片桐の愚痴を聞いている間に時間が過ぎ去っていく。
思ったよりも長い間滞在していたようで、時計の針は十二時を回っていた。
ポケットに入れたスマホが振動して、通知したのもその時だ。
通算十数回目の通知。–––愛理からの連絡は、八時を過ぎた頃から始まった。
最初は一時間置きに一回だった。十時を過ぎた辺りから三十分に一回、十一時を過ぎた辺りから十五分に一回くるようになった。その度に返信しているのだが、通知は止まない。
「–––終電、なくなっちゃったね」
テーブルの下で返信をしていると、最後の一杯を飲み干した片桐がとろんとした目でそう告げた。
「終電も何もおまえも俺も徒歩圏内だろ」
「もう、そこはお持ち帰りするくらいの気概見せなよ」
素っ気ない返しに片桐が膨れっ面を見せる。
お持ち帰りも何も、家には同棲人がいるのだが。
「馬鹿なこと言ってないでそろそろ帰るぞ。うちのお姫様から帰宅の催促が来てるからな」
「そういえばさっきから通知きてるね」
最初こそ気にならなかったが、次第に間隔の狭まっていく連絡に気づいていたのか片桐は呑気にそんなことを言って立ち上がった。
「はい。私の分。それじゃあ、私はお化粧直しに行ってくるね」
片桐は適当に財布から五千円札を抜き出すと、テーブルに置いて奥のトイレへと消えていった。その間に会計を済ませておいてね、ということらしい。
途中で西宮に向かって何事かを囁いた。別れの挨拶だろうか?
「まぁいいや。さっさと会計済ませるか」
五千円札を回収して、伝票を持つ。会計にレジへ向かったところで急ぐように西宮がついた。
「ん」
「お会計しますね。えーっと、ビールが六杯。それから–––」
注文した品をレジに打ち込んでいく。
それから程なくして、合計金額が算出された。
「一万千二百円です」
財布から一万円を抜き出し、片桐が出した金額と合わせる。
「一万と五千円お預かりしますね。こちらお釣りです。まずは三千円と–––」
手渡しで渡された三千円を財布に入れて、小銭を受け取る。
「八百円です」
差し出された小銭を受け取るために手を出す。
そんな俺の手の甲に、左手が添えられた。
右手は小銭を落とすように乗せられて、そのまま手を握るように西宮は重ねてくる。
「……ねぇ。ちょっとだけ待っててくれないかな。……その、話したいことがあって……」
「……わかった」
「……いいの?」
驚いた顔で西宮が見つめてくる。
俺はそんな彼女を見つめ返して、小さく頷いた。
「表にいる」
「じゅ、準備してくるねっ」
急いで奥に消えて行った元カノを見送る。
それから一人で外に出ると、既に外には片桐がいた。
「あ、藤宮君–––」
仔犬のように駆け寄ってくるその頭に、すこんと手刀を落とす。
「いたっ。暴力反対!」
「何が暴力反対だ。–––おまえ知ってたろ」
俺がそう問い詰めると、酔って戯れついてる風を装っていた片桐は、その顔を茶目っ気のある可愛らしい顔に変えた。
「何が?」
とぼけるフリをして、彼女は嬉しそうに聞く。
俺はそんな片桐の頰に手を当てて、むにむにと摘んでやった。
「元カノがこの店で働いていることだよ」
「あはは、何のこと?」
まだしらばっくれるつもりらしい。なら、もうあとは証拠を突きつけて追い詰めるしかない。
「この店に連れて来たのはおまえだろ」
「いつもの店だよ。私と藤宮君の行きつけの」
「そうだな。でも、今日のおまえ殆ど不審だったぞ。強引に俺の元カノの話しようとするし。俺が帰ろうとしたら、強引に俺と西宮を会わせただろ。おまえらしくもない」
「……」
頰を両手で挟み、無理やり視線を合わせる。
目がちょっと泳いでいるところを見るに、図星らしい。
「……ちょっと藤宮君、近い……」
酒精以外の影響で頰を熱くする片桐は、露骨に視線を逸らした。
キスできそうな距離とは、よく言ったものである。
「それにおまえ会計の時はいつも側に立つよな。–––俺が会計を誤魔化さないように」
片桐は基本的にこういう酒の席の会計はきっちり払う。どうやら恩着せがましい相手が嫌いらしく、俺が少し払いすぎただけでも怒ったのだ。それから監視付きで会計するハメになった。
最近ではたまに素直に奢られることもあるが、基本的には男性相手には気を許したことはないらしい。俺だけは特別枠だとか。
「そ、その、トイレに行きたくて、ね?」
「おまえトイレに行きたくても会計は一緒にするから席で待っててって言うだろ」
「トイレの話やめよ。デリカシーないよ藤宮君」
「おまえから振ったんだろ」
うぐっ。と言葉に詰まる。
それから観念したように強張っていた頰が緩んだ。
「……藤宮君って鈍いのにそういう時だけ鋭いよね……ずるいよ」
彼女の頰を挟む手に、彼女自身の手が重なる。
