長期休暇明けの月曜日。
今日もまた、あの光景が繰り返されていた。
定時よりも遅い時間。残業開始から三時間ほどである。
一向に片付かない仕事に、片桐がついに音を上げてデスクに突っ伏した。
「うわーん、終わんないよぉぉぉぉ!」
泣き寝入りする片桐の前には、今日終えなければいけない仕事の山がある。これでも八割片付いたわけで、あともう少しなのだが彼女自身に限界がきたようである。
昨日までの天国のような休暇と比べて、落差のある仕事漬けに身体が耐えられなかったらしい。ぐすんと涙ぐみながら、残った仕事の山を必死に睨みつけている。
「元はといえば、できない仕事を軽く引き受けるおまえが悪いんだろ」
「そうだけど〜、だって頼まれたら断れないじゃん!」
「そうやって仕事を数人から引き受けるから、定時までに終わらないんだろうが」
片桐は頼まれたらNOと言えない人間である。それがわかっていて仕事を押し付ける上司も酷いが、片桐自身にも問題があるため俺はそう言って彼女を窘める。
「もうちょっと私に優しくしてくれてもいいじゃん。藤宮君のケチ」
「俺は帰ってもいいんだが?」
「すみません見捨てないでくださいお願いします」
俺が残業しているのも、「なんでもするから」と片桐に懇願されたからである。でなければ、早々に見捨てて帰っていたところだ。
「あと少しだろ。黙って手を動かせ」
「しくしく、藤宮君の鬼」
泣き言を言いながらも仕事を再開した片桐は、カタカタとパソコンを操作し始めた。
「頑張れば、今週末くらいに飲みぐらい付き合ってやるから」
「え、いいの?」
カタ……と、文字を打ち込む手が止まる。
「まぁ、たまにはな」
「彼女さん怒らない?私と二人っきりだよ?」
「さぁ、どうだろうな」
「……藤宮君、すっごい悪い顔してる」
俺の顔を見た片桐が微妙そうな顔をした。嫌な予感でもしたのか危機感でも感じたのか。
「ねぇ、一応聞くけど愛理ちゃんには許可取ってるの?」
「取ってないな」
「ダメじゃん。怒るよ彼女。私嫌だからね。痴情のもつれに巻き込まれて刺されて死ぬの!」
「ははは、流石にそこまでやらないだろ愛理も」
「常識的に考えればね。でも、激重恋愛感情を藤宮君に持ってるわけでしょ。そういう意味ではあの子ってほら、ちょっと重いから」
片桐から見た愛理は鬼か悪魔にでも見えているのか、すごい怯えようだ。
「ちゃんと許可取ってね」
「わかってるよ」
それでも飲みに行くのはやめられないのか、片桐は念を押すようにそう言った。
再びキーボードを叩く音だけが響き、今度は俺から口を開く。
「異性と飲みに行くのはできるだけやめた方がいいんだろうがな」
「それがわかってるなら、なんで誘うかなぁ」
呆れた様子で片桐は言ってくるが、一緒に飲みに行けるとわかって少しだけ嬉しそうだ。
「聞いてもらえなかった愚痴とかいっぱい溜まってるんだから、週末はたっぷり付き合ってもらうからね」
やる気を出した片桐は、残業開始時よりよい手際で仕事を片付けていく。やれるなら最初っからやれ。
◇
残業が終わったのは十時を過ぎた頃だった。
女性一人では夜道は危ないので片桐を家まで送り、家に帰り着いたのは十一時より少し前のこと。
リビングへ向かうと、美味しそうな匂いが漂ってきていた。
誘われるように向かうと、キッチンに夕食を温め直している愛理がいた。
「おかえりなさい」
すぐに盛り付けてダイニングテーブルに配置した愛理の手が空いた隙に、ただいまのハグをする。そのまま軽くキスをして、おっぱいに顔を埋めた。
「あ〜、疲れた。癒される」
「ちょっともう。せっかく温め直したんだから先にご飯食べちゃいなさいよ」
「……先に?」
「べ、別に深い意味はないわよ。ぎゅってして欲しいならって意味で……」
顔を赤くして慌てて言い繕う愛理は、逃げるように食卓についた。
テーブルの上に載っているのは、豚角煮丼と味噌汁。それからほうれん草の胡麻和え。
遅めの夕食を二人で食べるのは暗黙の了解である。どちらが遅くても、必ず二人で食べるのがルールになっていた。
