リビングのソファーの上で膝を抱えている男がいる。
姉が“帰ってから”この調子で、かれこれ一時間以上ずっと絶望した様子で膝に顔を埋めている。
私はそんな父の様子をスマホのカメラで撮影した。タイトルは『絶望する父』だ。忘れないように、長女に男ができてお持ち帰りされた日と補足説明をつけて保存しておいた。あとで現像して家族のアルバムに入れるつもりだ。
そんな打ち拉がれる父の隣で、気にした様子もなく母はスマホで何かを調べていた。今日の夕飯の献立でも、目新しいものはないか探っているのだろう。
「お母さん。お兄さんが持ってきた和菓子食べていい?」
「そうね。私も貰おうかしら」
和菓子とあれば、やはり飲み物はあれがいい。
そう思った私は、二人分のお湯を沸かす。沸騰するまでの間にお皿に和菓子を盛り付けようと箱を開ければ、私は驚愕に目を見開いた。最近テレビで見た今話題の若い女性に人気の和菓子が入っていたのだ。
複数入っていた中から選んだのは、葛餅入りのどら焼き。お皿に盛り付けると、ちょうどいいところでお湯が沸く。熱々の緑茶を淹れて和菓子セットが完成した。
二人分のセットをリビングのテーブルに置いて、母の対面に座ると聞こえてきたのは父のブツブツと何かを呟く声。私は素知らぬ顔でスルーして、お茶を冷ますように息を吹きかけた。
「愛理が…あんな男に…あんな男に…ッ」
「まだ言ってるよ。お父さん」
「放っておきなさい」
いつものことなので放置する母の方針に倣う。
私はどら焼きを手に一口齧り付き、優しく広がる甘さに頰を緩める。
「う〜ん。美味しい」
「そうね。とっても美味しいわ」
二人で舌鼓を打ちながら、冷たい餡の滑らかな感触と優しい甘さを緑茶の温かさと苦味でリセットしつつ、再度その美味しさを味わうためにどら焼きを口にする。
何度食べても一口目と同じ美味しさに止まることなく、あっという間に食べ終えてしまった。
少しだけ寂しさを覚えつつも余韻に浸りながら、温かいお茶で喉を潤す。もう一つ入っていた水羊羹も口にしたいところであったが、夕飯も三時間もしないうちにやってきてしまうため我慢する。あれは夜食だ。
「–––今回は思ったよりも重症だね」
さすがに何時間もあの調子だと鬱陶しく思い、そんなことを口にする。呆れて物を言えないとは言うが、ここまで鬱陶しいとこっちまで陰鬱な気分になってしまう。
思わず母にそう言えば、母も同感のようでため息を吐いた。
「それはそうよ。娘が盗られたんですもの。これを機に子離れしてくれるといいんだけど」
「そんなことお父さんにできると思う?」
「無理ね」
希望はあくまで希望と言わんばかりに、母は自ら口にした言葉を否定した。生理なのかお父さんのめそめそした雰囲気に、少しだけイライラしているようである。
「それより夕食どうしようかしら。久しぶりに夫が帰ってきたんだし、夫の希望でも聞こうかと思ってたんだけど」
この様子では……と、思っていた父が反応する。
「……愛理の手料理が食べたい」
それも最悪の形で、だ。母に作れるはずもないリクエストは、わがままなんかで済む話ではない。むしろ喧嘩売ってると言ってもいいんじゃないだろうか。
「そういうのは愛理がいる間に言ってください。今から呼び戻す気ですか?」
「–––そうか、その手があったか!」
それが嫌だからお母さんはお姉ちゃんに頼まないのに。とは、口に出すまでもない。それがわからないから、お父さんはお父さんなのだ。スマホで手慣れたように愛理を呼び出そうと電話を掛けてしまう。
「おぉ、愛理か」
『……なに?お父さん?』
明らかに不機嫌そうな声が通話口から漏れた。もう既に姉は父の用件を察しているらしい。そこは親子なのか、私もなんとなく結末を予想して若干顔が引き攣る。
「今どこにいる?」
『どこって、近くのスーパーだけど。夕食の材料買わないといけないから』
「そうか。ちょうどよかった。その、なんだ。おまえに頼みがあってな」
『……頼み?』
訝しむ声。警戒心マシマシなのが伝わってくる。
そんな姉に対して、少し咳払いをして父は改まったように声色を真剣なものへと変えて、私でも絶対に言わないだろうなーという言葉を口にしたのだ。
「うむ。実は、愛理の手料理が食べたいと思ってな……夕食を作りに戻ってきてくれると嬉しいんだが」
『……そう言って、私を説得して引き止めるつもりでしょう』
「うぐっ、何故それを!?」
『お父さんの考えることくらいわかるわよ。だから、答えは嫌よ。おとなしくお母さんの手料理でも食べればいいでしょ』
娘には全て父の企みはお見通しだったらしい。呆れたような声で、姉はそう言って通話を切った。
「愛理?待ってくれ!話はまだ–––」
もう通話は切れたというのに、届かない言葉を投げ掛けようとして父は切られた通話に静止する。娘に通話を切られたことを理解できないようで、スマホを片手に石像のように固まっていた。
「まぁ、面倒だよね。また戻ってくるの。お兄さんも気まずい状況で戻ってきたくないだろうし」
「迷惑なのがわからないのかしら。困った人ね」
私と母は父のことを好き勝手酷評する。その間に再起動を果たした父が、再度電話を掛けたが電話は繋がらなかった。どうやらスマホの電源を落としたらしいのだ。
「む、娘に、着信拒否されたぁぁ〜」
情けない父が泣きながら報告する。呆れてものも言えないとはこのことだ。
「あなたはもう少し愛理のことを考えてください」
「考えてるさ。愛理の幸せを一番に!」
–––だったらこうなってはいない。とは、口に出す気にもならなかった。
「だったらみっともない真似はやめてください」
代わりに母が言ったからだ。
「いや、志穂さん。どう考えたってあの男は愛理に相応しくないだろう。聞けば交際もしていないのに同棲しているというじゃないか。きっと愛理は騙されて–––」
–––ゴトンッ。
母が置いた湯呑みが、大きな音を立てた。
あー、怒らせちゃった。
私はテーブルにあった雑誌に目を逸らす。
「だから、あなた人を見る目がないのよ」
「しかし、不誠実ではないかい」
「不誠実が何よ。子供達のこと理解もしないで。愛理の様子を見れば、大切にされてることは一目瞭然じゃない」
思い当たる節はあったのか、正論を言っていたはずの父が押されている。確かにお兄さんは不誠実かもしれないが、不誠実な人間があんな他人に優しくできるはずがないのだ。
「愛理は成人した大人よ。もう子供じゃないの。あなたもいい加減、子離れしてください」
ぶった斬るような言葉の刃が父を斬り捨てた。文字通り言葉の刃は父に突き刺さり、再度心を鎮めるには十分な威力だったようだ。肩を下げて落ち込んでいる。
一応の決着をつけたリビングで、私は改めて雑誌に目を通す。『今年の水着特集』がやっていた。
「あ、この水着いいなぁ……可愛いし」
今年は受験勉強ばかりで、あまり遊んだ記憶がない。
水着だって、水泳の授業でスク水しか着てないし。
あの様子では、父は遊びに連れて行ってくれないだろう。いつもなら水着を買ってくれて、プールや海に連れて行ってくれるのに反応がない。
スポンサーは他に心当たりがあるからそっちを当たろう。
「そうと決まれば、明日は交渉かな」
今の父親の相手は面倒なので、私は明日の予定を決めると早々に部屋に戻ったのだ。