「藤宮君がさっさと思い出していれば……。帰ろうとしなければこんな強引な手を使おうとは思わなかったんだよ。まぁ、どんなことをしても許してくれるっていう打算もあったわけだけど」
「じゃあ、やっぱり最後の“あれ”も予定のうちか」
店内ではたいした話もしていないし、お互いに顔を合わせて“元恋人”だという事実を再確認してもいない。NGワードゲームを繰り広げていたわけである。
職務中だったっていうのもあるが、今更何を話せばいいのかわからないのだ。昔話に花も咲かないのは当然だろう。
「おまえって本当に貧乏くじ引くの得意だよな」
「言っておくけど私だって不本意なんだよ。愛理ちゃんとは友達のつもりだし、仲良くしたいって思ってる。でもそれ以上に沙也加ちゃんも大切なんだよ。だって–––」
そこまで言い掛けたところで店の裏手から誰か出てきた。
薄手の白いブラウスに、チョコレートブラウンのロングスカートの女性だ。西宮だと気づくのに時間も掛からず、俺達二人を見つけて駆け寄ってくる。
「お、お待たせ。そ、それじゃあ、えっと……行こっか」
片桐がいるのに気にした様子もない。
やっぱりここまでのことは、仕組まれたことだったのだ。
◇
帰りはもう少しだけ遅くなると愛理に連絡して、スマホの電源を切った。
そうしてやって来たのは、近くにある牛丼屋だった。酒を飲んだ後のシメは汁物が美味いしラーメンの気分ではあったのだが、なんとなくそんな気分ではなくなってしまった。
なんとなくだなんて言ったが、本当は理由なんてわかっている。
西宮沙也加と出会ったのが、牛丼屋だったのだ。
誰が決めるでもなくここにすると、片桐は何も文句を言わずについて来た。
「じゃあ、私はここにするね。あとはお二人でどうぞ」
深夜の牛丼屋はガラガラで四人席が空いているのに、片桐は一人だけカウンター席に座ろうとする。
本人曰く、愛理に義理立てするためについて来たらしい。つまり俺と西宮が夜の街に消えて性行為をしないようにする監視役だ。
話そのものには介入する気はないらしく、一人さっさとメニュー表を開けてしまう。
「藤宮君。私達はその、こっちに……」
西宮が指したのは、角の方の席だ。
わかりやすく説明するならば、初デートで座った席である。
恋人になった初めてのデートで来たのだ。
二人が出会った場所だから、一緒に行きたいと言って。
「俺はおろしポン酢牛丼のメガ」
「私はそれのレギュラーサイズで」
奇しくもあの時のメニュー。
片桐は俺の注文を聞くと「まだ食べるの!?」と驚いている。
「……店ですごく食べてなかった?」
「米はまだ食べてないから」
「ふふ、昔と変わらず食いしん坊なんだ」
小さく笑った西宮の顔が昔の笑顔と重なる。
かつて幸せだった、あの頃と–––。
今はもう自分のものではない。それを思い出すと、少しだけ胸が締め付けられるようだった。
俺は意外にも彼女との日々を気に入っていたらしい。
「ご注文のおろしポン酢牛丼です–––」
それからしばらく無言で向かい合っていると、すぐに注文した品が届いた。
俺は無言で紅生姜を載せる。彼女は苦手で、紅生姜を食べれなかった。なぜこんなことばかり覚えているのか。
「「いただきます」」
二人で合掌して、牛丼に手をつけ始める。
黙々と食べ進めて、水を飲んで。
食べ終えるまで、お互いに無言だった。
何を話せばいいのかわからない、というのもあったが自分でも何をしているのかわからなかったのだ。
俺がメガサイズを食べ終えるまで十分も掛からず、彼女はまだ食べ続けていた。
「相変わらず早いよね。食べるスピード」
丼を置いた俺に、西宮は話し掛けてくる。
それはまるで、思い出を語るようだ。
実際に全部思い出の中のことで、過去のことだ。
思い出す度に胸が軋むような気がした。
「別に普通だろ」
「いや、私普通サイズ食べてるんだけど……」
そう言って、ようやく西宮も食べ終えた。
振り返ればカウンター席の片桐も食べ終えていたようで、小さな皿がいくつか並んでいる。しじみ汁にミニサイズの牛丼にしたらしい。
俺は伝票を握って、先に立ち上がる。
「じゃあ、行くか」
あまり長居するのもあれなので、席を立った。
通りすがりに片桐の伝票も掻っ攫う。
すると片桐も西宮も追いかけて来て、抗議してきた。
「ちょっと伝票!」
「付き合わせてるんだからこれくらい奢らせろ」
「それを言われると、私の立つ瀬がないんだけど……」
「むしろそれをするのは私達の方じゃない?」
「煩い。黙って奢られてろ」
幸いにもさっきのお釣りで事足りる金額だ。さっさと払って店を出た。
帰路を歩く。そうして通り掛かった公園にベンチがあった。
まだ話という話もしておらず、俺はそこに座り込んだ。隣には西宮が座る。
片桐は飲み物を買ってくると言って、自販機へ行った。
まだ夏の暑さも残る夜風を浴びて、しばらく二人だけで夜空を見上げる。
