夕方六時を過ぎると帰宅準備を始める学生達や家族連れで更衣室がいっぱいになる。
それよりも早く切り上げた俺達は、我先にと更衣室に飛び込んでくる人達を避けて、帰路に向かう人達とは別の方向へと向かう。
エレベーターに乗り込み向かったのは、ホテルの最上階のレストランよりさらに上、普段は開放されていない屋上である。
目的の階層で静かに停止したエレベーター。開いた先には、数人の人影が並んでいた。
屋上では既に用意がされており、冬海さんを含めたメイド数人がBBQの用意をして、桜達の到着を待っていたのだ。揃って一礼する姿は一挙手一投足揃っており、一糸の乱れもない。まさに完璧である。
「お待ちしておりました。お嬢様」
代表して挨拶をする冬海さんの背後にいるメイドは、どこかで見たことがあると思えば妹の方についていたメイド達だ。では、翠の方はどこに行ったのかと思って視線を巡らせれば、屋上の一角で一番星が見えたと京介を捕まえたまま興奮して何やら語りかけていた。
「いい雰囲気みたいですね」
「どっちかというとげんなりしてるみたいだが?」
「普段からあんな感じなので」
「もうどこから突っ込めばいいかわからないんだが」
既に到着していた二人はさておき。視線を再び巡らせれば、かなり背の高い老人がゆっくりとこちらに歩いてきた。六十を超えているというのに筋骨隆々のたくましい肉体を持つ御人が。
「お祖父様!」
桜が呼んだとおり、彼女の祖父。つまりは米倉グループの現総帥である。
一流の会社員なら一度は御挨拶する機会が欲しい、お目通りしたいと願う老人だ。威厳もさることながら、威圧感に気圧されることも多いが、孫娘の前ではただの好々爺である。
「おお、来たか。待っておったぞ」
–––やっぱりいた。
孫娘である桜がいるのだ。当然、保護者枠としていないわけがない。そう予想はしていたが、俺は思わず苦笑いして孫娘と会話を楽しむ総帥の姿を眺めていた。
「……して、そちらが孫娘のいい人の家族とやらか」
桜と二言くらい会話を楽しんでいた総帥が、こちらに視線を向ける。
「孫娘が世話になっておる。その礼と言ってはなんだが、今日は最高級の食材と酒精を用意した。存分に楽しまれよ」
「ありがとうございます。こちらこそ、うちの娘達がお世話になっております」
迷いなく志穂さんを保護者と認めると、挨拶を交わす総帥。人は見かけで判断しないというが、そういう人生経験が如実に現れている総帥の観察眼に俺は素直に驚かされていた。
挨拶を済ませると総帥はゆっくりと戻っていく。何やら熱している岩盤の前に座ると、そのまま切り分けた最高級の肉を焼き始めてしまった。
「不思議なおじいさんね」
「ワイルドで面白いおじいさんです」
全く緊張感を持たない母娘に好印象を持ったのか、総帥の機嫌はいい。京介がどうなったのかは知らないが、あの態度を見るにそれほど悪い顔合わせではなかったのだろう。本人からしたら災難かもしれないが。
「もう雪菜さんが焼き始めていますし、行きましょう直人さん」
はしゃぐ桜に手を引かれて、BBQは始まった。
◇
メイド達が焼いた最高級の肉を求めて、我先にと子供達が殺到していく。食べたことのない肉の味に双子が騒ぐ傍で、大人達はお酒片手に美味しい肉を摘んでいる。
「あれ?藤宮君飲まないの?」
メイドの冬海さんが食材を焼いているBBQコンロ前に、酒と肉を大量に載せた皿を両手に持った片桐がやってきた。
「飲めないんだよ」
「あー、車で来たんだ。それなら彼女さんに頼めばいいのに」
「あいつ免許持ってないらしいから」
「じゃあ、お母様は?」
「もう既に飲んでる」
子供達と一緒になって、最高級の肉を食べ、ワインを飲んでいる志穂さんの姿を確認する。
あんな幸せそうな志穂さんをかつて見たことがあっただろうか。それを思うとそんなくだらないことを頼まなくて良かったと心の底から思う。
「ふーん」
これ見よがしに肉にかぶりつき、上等な酒を飲む。煽っているように見えるのは気のせいだろうか?
