八月三十一日。木曜日。
前日の予報通り、今日は一日中快晴だった。
夕方の空模様も雨雲一つない。
時刻は午後七時前。打ち上げ花火開始時刻の一時間前だ。
花火大会が行われる河川敷の最寄駅には、浴衣姿の女性達や待ち人を探す人でごった返している。
みんな考えることは同じようで、駅の改札入口前を多くの人々が人探しをしていた。
会社を定時退社した俺も、軽く家でシャワーを浴びて待ち合わせをしている駅前まで来たところだ。
暇潰しにスマホで天気を再確認していると、そこに待ち人の一人がやってきた。
「藤宮くーん!–––わわっ!?」
つい先程まで会社で一緒にいた片桐だ。
彼女は小走りに近づいてくると、急停止しようとして失敗して躓く。
あまりの勢いに転びかけた彼女を俺は咄嗟に抱き留めた。
「なにやってんだよ。おまえは」
「……あはは。ごめーん」
そう言って離れた片桐の顔はどこか赤い。
夕焼けだけが理由ではなさそうだが、詮索は野暮だろう。
俺だって抱き留めた時の感想を聞かれたら困る。
「ねぇ、それより浴衣どう?大学の時に着たのを着てきたんだけど……」
気を取り直して、彼女は袖をちょこんと摘むとお披露目するかのようにくるりと回る。
その姿は会社にいた時とは違い、白の布地に青を基調としたアサガオ柄の浴衣を身に纏っていた。
「すごく似合ってる。可愛い」
「私としては美人って言われた方が嬉しいんだけどなぁ〜」
ちょっとだけ残念そうな口調だが、引き結んだ唇の角が僅かに吊り上がっているところを見るに、褒められてよほど嬉しかったようだ。
「どっちかというとおまえ可愛いからな」
「……二度も言わなくてよろしい」
誤解のないように訂正すると、片桐はそっぽを向いて照れたように肩をぶつけてくる。
「–––ところで、愛理ちゃんと都ちゃんは?」
「もうそろそろ電車で来るはずだけどなぁ」
愛理は浴衣が実家にあるため、一度そちらに顔を出してから着替えてくる予定なのだ。だから、仕事終わりに顔を合わせていない。
午後七時が待ち合わせの時間のため、七時前の電車でついてもおかしくないのだが、駅の改札から姿を見せないことを不安に思っていると、そんな俺の背中をドンと誰かが押した。
「どーん!」
そんな気の抜ける掛け声と共に、僅かに身体が前に傾く。
見当違いの方向からの襲撃に、俺は悪戯した犯人の腕をがっしり掴んだ。
「ほぅ、背後から奇襲を掛けるとはいい度胸だな」
「あれ、怒ってますお兄さん?」
下手人の姿を目におさめようと振り返れば、浴衣姿の可愛らしい女子中学生が立っていた。白の布地に小さな金魚達が泳ぐ可愛らしくも繊細な美しい浴衣姿だ。
お団子に綺麗に纏められた髪は可愛らしくも気品があり、頸は女子中学生らしい健康的な白さと色気を漂わせている。
本気で怒っていたわけではないのだが、都の可愛らしい姿を見た瞬間、なんかもう色々と言いたいことが吹き飛んだ。
「……おや、お兄さんどうしたんですか?私に見惚れちゃいました?」
「あぁ、控えめに言って可愛い」
「ふ〜ん。そうですかそうですか。浴衣姿の私を見られるのは今日だけですからね。お兄さんなら存分に見てもいいですよ」
俺の反応に満足した都は、調子づいたようにそう言う。
胸が大きくない方が浴衣が似合うという言葉が一瞬浮かんだが、口に出すと拗ねられそうなので言わない。
代わりに姿が見えない姉の方を、探すように周囲を見渡す。
「それより愛理は?」
「お姉ちゃんなら、すぐ来ますよ。あ、ほら」
都の示した方へ視線を向けると、道路の方から紺色の着物に身を包んだ女性が歩いてきていた。白百合の花柄が大人っぽさを表しており、その動作一つとっても美しく見えた。
楚々とした立ち振る舞いはまるで別人のようで、結い上げた髪には藤の花と小さな花の簪が咲いている。それがゆらゆらと揺れる様には、目が惹きつけられてしまった。
どれを見ても美しい姿に周囲のざわめきの声が、彼女を見ていることに気づく。
「綺麗〜」
「本当に素敵」
「私もあんな大人になりたいなぁ」
「おい、あれ見ろよ」
「すげぇ。美人じゃん」
「声掛けてこいよ」
「いや、無理だろ」
周囲の雑音を押し退けて、彼女は進む。
俺達のところへ来ると、花が咲くような微笑を浮かべる。
「–––ごめん。待った?」
口を開けば、いつもの愛理だ。
あまりにも大人っぽすぎて誰かと思った。
「……いや、全然」
「結構急いで準備したんだけど、電車に乗り遅れちゃって。お母さんに車で送ってもらったんだけど……って、どうしたの?」
問われてからようやく見惚れていたことに気づく。
わざとらしく咳払いして、俺は気を取り直した。
「あー、その〜なんだ。……凄い似合ってる」
「ふふっ、ありがと」
淡白な褒め言葉にも満足したようで、愛理は再び花が咲くような微笑を浮かべた。それが一人の男に向けられていることを悟り、悔しがるような声がそこかしこで上がる。
「それより時間もないし、行くぞ」
あまりにも愛理を見る視線が多かったため、連れ出すように俺は彼女の手を引いた。
