一人暮らしをしているマンションはすぐ近くにあった。
近くにはコンビニやスーパー、駅から徒歩十五分の好立地、家賃もそこそこ、おまけに勤務先からは三十分も掛からないという贅沢過ぎる場所のマンションの一室を俺は借りている。
通勤にも、電車を使った遠出にも、買い物にも困らない良物件と言われるものだ。
大学を出てから、社会人になって一人暮らしを始めるにあたり、着目したのは会社のすぐそばにあるというところだ。正直、電車はそれほど使わないし、買い物も多少は遠くても車や自転車がある。通勤時間の短縮だけ考えれば、他には何も要らなかった。
当然、この部屋に女性を招いたことは一度もない。
社会人になってから、仕事と趣味の繰り返しで生きてきた俺にとっては初めての経験だ。
突然降って沸いた状況に俺は少し緊張しながら、同時に後悔もしていた。
別に愛理を部屋に招いたことを不満に思っているわけではなく、ただ単に女性を部屋に招くという行為自体が想定を上回り過ぎて、脳が対処しきれなくなっているのだ。
今更連れてきた後悔をしながら、ドアの鍵穴に鍵を挿して解錠する。そのまま玄関で靴を脱ぎ、途中で寄った店で買った袋を携えながら俺は愛理へと声を掛けた。
「まぁ、入れよ」
「お邪魔します」
丁寧に靴を揃えて家に上がった愛理は、鍵を閉めてそろそろとついてきた。
俺は買ってきた牛丼や酒をリビングのテーブルに広げながら、深く溜息を吐く。
それからスーツを脱いで、ハンガーに掛けるとラフな格好に着替えてからソファーに深く腰を落とした。その隣に愛理も人一人分の距離を空けて、そっと腰を下ろした。
夜風に当たってだいぶ落ち着いたらしく、素の表情の彼女は僅かに頰を染めてテーブルを見つめていた。
俺も冷静にならないようにと酔いを回していたのに、素面に戻って現状にドギマギする始末。早急にアルコールを摂取して、思考を脳の片隅に放棄したいところだが。
「い、意外に片付いてるのね」
「まぁな」
緊張した様子の愛理を見ていると、今暫くはこの状況を楽しんでいたいと思ってしまう。
キョロキョロと落ち着きなく辺りを見回して、頰を赤らめている姿はなんとなく可愛らしかったし、昔は知らなかった一面を知れているようで楽しいと思えた。
あまりがっつりと食べられなかったために、有名なチェーン店で買ってきた牛丼を二人分用意しつつ、事務的な会話をする。
「紅生姜いるか?」
「うん」
「七味は?」
「うん」
二人で帰路を歩いている時も、コンビニで買い物をしている時も、私的な会話は一度もなかった。あたり障りのない応答ばかりで未だにお互い何を話していいかわからなかった。
十二年間も一緒にいたはずなのに、今更ながらどんな話をすればいいのかもわからず、結局一緒にいるだけで気まずい沈黙が流れるばかり。
仲が良かったわけでもないし、最後だってバレンタインも卒業式もいい思い出とは言い難い。その部分だけを見れば、俺は相当酷い男だったように思う。
もし出会いが違えば、愛理の対応が違っていれば、別の未来があったかもなんて夢想は無意味だろう。
それで俺と愛理の十二年……いや、十八年が戻ってくるわけではないのだから。
「なんか小学校の給食以来じゃない?こうやって一緒にご飯食べるの」
「そうだな。班で席をくっつけて食べるっていう謎の決まりがあったからな」
思い出したように小学校の話をしながら、牛丼を食べる。
昔は食わず嫌いだった紅生姜も、今は牛丼の欠かせない付け合わせだ。
そう思えば、今の愛理は悪くない。むしろ、少し可愛いとさえ思えた。
「あー、美味しかった。こんなに美味しいと思ったの久しぶりかも」
食べ終えた容器を袋に詰め込みながら愛理は満足そうに言う。
「ただのチェーン店の牛丼に大袈裟だろ」
「……あんたと一緒だから、美味しかったのかも」
「あざとい」
俺の分まで容器をゴミ袋に詰め込んで片付けてくれる愛理に苦笑いで言葉を返しながら、買ってきた缶チューハイを開けた。そのまま一気に呷って半分ほど飲む。
愛理も自ら選んだ缶チューハイを開けて、ちびちびと飲み始めた。
「あざとくて悪い?」
「別に悪いとまでは言ってない」
「でも、あんた絶対あざといの好きでしょ」
「あほか。俺は清楚でお淑やかな女性が好きなんだよ」
