長期休暇前の一週間はよく仕事が忙しくなる。休暇前に片付けておきたい仕事や、案件が山のように舞い込んでくるからだ。
一つ仕事を処理すれば、二つ目の問題がやってくる。無限に湧いてくるように思える仕事を取捨選択しつつ、優先順位を決めて効率的に処理するのはもはや必須技能。
たまに上司から無茶振りされるのは日常茶飯事、残業してでも休日確保は急務だ。
繁忙期ほどではない忙しさに身を浸しつつ、長期休暇前日に仕事がぶん投げられないのを祈りながら、時計を見る。
–––刻限は迫っていた。……3、2、1。
「はーい、お疲れ。じゃあまた休暇明けに!」
定時になった瞬間、急ぎ足で女上司その一がオフィスを出ていく。確か家族と食事に行くとか、里帰りするとかで三日連続で残業して仕事を処理していた記憶がある。
それに続いて、合コンがあるとか、彼氏とデートだとかで業務を終え退社する先輩方が出て行った。急な電話など取りたくないと言わんばかりだ。
「さて、俺も帰るか」
急ぎの仕事は片付けてある。あとはスマホの電源をオフにしておけば完璧だ。真面目に実行しようか悩みながら立ち上がったところで、誰かに腕をがっしりと掴まれた。
「……俺急いでるから。じゃあな」
「待って。藤宮君!せめて話だけでも聞いてって!」
隣のデスクを見下ろせば、何やら書類の山に囲まれている片桐の姿が。
俺はまだ何も聞いてないし、これはきっと急ぎの仕事ではない。そう断じて、俺は見て見ぬ振りを続けた。
「……うぅ、酷いよ。私なにも悪いことしてないのに。このままじゃ日付変わっちゃうよ」
片桐はさめざめと泣いたふりをした。
「もう諦めて持ち帰るか、休日出勤しろよ」
「嫌だよ。私は家庭に仕事は持ち込まない主義なの」
「家庭って、おまえ一人暮らしだろ」
「どうせ私は独り身ですよーだ」
意地でも休みを返上したくないらしく、机に齧り付いて仕事を続ける片桐。
俺はそっと椅子に座り直して、スマホを開いた。
「……手伝ってくれるの?」
「ちょっと待ってろ」
残業して遅くなる以上、愛理には連絡を入れておかなければならない。そう思って『残業』と一言入れれば、すぐに既読がついた。あとは返信が返ってくるはずなのだが随分と遅い。いつもなら一分と待たずに返信してくれるのだが、二分ほど待って返信が一つ。
『……そう。できるだけ早く帰ってきてね』
顔見えないのにやり取り一つで俺は察した。あ、これしょんぼりしてるやつだなと。
「あとどれくらい残ってるんだ?」
「早急に片付けておきたい仕事が三つ」
「……どうして他の人に言わなかったんだよ」
「言えないよ。合コンで彼氏ゲットするとか、一家団欒するって人に残業手伝ってくださいだなんて、言えるわけないじゃん!」
……その仕事というのも、片桐が無理に請け負った結果なのだが。それで貧乏くじを引くあたり、彼女の人の良さと不憫さが表れるようで何も言い返せなくなる。
「俺はいいのかよ」
「藤宮君はなんていうか別枠?迷惑を掛けても罪悪感わかないし」
「せめて申し訳なさそうにしろ」
「それに藤宮君、付き合ってるわけではないんでしょ」
「……」
彼女がいるなら遠慮すると言わんばかりだ。そこで言質取ろうとするあたり、本当に抜け目ないというかなんというか。
「……で、俺は何をすればいいんだ?」
「藤宮君はこれお願い」
でんと渡されたのは、三時間は掛かりそうな仕事の山。
それでも半分なので、日を跨ぐ覚悟をしなくていいのが不幸中の幸いと言ったところだろうか。
「そうだ。ジュース奢るよ。何飲む?」
「エナドリ」
「容赦なく高いの強請るね」
文句を言いつつも、片桐は自販機へと走って行った。
時刻は午後九時半。ようやく残業が終わった。
“予定通り”の延長線に凝った肩をほぐしつつ背伸びをする。そんな同僚の胸元に視線を寄せつつ、目の保養と言わんばかりにパソコンと睨めっこしていた眉間をほぐした。
「……藤宮君のえっち」
当然視線はバレバレである。普段は極力見ないようにしているが、こればっかりは彼女も悪いところがある。暑いとばかりにボタンをひとつ外したせいで隙間から柔肌が見えているのだ。健全な男なら、誰しもが目を奪われたであろう。生物的本能は、相手を選ばないのだ。
「会社出る前にボタン閉めろよ」
「見ておきながらその程度の反応って酷くない」
「いや、おまえより凄いの見慣れてるし」
「これが胸囲の格差社会……!」
仕事から解放されて、思考まで解放的になったのか片桐はそんなことを言って拳を握る。今にも俺に向かって振りかぶらんばかりだ。
「えー、じゃあ聞かせてよー。彼女さん何カップくらい?」
「知らん。おまえと比べるまでもないってのはわかるが」
突然のセンシティブな会話に毒が混ざる。半分セクハラっぽかったかなと反省はするが、元よりこの話題を振ってきたのは片桐の方だ。責められる謂れはない。
