彼女と出会ったのは大学に進学してすぐのことだった。
春の桜が満開に咲き乱れる頃。一週間もすれば形成されるコミュニティのどこにも所属できず、一人寂しく購買で買ったパンを貪る日々を繰り返していたある日のことだ。
ついに俺もぼっちかと交友関係の形成を諦めた。そんな俺の心情を表すかのように、雨が降っていた日だ。
大学進学を機に一人暮らしを始め、家事をする億劫さに夕食を食べに近くの牛丼屋に雨宿りがてら駆け込んだ。
メガサイズの牛丼に温玉と紅生姜をトッピングして、さっさと完食する。
会計をしようと席を立った時に、レジの前で一人の女性が焦燥感に苛まれた顔で、必死に鞄を漁っていたのだ。
年齢もそう遠くないだろう、素朴で地味な女性だ。黒髪眼鏡でおとなしそうな雰囲気は本当に注意していなければ、特徴もなければ誰も記憶に留めないだろう。
–––だが、俺は知っていたのだ。彼女のことを。
確か同じ大学で何度か見かけたような気がするのだ。
何の講義だったかは記憶にないが、彼女の特徴的な部分は見覚えがあった。
–––それは豊かな胸である。
何故当時巨乳が好きだったかは自分でもよくわからないが、その消え入りそうな感じと不釣り合いなほど存在感を主張する胸部は、なんというか逆に照合に時間はかからなかった。
それにその女性も誰かと一緒にいるのを見たことはないし、似たオーラは感じていたのだ。俺の場合は一人でも困ることはないが、彼女の馴染めていない感じは酷かったといえよう。
慌てる彼女の姿が次第に不憫になってきて、俺は後ろから声を掛けた。
「どうした?」
振り返った女性は、泣きそうな顔でこちらを見る。パニックになりかけていた。
「ご、ごめんなさいっ、その……っ!」
財布がない、なんて言えるはずもなく。
気の小さそうな女性は、さらに慌てた。
声を掛けた自分が追い討ちになったようで、涙がぽろりと溢れる。
あまりにも不憫な様子に、俺はとっくに気がついていた事実を確信してしまう。
財布を忘れてしまったんだろうな、と。
「いくら?」
安い、早い、美味いが売りのチェーン店で、それも女性となればそれほど食べてはいないだろう。
俺は自己完結から貸してやろうと思って、そう問いかけた。
すると相手はさらにおどおどした様子で、辛うじてこんなことを言い出すのだ。
「…え、あ、その……借りるわけには…っ」
迷惑をかけまいとしているのだろう。
少しレジが遅れるくらい、俺は別に困らないからいい。
だが、俺の背後に並んだ客がどう思うだろうか。
「後ろにもう並んでるし、迷惑はかかってるんだから諦めろ」
「あっ……」
また「ごめんなさいっ」と謝った女性の代わりに、セミセルフレジに代金を投入する。
店員の方も厄介事を嫌ったのか、どう見ても他人の俺が代金を入れたのを黙認した。どうやら払えばなんでもいいらしい。
次いで俺が出した伝票を店員が打ち込み、自分の代金を払って店を出た。
曇天から降る雨に、空を見上げる。
弱まったのを感じつつ、帰れないこともないかと嘆息する。
そんな俺の背後で扉が閉まり、近距離に人の気配を感じ取った。
「あ、あの……!」
背中に声を掛けられる。さっきの女性だ。
振り返ると、とても近い距離に感じる。
これほどまでに接近した異性というのは、随分と久しぶりな気がした。
よく見れば顔も悪くない。近くで見れば、何がとは言わないがやっぱりでかいことがわかった。
「さ、さっきはその、ありがとうございました。そ、その……気がついたら財布がなくなっていて……」
「いいよ気にしなくて」
「あ、あの、ちゃんと返しますのでっ」
返ってくる期待はあまりしていなかったのだが、彼女はそう言って俺の袖を握った。
「いまから親に連絡して、持ってきてもらいますからっ。時間があるならその–––少し待っていただければ」
待つ。のは面倒だし、彼女の親にも悪い気がする。あと面倒だしと二度ほど同じことを思った。
「俺は潮留大学の藤宮」
「……あ、一緒の大学。わ、私も、潮留大学です。西宮沙也加といいます」
「じゃあ、また会った時でいいから」
小雨の中を傘もささず、俺は駆け出した。
◇
忘れたと思っていた当時のことを、鮮明に思い出してしまう。
他にも紆余曲折あったのだが、思い出の数々が走馬灯のように脳裏を高速で過ぎ去っていった。
「どうしたの藤宮君?」
いまさら身を縮めるように存在感を消している俺に、片桐は首を傾げる。
「あ、あぁ……ラーメン食べに行かないか?」
一刻も早くこの場を去りたくて、俺は適当な提案をする。
それはもう今日は飲みは終わり、という意味も含んでいたのだが片桐はわかりやすく頰を膨らませた。
「えー、まだ始まったばっかりじゃん。今日は終電まで付き合ってもらうつもりなんだから逃さないよ?」
