話はどうなったのよ?まさか都に保健体育の授業をしてたとか変なこと言うつもりじゃないでしょうね?」
あんまりなこじつけに俺は彼女の太股に手を伸ばす。
宥めるように撫でても嫌がらないことから、そんなに怒ってはいない様子だ。
取り敢えず、話は聞いてもらえそうである。
「勉強の件なら、本人次第だろ」
「そんなことどうでもいいわよ。私は膝の上に妹を乗っけていたことについて聞きたいんだけど?」
そんなこと。弟君の進路をそんなこと扱い。
「不可抗力だ」
「……その割には、長い間くっついていたみたいだけど」
匂いだけで何故そこまでわかるのか。
「……まぁ、いいけど。上書きするから」
言葉の意味を理解する前に、唇が塞がれる。
舌を捻じ込み絡めてくる。いつになく積極的な彼女は、夢中でキスを繰り返してきた。
幾度となく離れては繋がって、繰り返す度に身体が熱くなっていく。
あまりの激しさに呼吸すら難しくなり、終わった頃には二人とも大きく呼吸をしていた。
「……先にお風呂入りましょう」
彼女の妖艶な雰囲気にあてられて、理性を保てたのはお風呂までだった。
◇
–––ピンポーン。
朝もまだ早い時間に来客を報せる音が鳴る。
普段、妙な宗教勧誘や詐欺紛いの訪問販売以外に来客などあるはずもないのだが、唯一の例外が身内だ。
昼間であればいいのだが、朝はまずい。具体的には見られてはいけない状況なのである。
二度目のインターホンで微妙に目が冴えて、ぼそりとこぼす。
「……誰だよ。こんな朝早くに」
「ん……うぅ……なに……?」
「誰か来たみたいだ」
「……そう……」
愛理はまだ眠いみたいで夢見心地に返事をする。
俺だけベッドからのそりと起き上がり、適当な衣服を身につけて来客に対応するべく玄関へ向かう。
そして、まずドアスコープから誰が来たのかを確認した。
「……都?」
今、玄関のドア前に鹿島都。愛理の妹がいる。
状況を理解した瞬間には、何故という疑問より先に焦燥が浮かんだ。
「いるのはわかってるんですよー。いちゃいちゃしてないで早く開けてくださーい」
三度目のインターホンが鳴り、まるで俺がドア前にいるのをわかっているかのように声を掛けられる。思わず返事してドアを開けようとしなかった自分を褒めたいところだ。
俺は反射的に寝室へと戻り、そっと愛理を揺り起こす。
「おい、愛理。起きろ。おまえの妹が来てるぞ」
「んー……朝から激しい……」
「何もしてねぇよ。寝ぼけてないで起きろ」
お望み通り激しく揺すってやり、強制的に起こす。
すると愛理は少しだけ不機嫌そうに眉根を寄せて、寝ぼけ眼で抱きついてきた。
あまりに自然な動作だったため、受け止めて抱きしめ返してしまったがそうではない。
「都が来た」
「……みやこ?」
「そう。おまえの妹」
「……っ!?」
俺に抱きついていた愛理が、抱きつくのをやめてまじまじと顔を見つめ返してくる。丸見えのおっぱいが柔らかそうに揺れるところなど見ている場合ではなかった。
「なんでこんな朝早くに!?」
「知らないって。ほら、早く服着ろ。今の状況を見られる……もとい悟られるのはまずいだろ。色々と」
「そ、そうね。でもその前にお風呂入ってくる。都には昨日の件で注意もしておきたいし、相手をお願いね」
「え、あ、おい」
それだけ言うと愛理は適当な衣服を箪笥から引き出し、シャワーを浴びに寝室を出て行った。
「はぁ。取り敢えず、出迎えるか」
最悪の事態は回避した。
俺は一人、玄関へと戻り鍵を開ける。
「あ、やっと開いた。もう、遅いですよ〜。何分待ったと思ってるんですか」
「おまえは何時だと思ってるんだよ」
「八時過ぎです」
夜更かししていた身としては早い時間である。
学生ならば、部活なり勉学なり励んで欲しいところだ。
受験生ならば、もう部活は引退した頃だろうか。
なればこそ、勉学を頑張れと言いたいところだが都は問題ないくらい優秀な生徒だ。態々口にする必要もないだろう。
「入ってもいいですか?」
「まぁ、追い返すのもな。何の目的で来たか知らないが上がってけよ」
「いいんですか?いいんですね?朝から生々しい光景とか見せないでくださいよ。デッサンしちゃいますからね」
「その心配はない」
都を招き入れてリビングへと戻る。
眠気覚ましに珈琲でも淹れようかとお湯を沸かし、ついでにとばかりにリクエストを聞けば冷たい飲み物がいいということで冷蔵庫から買い置きの紅茶をコップに注いで出してやる。まだ朝も早い時間なためお茶請けは出さなかったが、概ねそれで正解だったようで奪うようにしてコップを引っ掴んだ都は一気に半分飲み干した。
「はぁ〜。それにしても暑いですね〜」
ぱたぱたと襟元を仰いで、都は愚痴をこぼす。その度に危ういところが見えるという状況に頑張って目を逸らしつつ、火を止めて沸騰寸前のお湯をマグカップに用意したインスタント珈琲に注ぐ。芳しい匂いに嗅覚を刺激されつつ、それを持ってリビングのソファーに座った。