「すっごい味が染みてて美味いな。作ったのは都か?」
時間的にこれほど味の染みてる角煮を作るのは愛理には無理だろう。であるならば、作ったのは都である。
都作の豚角煮丼に舌鼓を打ちつつ、料理の感想を述べると愛理は不貞腐れたように頰を膨らませた。頰に食べ物は入っていないはずなのに。
「私だって時間があれば、もっと美味しく作れるわよ……」
「それは休みの日に期待しておく」
対抗心剥き出しの愛理を宥めて、豚角煮丼を頬張る。
「あー、そうだ。金曜日は飯いらないって都に言っておかないと」
夏休みが続く限り、明日も明後日も来るだろう都は夕食を用意してくれるのだが。片桐と飲みに行くのであれば、夕食が不要だと連絡しておかなければならない。
口に出して、伝えるのは明日でもいいかと思う。意識は豚角煮丼に戻った。
「え、なんで?」
「会社の同僚と飲みに行くんだよ」
「ふーん。そういえばそういうのあまりないわよね」
半年の間、一度もそういう理由で夕食を一緒にしなかったことなどなく愛理が思い出すようにそう言う。
そこでふと何かに気づいたように、煮卵を摘んでいた箸が止まる。
「……まさか、女じゃないでしょうね?」
「片桐だよ。この前会っただろ」
「そう。片桐さ……って、女の人じゃない!」
納得しかけて、過剰に反応する。
「女って、別にそういう関係じゃないぞ。今までだって一緒に飲みに行くことだってあったし、週に一回くらいは飲んでたし。何もなかったし」
片桐に手を出して中途半端なことをすると会社で居場所がなくなるのが嫌で、ヘタレていたからこそ何もなかったとも言うが。俺自身あいつを美人で可愛い同僚と思うことはあれど、恋愛対象として見たことはない……はず?だ。
「そうかもしれないけど……あの人かぁ」
何やら納得しかねる様子。警戒するほど、あいつも俺のことをなんとも思っていないと思うのだが。
愛理と片桐の関係も良好で、割と楽しそうにお喋りしていた気がする。俺の小中学生の話とか、俺の高校時代の話とか、俺の大学時代の話とか、俺の会社での話とか。
「悪い人ではないのよね」
でも、納得しかねる様子で難しい顔をしている。
不安と嫉妬で綯交ぜになった顔だ。
「……ダメって言ったらどうするの?」
「それだったら家に呼ぶしかないなぁ」
あ、それなら安心かも。と愛理の表情が和らぐ。
「でも、久しぶりに居酒屋の焼き鳥食べたいんだよなぁ」
片桐とよく行っていた居酒屋の焼き鳥が恋しい。
酒の席で食べるあれが格別なのだ。
思い出したら、家で飲むという選択肢がなくなった。
その間にも愛理の表情がコロコロと変わる。悩んでいるようだ。送り出すべきか、阻止するべきか。
「むぅぅ……朝と夜にたっぷり搾り取れば、浮気の可能性はない、かな……?」
小声で恥ずかしいことを呟くが、ばっちり聞こえている。
「わかったわよ。行けばいいじゃない」
言葉の節々に棘を感じる。ともあれ、承諾は得た。
「なにニヤニヤしてるのよ?」
「いや、コロコロ表情が変わって面白いなぁと」
目が据わりかけた時はちょっと焦ったが、中々可愛い反応であったのも事実で、俺は誤魔化すように味噌汁を啜る。
俺に弄ばれていることを察したのか、頰を膨らませながら愛理が抗議してくる。
「じゃあ、私が職場の男の人と飲みに行くって言ったらどうするの?」
「……」
胸の中からドス黒い感情が浮かんだような気がする……。
形容できない、何か。言葉に表すのが難しい。
「……なに笑ってんだよ」
「大切にしてくれてるんだなーって、思って。絶対に行かないから大丈夫よ。断ってるし」
……今、聞き捨てならない言葉が聞こえたような気がする。
「……誘われてるのか?」
「気になる?」
「……いや、別に……」
反応したら負け。それはわかっているんだが、愛理はもう勝ちを確信したような笑みだ。
誤魔化すように残りの豚角煮丼を口に放り込み、味噌汁で流す。そのまま逃げるように浴室へ向かった。