「どうせ似たような生活をこの休暇で毎日してるんだろ。太るぞ」
「ちゃんと運動してるからいいんだもん。そういう意地悪女の子に言うとモテないよ」
「モテなくて結構」
この機会にと最高級の肉を頬張る片桐は、脂を赤紫の液体で流し込んだ。こちらも高級品で一本十数万はする品だとメイドが言っていたが、片桐は遠慮なく飲んでいる。
「いくらするんだろうな……このBBQ」
「気にしてちゃ身がもたないよ?」
「おまえは変わったな。この数日間で」
「いいじゃん。帰ったら一人なんだから今くらい楽しんでも」
「余計虚しくね?」
そう言うと、片桐はぴたりと止まった。目の端に涙を溜めて一言叫ぶ。
「藤宮君の裏切り者ぉ!」
渾身の捨て台詞を吐いて、片桐は逃げるように去っていった。
残されたのはメイドと俺の二人のみ。
「女性の敵ですね」
黙々とBBQコンロで食材を焼いていた冬海さんがぼそっと呟いて、焼けた串を皿に載せて差し出してきた。
さすがメイドさん。気が利くなぁと受け取って串に刺してある食材を黙々と食べる。ニンジン、玉ねぎ、ピーマンと続いてナス。あとカボチャ。
「……あの、冬海さん?この串、肉が入ってないんだけど」
「藤宮様は栄養が偏っているようなので、肉よりも野菜を摂るべきだと愚考いたしました」
「俺から肉を取って何が残ると?」
「どうせ帰ったら別の肉をたらふく楽しむのでしょう。なら、今のうちに野菜を摂っておくべきかと」
思わぬ嫌がらせに「えー」と愚痴をこぼしながら、二本目の野菜串に齧りつく。塩加減といい、焼き加減といい、美味いのは事実だったのでそこには不満がなかった。
せめて串一つに肉一つあれば文句はなかったのだが、そんなに甘い性格をしているようなメイドではなかった。俺にだけ絶対零度なのだこのメイドは。
「おまえ本当に俺だけには冷たいよな」
「こういうメイドお好きでしょう?」
「いや、好きだけど限度があるっていうかなぁ」
本音を言えば、ツンデレも見てみたいわけで。
二本目を食べ終わり、三本目を手にしながら俺に優しい冬海さんを想像……。
「……まだ、一人目のことを気にしているのですか?」
そんな俺の思考を遮るように、冬海さんが問う。
黙々と四本目の串を手にして、愛理の方を見ればまた片桐に何かを吹き込まれているところだった。
「別に気にしてねぇよ」
「気にしていなければ、“恋人関係ではない”なんて結果にはならないと思いますが。少なくともあなたが付き合ったことのある二人の女性は、あなた自身好意を持って恋人関係になったわけではないでしょう」
「……」
言い返せなくて、俺は口を噤む。
「……原因は、二人目ですか?」
淡々と述べていた声が、僅かに揺れた。
真っ直ぐに見つめてくる彼女の瞳は、深い海のように暗い色をしている。
パチパチと火の弾ける音と、揺らめく炎。
その向こう側で、静かに佇む彼女の姿が鮮明に焼きつく。
「……それもあるんだろうな。でも、他にも理由はあるんだよ」
食べ終わった皿を置いて、星空を仰ぎ見る。
「高校の時にあいつに酷いことしてさ。酷い別れ方して。いまさら付き合ってくれなんて言えないだろ」
「でも婚前交渉はしたんでしょう?」
「……おまえ本当に痛いところ突くな。俺、一応おまえより歳上だぞ」
「知ってますよ」
新しく網の上に載せた食材がジュージューと焼ける音が響く。
「はい、焼けましたよ。ついでにこれも食べてください。他の方はあまり食べないので」
次にメイドがくれた皿には、肉が刺さった串があった。それと一緒におにぎりも渡される。
「黒毛和牛のハラミです」
「おにぎりの具は?」
「塩ですよ」
食べろ、と言わんばかりに見られたので先におにぎりを食べてみる。ほどよい塩加減で実にいい塩梅だ。
酒は飲めないが、肉と米があれば大抵幸せになれる。俺は肉に齧りついて、残り半分になったおにぎりをまとめて口に放り込んだ。
「うまっ」
「当然です。最高級品ですから」
「それもそうだけど、いい焼き具合だし、おにぎりもむちゃくちゃ美味い」
「褒めてもおかわりしか出ませんよ?」
次の串を焼いてくれる冬海が、先におにぎりを渡してくれる。それをもぐもぐ食べながら、次の串が焼けるのを待った。
「直人さん」
そこで妹のところに行っていた桜が戻って来た。
「おかえり」
「はい。直人さんは楽しんでますか?」
「おう。まあ、な」
「ふふ、よかった。あ、そのおにぎり。雪菜さんが直人さんのために作ったんですよ」
–––それは語弊があるのではなかろうか。
「車で来たというので、お酒を飲まないなら、ご飯を食べるだろうと思って仕方なくです」
冬海雪菜。それが米倉桜付きメイドのフルネームだ。
お嬢様からの思わぬ暴露により、ちょっとだけ頰が赤くなっている。
確かにあんな誤解を生むような発言は困る。
もし俺だったら、間違いなく慌てていただろう。
「飲めばいいのに。お部屋、ご用意しますよ?」
お嬢様の悪魔の囁きに心が傾きそうになる。しかし、ホテルではやることもやれないのでなんとか誘惑に抗った。