「あ、酷い。こう見えて私もそれなりに大きいんだけどなぁ。形だって自信あるよ。触ってみる?」
「……え?」
あまりに自然な流れで勧められるものだから、一瞬だけ反応が遅れてしまった。そんな俺の様子が面白いのか、片桐はにこにこと楽しそうに笑っているだけだ。
真意は窺えず、思わず顔と胸を二度見してしまう。
「……なんて、冗談だよ。でも、まぁ、藤宮君が触りたいって言うなら触らせてあげないこともないよ。普段からお世話になってるし。今日のお礼も兼ねて」
冗談か本気なのかわからないが、一つだけわかることがある。手を出せば地獄が待っているということだ。彼女の誘いに乗っておっぱいを触れば、それは確実な弱みとなるだろう。女性ばかりの部署だ。変な噂が立てば、間違いなく俺は社会的な地位を失い、冷遇されることになるだろう。
今まで片桐が揶揄ってきても誘いに乗らなかったのは、その点で損得勘定ができていたからだ。
「遠慮しておくわ」
「藤宮君ならそう言うよね〜」
何度も繰り返された言葉の応酬。終着点も相変わらずで、俺もまた惜しみながら口にするのだ。
「まぁ、それはそれとしてさ」
ほんの冗談であったのだろう。切り替えも早い。
「ねぇ、藤宮君。たまには飲みに行こうよ。また前みたいに」
「そう言われてもなぁ。……あいつ帰り遅いと拗ねるし」
今も既に不満爆発状態だろう。そこまで言って、片桐が寂しそうな顔をしているのに気づいた。
愛理と再会する前は、月に二、三度は一緒に飲むくらいには仲が良かったのだ。それがめっきりなくなって寂しいと。
「ん〜。そうだな……今日は無理だけど、また今度なら」
「え、いいの?彼女さん怒らない?」
大丈夫。むしろ、それが目的だ。
◇
片桐を家に送り届けて家路を急いだ。
午後十時過ぎ。鍵を取り出しながらマンションの階段を駆け上がる。ついたと同時に鍵を差し込み、開錠してポケットに鍵を突っ込みながら玄関のドアを開けた。ひとりでに閉まるドアに鍵を掛けて、靴を脱いだその時だった。
「おかえりなさい」
リビングから赤茶髪の女性が小走りに駆けてくる。
勢い余って止まれなかった愛理は、そのまま俺に体当たりで停止した。
痛みはない。彼女の巨乳がクッションの役目を果たしたのだ。
たった一瞬触れただけなのに、男である俺の仕事による疲れは一瞬で吹き飛ぶ。我が身体ながら現金なものだ。
「ただいま」
その感触を逃さないように出迎えてくれた愛理を抱きしめ直す。腰に腕を回して抱擁することで、身体全体で彼女の柔らかな感触を楽しんでいた。
「あー、疲れた。……癒される」
「それならソファーに行きましょう。いくらでもぎゅってしてくれていいから」
甘えるように愛理が手を伸ばして、首に絡み付かせる。ひょいと彼女をお姫様抱っこして、リビングへと急いだ。
鞄を適当なところに放って、愛理を抱いたままソファーに座る。しかしこの体勢では堪能には程遠い。彼女を押し倒しておっぱいに顔を埋めて、深呼吸をするかのように大きく息を吸い込んだ。
「–––ッ!ちょっ、匂い嗅いでいいなんて言ってない!」
「……素材本来の匂いがする」
「お、お風呂入ってないから。汗臭いからダメ!」
頭を押し除けようとする愛理だが、その程度の力で俺を退けられるわけがない。
「猫吸いの意味がわかった気がする……!」
「私人間なんだけど!?」
しばらくの間抵抗を続ける愛理だったが、抵抗するだけ無駄だと悟ったのか抵抗する力が段々と弱まっていく。押し除けようとして頭に置いていた手が撫でるように動き出し、幼児をあやすような手つきに変わった。
「……こんなことならお風呂入っておけばよかった」
「入らなかったのかよ」
「だっていつ帰ってくるかわからないし。一緒にお風呂入りたかったんだもん」
拗ねたような口調であまりにも可愛らしいおねだりをされて、不覚にも頰が緩んでしまった。
「それに今日は都が来なかったから。二人でゆっくりできると思ってたのに」
「ん?今日は来なかったのか?」
「明日の仕込みをお母さんとするから行けないって連絡がきたわ」
「じゃあ、このビーフシチューの匂いは愛理が作ったのか」
「ねぇ、それ部屋の空気の話?それとも私に匂い染み付いてる?」
すんすんと袖の匂いを嗅いで、自らの匂いのチェックをする。毛繕いをする猫のような仕草にやっぱりこれ猫吸いだわと確信した。
「それで旦那様。私とご飯にする?私と一緒にお風呂入る?」
「腹減ったからご飯で」
残業して疲れているのだ。これから運動するにしたって栄養補給は必須であろう。別に食べなくても構わないが、せっかく愛理が作ってくれた料理を食べないのは損だ。
とりあえず一旦満足したのでホールドを解除して、ビーフシチューを温め直してもらう。
–––このあとのデザートも含めて、とても美味だったとだけ言っておく。
サブタイを猫吸いにしようか乳吸いにしようか迷った結果がこれ。