「そうだな。学生はもう夏休みだったか」
「ふふ〜、いいでしょ〜。羨ましいですか?」
「あぁ、羨ましい。……だから早くおまえもこっち来いよ」
「え〜、嫌ですよ〜。私も大学は行くつもりなんですから」
学生の夏休みを羨む気持ちはあれど、自分も通った道だと思えばその羨ましさも多少はマシになる。むしろこれから大人になっていく未成年を思い憐れむ余裕すらあった。
煽るような都の自慢も、軽く受け流して熱々の珈琲を啜る。
まだ眠いと訴える脳を叩き起こして、世間話もそこそこに本題に入ることにした。
「で、こんな朝早くからどうしたんだ?」
「理由がなきゃ来ちゃいけないんですか?」
「そうは言ってない。だけど、ほら。成人男性の家に外部からすれば見知らぬ女子中学生が訪ねてくるってのは外聞が悪いだろう」
「見知らぬわけではありませんよ。一応、妹と義兄ですから。それともお兄さんは私に何かするつもりなんですか?」
ニヤニヤと揶揄ってくる都に何か言い返そうと思ったが、気力すら削がれる質問に返す言葉がなくなる。
何かよからぬ指摘をされたような気がしたが、睡眠時間の到底足りていない頭では何が違和感だったのかすらわからなかった。
「まぁ、私はそれでもいいですけど」
「大人を揶揄うな」
揶揄ってくる都を窘めて、珈琲に舌鼓を打つ。
苦味がちょっとした期待を洗い流し、ほっと一息。
「さて、冗談はこのくらいにして」
閑話休題。本題に入る。
「お兄さん、京介に何を言ったんですか?」
「ん?」
「暇だからちょっかいかけに行こうと思ったら、朝から勉強してたんですよ」
「そうか」
「おかげで邪魔することもできずここに遊びに来たんですが」
晴天の霹靂と言わんばかりの都。そんな理由で叩き起こされた身としては文句の一つでも言いたくなるが、あまりにくだらない理由で俺は呆れて力が抜けてしまう。
「本当になんでここに来た……」
「友達も受験勉強で忙しいので」
「そりゃそうだ……」
だからと言って勉強する気はないのか、あっけらかんと都は言う。本当に何故叩き起こされたのか。
「それでどんな魔法の言葉を使ったんですか?京介に勉強させるなんて、よっぽど効果的な飴でも用意しなければ無理でしょうに」
「あいつが俺の言ったことを素直に言うこと聞くと思うか?」
「思いませんね。だから、いったいどんな言葉を使って懐柔したのか興味があるんですよ」
その一点が気になったらしく、朝から都は訪ねてきたらしい。
少しだけ温くなったカップを両手で包み、最後の一滴まで飲み干した彼女は催促するように僅かに首を傾げる。
「飴ってもうほぼ答えわかってるだろ」
「そうですね。京介は単純なので物で釣るのが一番いいですよ。ただその物とやらが、気になってですね」
「……ゲーム」
「ソフト幾つで釣ったんですか?」
どうやら弟君はソフト数本で釣れるくらい安いらしい。が、最大の成果を得るにはもう一歩足りない。
「ゲーム機本体とソフト一本」
「おや、随分と値が張った買い物ですね」
「当然最初から難易度は高く見積もってるけどな。五教科平均八十点以上。赤点ギリギリからしたら難易度は高いけど、弟君の頭ならできないことはないだろ」
あくまでやる気をなくさない難易度を見積もるのが最低条件だ。途中で投げ出されては、その努力も水の泡となりかねない。
「ちなみに平均五十以上なら持っているハードのソフト一本だ。あれくらいのやつなら安いから懐も痛まないし、モチベーションの維持にも繋がる」
「抜かりないのが地味に怖いですね」
隙のない餌の吊るし方に呆れた様子の都は、立ち上がると態々隣に座ってきた。
「いいなぁ〜。弟とそんな約束してたんですね」
「おまえにはご褒美やるって話しただろ」
「え、あれ本気だったんですか?適当に流したわけじゃなく?」
「いらないのか?」
「欲しいですけど。……ふふ〜ん、そうですか」
「……なんでくっついてくる?」
「サービスです♪」
あからさまに機嫌良くなる都。
そんな現金な妹の背後に、迫る影。
「な〜にが、サービスなのかしら」
「あ、お姉ちゃん」
能面のような顔をする姉を物ともせず、都は機嫌良さそうに抱きついてくる。少女の体温に温かくなる腕だが、その反面室温は下がった気がする。
「ねぇ、なにしてるの?」
「そんな怖い顔してるとお兄さんに嫌われるよ」
「してないわよ」
「そう言って、お兄さんに近寄ろうとする女子生徒に怖い顔して牽制しまくってたんでしょ」
「……し、してないし」
「絶対嘘だ」
追い詰めたはずが、微妙に視線を逸らして愛理は防御に回る。素早い立場の逆転に舌戦では都の方に分があるようだった。
「自分のこと振った相手のプレゼント棄てないし、擦り切れても使い続けるなんてはっきり言って重いし気持ち悪いよ。そんなお姉ちゃんが牽制してないわけないじゃん」
その一言がトドメとなって、愛理はソファーの上で膝を抱え込んだ。
妹ちゃんの毒舌が一番強かったりする。