「なんか童貞っぽい」
「煩え」
開き直ったように愛理は缶を傾けて、一気に中身を呷った。
居酒屋では見せなかった豪快な飲みっぷりに、俺は少し心配になってしまう。
居酒屋での様子を見るに、酒が強そうではないからだ。
帰る時には泥酔して帰れないとなれば、目も当てられなくなる。
「おい、そんなに飲んで大丈夫か?」
「平気よ。あんたが介抱してくれるでしょ?」
「清楚でお淑やかと泥酔して喋ることすらできなくなった女性は違うからな?」
泥酔して倒れられても困るため、冗談めかしてそんなことを言い合う。
なんだか懐かしいやり取りに、少しだけ胸が軽くなった。
「……なんだか懐かしいわね」
「そうだな」
会話が弾むと同時に、酒が進み比較的穏やかな時間を過ごしていった。
時刻は十一時。
長々と晩酌している間に、もうこんな時間だ。
酒を飲んで眠くなったのか、愛理はたまに無言になるとこっくりこっくり船を漕いでいた。
可哀想だが家に帰すため、肩を揺らして起こした。
「おい、起きろ。終電に間に合わなくなるぞ」
幸いにもこのマンションは駅から近いため、多少のことで乗り過ごす心配はないが時間も時間だ。
肩を揺らされて朧げな意識で俺を見上げると、愛理はとんでもないことを言い出す。
「……やだ、泊まる」
「はぁ?」
「こんな時間に夜道を歩かせるの?」
「おまえそんな柔じゃないだろ」
「かよわい女の子だもん。そういう風に扱いなさいよ」
「そのかよわい女の子が、男の家に泊まるとか何考えてんだ」
「いいじゃない減るもんでもないし」
「俺の精神が擦り減るんだよ」
ただでさえ一緒にいるだけで緊張しているというのに、一つ屋根の下で寝るとかどうなることやら。悶々として眠れなくなる。
幸いにも明日は休みだが、そんな不安要素を抱え込みたくはなかった。
「それにベッドも一つしかないし」
譲ってやってもいいが、特別扱いするのも癪だ。
眠れないことを考えれば夜通しゲームでもして時間を潰せばいいのだが、生憎とそういう気分でもない。
アルコール臭に交じって愛理から胸がざわつくような甘い匂いがして、軽いスキンシップとはいえ女性にくっつかれたら嫌でも意識する。
その気持ちを落ち着けるためにも帰って欲しかったのだが、愛理は強情に動こうとしない。
「わかった。じゃあ、タクシー呼んでやるから」
「お金ないし」
「払うから」
いや、なんで俺が払わなきゃいけないのか甚だ疑問だが、路頭に放り出すことに比べれば俺の良心が痛まなくていい。
抱き起こして強制的に玄関までお帰り願おうとした瞬間、不意に彼女の腕が伸びて後頭部を押されたかと思うと顔に柔らかな感触と、暗闇が視界を塞いだ。
「……私は、一緒のベッドでもいいけど」
愛理の心臓の音が聞こえる。ドクンッ、ドクンッ、と早鐘を打つ音が。
彼女も緊張しているようで、やや体温も高い。興奮のせいか、アルコールのせいか定かではないが、お互いに正常でないのは明らかだった。
「そんなこと言ってどうなるのかわかってるのか?」
「……覚悟なら、とっくに決めてきたわよ……」
彼女がどんな顔をしているのかわからない。
顔を上げようとすれば、より強く抱かれて確認することができなかった。
あまりにも甘美な状況に、脳が茹だるように熱くなる。
「あぁもうほら、わかったから離せ。ベッド貸してやるから」
このままだと理性の糸が切れてしまう。
彼女を押し倒して、余すところなく堪能したい欲望が沸々と沸いた。
多少強引にしても、抜け出さなければならない。
後頭部に回された腕を押し退けて見た彼女の顔は、羞恥に染まり色づいていた。耳まで赤くして蕩けた眼を向けてくる扇情的な姿に、俺の視線は釘付けになる。
「……ねぇ、私ってそんなに魅力ない?」
ぷつりと何か切れた音が頭の中で鳴った。
終電には帰すつもりだった。
何もしないつもりだったが、何かを期待しなかったわけじゃない。連れてきたのだって、下心があった。
俺は最後の理性を振り切って、愛理を横抱きに抱えると寝室まで連れて行き、ベッドの上に放り込む。そのまま覆い被さって、頰に触れながら見つめた。
「本当にいいんだな?」
こくりと小さく頷いた愛理の唇を塞いだ瞬間、俺の理性は完全に吹き飛んだ。