今日行われる花火大会はそれなりに規模が大きい。
花火大会が行われる河川敷だけではなく、道路の一帯を封鎖してそこに百以上の屋台を並べるのである。
打ち上げられる花火の数も、約五千発。それが午後八時から二時間近く打ち上げられる。
例年やっていることもあり、俺も愛理も毎年のように遊びにきていた。何度か顔を合わせることもあったし、煽られて金魚掬いや射的等で勝負をしたこともある。それに呆れるもう一人の少女と羽柴の顔を思い出したが、今はあいつも別の玉打ってるんだろうなとなんだか切ない気持ちになった。
「あ、お兄さんあそこに綿飴売ってますよ!」
河川敷までの屋台群を歩いていると、都が突然はしゃいだ声を上げて腕を振る。指差した先には綿飴の屋台がやっており、キャラ物の袋に入れた綿飴を売っていた。それ以外にも目の前で作って渡してくれるサービス付きである。
「食べたいのか?」
「お願い、おにーさん」
可愛くおねだりする都に財布の紐が緩む。俺はポケットから財布を取り出して、千円札を四枚ほど握らせた。屋台を回る分のお小遣いである。
「わ〜い、やった〜!お兄さん大好き!」
なんとも現金なことで、甘えた声でお礼を言うとそのまま屋台の方へ走り去っていく。
「もう、妹を甘やかしすぎよ」
「いいじゃないか。今日くらい」
「とか言って普段から甘やかしてるじゃない」
元気に下駄を鳴らして屋台に並んだ妹の姿を視界に収めながら、愛理は苦言を呈する。
男とは女に勝てるようにできていないのだ。妹と姉に挟まれていることになるが、子供である都に軍配が上がってしまう。
「はい、お兄さん。一口あげる」
綿飴を手に戻ってきた都は、そう言って綿飴を差し出す。
じゃあ、一口……と噛みつけば口の中になんとも言えない甘さが広がった。
「……綿飴だな」
「あまーい」
自分も一口食べて、おかしそうに笑う。
「……私の目の前でイチャイチャして」
嫉妬深い視線を感じたが、俺にはどうすることもできない。
片桐は苦笑するのみで触れまいとしている。
「それはそうと、俺らも何か食べるか」
「そうだね。取り敢えず私はビールかな」
屋台で売ってる酒はスーパーで買うより少し高い。しかし、それでも買ってしまうのが祭りというものだ。片桐は迷わず一本の缶ビールを買うために飲み物を売っている屋台に並んだ。
都は他の獲物を見つけると、また一人で屋台に並ぶ。
「何か食べたいものあるか?」
「そうね。私は焼きそばがいいかなぁ。直人は何食べるの?」
「俺は焼きそばとたこ焼き。あ〜、それから串焼きにきゅうりの浅漬けもいいな」
「漬物好きよね」
二人で並んで目当てのものを買う。ついでに片桐の分も串焼きを買った。ビールを飲むなら、つまみになりそうな串焼きは欠かせないだろう。
それからしばらく屋台を物色して河川敷を目指すと、両手には食べ切れるかどうか怪しいほどの戦利品の数々を手にしてしまっていた。分け合う予定だったとはいえ、間違いなく愛理は食べ切れないだろう。その場合は俺の胃袋に詰め込まれるが。
他の二人といえば、合流した頃には凄いことになっていた。都はベビーカステラやりんご飴などの甘味ばかりを手にしており、片桐はビール片手に唐揚げをぱくついていた。
「もうすぐ時間だけど、どうするかな……」
河川敷は人でいっぱいだ。立ち見までいる。
今から場所を取るのは無理だろう。
俺達が人の多さに辟易としていると、都は「ついてきてください」と言って人混みの中を進んでいった。
しばらく進むと、場所取り用のレジャーシートが並ぶ一角についた。その中に探していたものを見つけたのか、都が駆け寄って行った。
「お留守番ご苦労様。ご褒美のかき氷ですよ。あ、お母さんにも」
「あら、ありがとう」
「おっせぇよ」
とある場所にレジャーシートを敷いて待っていたのは、京介と志穂さんだ。悪態を吐いた京介の手には例の如く単語帳が握られており、少しだけ上げた顔からは不本意そうなオーラをひしひしと感じる。
「よく場所なんて取れたな」
祭があるとはいえ、基本的に社会人は仕事だ。
そう考えれば、都か京介しか場所を取れる人間はいない。
しかも、好立地。
その謎には、京介が答えてくれた。
「朝早く都に叩き起こされて、場所取りに連れてかれただけだよ。シートさえ置けばいなくても問題ないからな。また夕方に一人で来る羽目になったけど」
深いため息と共に語られた場所取りの真相に、俺は相変わらず都にこき使われている京介が不憫に思えてきた。それでも拒否しないところがシスコンたる所以なのだが。
「わぁ〜、ありがと〜。京介君!」
「うわっ、くっつくな!」
抱きしめて頭をよしよしし始めた片桐に戸惑い、京介は照れた様子で抵抗を見せる。ただ押し退けないあたり嫌ではないようだ。片桐は胸が大きいから。
「っていうか、誰!?」
京介はプールで会ったことも忘れているらしい。
だがそれでも突き離さないあたり、おっぱいが当たる感触を楽しむむっつりすけべの称号は外せそうにはなかった。