「–––私ね、ずっと後悔してたの……」
そんな中、ようやく西宮が口を開いた。
お互いを見ることはせず、ただ組んだ指を見つめて。
「ねぇ、覚えてる?私達がただの友達だった頃のこと」
–––そう切り出す。
「知り合って間もない頃、私は君にずっと好意を抱いてた。好かれたくて変わろうとして、君が眼鏡ない方が可愛いって言ってくれて、コンタクトにして。服装も変えた。君に釣り合うくらいの自分になれたら、告白しようと思ってたの。ようやく念願叶って、私が君に好きだって打ち明けた日のことは今でも覚えてる」
それは紛れもない独白で、西宮は言葉を続けた。
「努力して、綺麗になって、ようやく告白した私を藤宮君は受け入れてくれた。それは本当に嬉しかった」
まるで宝物を見せる子供のように、思い出を語る。
しかし、それはそこまでの話–––。途端に西宮の声のトーンは下がった。
「でも、私って自分が思ったよりもバカだったの。君が好きだったはずなのに、高校の時に好きだった男の子にデートの誘いを受けて、私は浮かれて一度遊ぶだけならってOKしたの。でもそれが思いの外楽しくて、心の中で比べちゃったんだ。君と昔好きだった人を」
それが始まりだったのだと、言って–––。問う。
「覚えてる?私が君を捨てた時の言葉」
「……確か、『他に好きな人ができた』だっけ」
「うん。でも、続きもあるよ。私はこう言ったの。『君よりも面白くて、一緒にいて退屈しない人』って」
何度聞いても刺さる言葉だ。
俺自身面白みのない人間だったので否定はできる要素もない。
「そうして私は新しい私を手に入れて、新しい彼氏と付き合い始めた。あの時の私は周りからチヤホヤされて、調子に乗ってたんだろうね。もっといい人がいると思って、簡単に古いものを捨てて新しいものを手に入れて。でもそうやって手に入れたものはさ、結局勘違いだったんだ」
俯いて、街灯でできた人影が縮こまる。
「新しい彼氏は二股してたんだ。私は遊びのつもりだったみたい。戯れに手に入れた、顔と体がいいだけの都合のいい女として扱われていただけでさ。私のことなんて本当は見てなかったんだよ」
自虐気味に笑う。
「笑っちゃうよね。君を傷つけて捨てた私も、弄ばれていただけなんて。気づいた時にはもう遅かった。君のところになんて戻れるはずもないし、私は新しい恋を探した。でも、男運がないっていうか人を見る目がないみたいで。付き合った人みんな私のことなんてうわべだけしか見てなくて、都合のいい女程度の扱いだったんだよ」
深呼吸を一つする。西宮は、ベンチから立ち上がり正面に立った。
「私はそうして失ったものの大きさに気づいて、私のしたことの大きさに気づいたの。だから、もう一度ちゃんと謝りたくて、君に会いに来たの。–––あの時はごめんなさい」
そうして、深く頭を下げる。
「今更私にこんなことされても君を傷つけた事実は変わらないけど、これだけはもう一度言っておきたくて。美月ちゃんに頼んで君に会わせてもらったの。許してくれなんて言えない。でも、美月ちゃんを怒らないであげてくれないかな。こんなくだらないことに巻き込んだのは私だから」
別に今更それを聞いても、という気はする。
もう終わったことだったし、気にはしていなかった。
「そうか」
俺に返せたのは、それだけである。
もう夜も遅いので二人を送ることになった。
電源を切ったスマホをつけると、通知が三十件近くきている。
電話がかかってきてもう帰ると言ったが、すごい不機嫌そうだった。
「そういや西宮はどこに住んでるんだ?」
「私は数駅隣の街」
「じゃあ、タクシー呼んだ方がいいか」
「ううん。今日は美月ちゃんの家に泊まるから」
そう言って二人は、仲良さそうに「ね?」と言い合う。
「仲がいいんだな」
「そりゃあ幼馴染だもん」
胸を張って言い放った片桐に、西宮は少し焦った様子だ。
「それ言っていいの美月ちゃん?」
「いいのいいの。どうせ偶然を装った計画はバレちゃってるし」
「–––幼馴染?」
随分と世間は狭いようだ。まさか同僚の片桐と元カノが幼馴染だったなんて。
「ほう。つまりは深い事情もだいぶ前から全部知ってたってことか?」
「あ、いや、知ったのは数ヶ月前だよ。藤宮君と歩いているところを偶然見られて、それで–––」
「神経逆撫でるようなこと言ったのは?」
「……二人きりにしても大丈夫か確認しておきたくて。藤宮君全然怒らないから」
「私は別に藤宮君になら何をされてもよかったんだけど」
ささっと逃げるように距離を取る片桐と、反対に覚悟を決めた様子で西宮は言った。危うい光が目に灯るその瞳は狂気的で本気で言っていることがわかる。
「……でも、藤宮君なら大丈夫って信じてたよ?」
–––今なら片桐に何をしても許されるような気がした。