ジョッキの中の氷が、カランッと音を立てた。
冷や汗をかいているのは、俺か、ジョッキか。結露というらしいが本当にどうでもいいことである。
終電も何も俺達は徒歩圏内なので、終電の時間は全く関係がない。
「じゃあ、二件目いくか」
「……ほう。うちの店は飽きたってか」
大将には聞こえていたらしく、不機嫌そうな声が漏れる。
「藤宮君、本当に変だよ?」
訝しむように片桐が首を傾げて、ビールを一口飲む。
そこで何を閃いたのか、彼女は目を見開いた。
「–––もしかして、沙也加ちゃんと知り合い?」
–––俺はこの時ほど、女の勘を怖いと思ったことはない。
わかりやすいフラグはあったと思うが、すぐにその結論に至るのはもはや女の勘で片付けていいものか。察しが良すぎるのも困りものである。
「–––ってことはもしかして元カノ!?」
「大きい声で言うなっ。たぶんな、たぶんっ。たぶん違うと信じたい」
–––俺はこの時ほど、この女を怖いと思ったことはない。何がどうしてそうなった。
「一人目?二人目?」
「好奇心の鬼かおまえ!」
「えぇ〜、いいじゃん教えてよぉ〜。ここまでバレてるんだしさぁ」
「酔いすぎだぞおまえ」
あまりにもうざ絡みしてくるのも面倒なので卵焼きで口を塞ぐ。すると片桐はもきゅもきゅと咀嚼して、ゆっくりと味わってから飲み込んだ。
「……それで、沙也加ちゃんって何人目なの?」
少しだけ落ち着いたのかこっそりと片桐は訊ねた。
「……最初のだよ」
「へ〜、ほ〜。……んぅ?最初の彼女ってすっごい短い期間で別れたんだよね。沙也加ちゃんってそんな軽薄そうに見えないけど」
「まぁ、昔は地味で落ち着いた感じだったし。途中でイメチェンするまではあいつぼっちだったからなぁ」
「なんでフラれたの?」
「そんなの俺が知るかよ。他に好きな人ができたって言われて、いきなりだったんだから」
……自分に落ち度がなかった、とは言い切れない。
俺は顔がいいわけでもないし、頭がいいわけでもない。運動は平均以上にはできたが、特別上手いというわけではなかった。才能もなければ、平凡な男である。
女の扱いだって慣れていなかったし、初めての彼女を持て余していた節さえあるのだ。話すのだってだいぶ苦手な方だ。
–––思い返せば思い返すほど、どうして愛理は俺のことを好いてくれているのかわからなくなる。あいつ本当に俺のどこがいいんだか。
「あっちも気になっているみたいだし、聞いてみよっか。–––沙也加ちゃーん」
–––このおバカッ!
声にならない声が漏れて、罵倒するタイミングを逃す。
今すぐ逃げ出したいところだが、俺はもはや椅子から立ち上がることすらできないでいた。
「はい。ご注文ですか–––美月さん」
あくまで俺のことは気にしない体で話す女性店員に、片桐はすかさず切り込む。
「沙也加ちゃんって潮留大学だったよね?」
「……そうだけど」
状況が読み込めず、ちらりとこちらを見てくる。まるで何かを確認するかのように。
「実は、同僚も潮留大学でね。藤宮君っていうんだけど」
「「…………」」
気まずい沈黙が流れた。
顔を合わせることができなくて、俺はずっとジョッキに視線を向けたまま。僅かにわかるのは、西宮も視線を逸らしてくれていることくらいだ。
「やっぱり知り合い?」
「……その、まぁ、はい。二人って付き合ってるんですか?」
「ううん。全然。藤宮君は彼女さんいるし。それも随分と長い関係の相手がね」
「……そう。じゃあやっぱり冬海さんとは続いてるんだ」
何を勘違いしたのか西宮はそう口走った。
「……え?冬海さん?」
別の名前が出てきて片桐は固まった。
「ねぇ、それって–––」
「こらこら勝手に他の人の個人情報引き出そうとするんじゃねぇよ」
慌てて追求を止める。すると片桐は確信を得たのか、興奮したようにこんなことを言い出した。
「嘘でしょ。全然気づかなかった。そんな素振り一切見せなかったのに。っていうか水着の元カノと、今カノの前で堂々と密会なんて罪深すぎない藤宮君!?」
「とんでもないパワーワードを作るんじゃねぇよ。そもそもそれ密会じゃねぇだろ」
「愛理ちゃんに報告していい?」
「いや本当にやめて。あいつ本当にそういうの嫌がるから」
「じゃあ、両方とも呼んでいい?」
酒を飲んだ状態で同僚と元彼女二人と同棲相手に囲まれるのは何という罰ゲームだろうか。
四面楚歌を文字通り体現してしまう布陣に、おそらく俺の胃は耐え切れない。
「おまえあいつだけは怒らせるのやめとけ。–––俺が死ぬ」
「死ぬの藤宮君なんだ……」
スマホに伸ばしかけた手が止まる。
二人に連絡寸前で思い止まってくれたようだ。
「じゃあ、聞きたいことも増えたし飲もっか」
–––週末はまだ終わらない。