九月、最後の月曜日。
恒例の残業を終えて、片桐と会社を出ると外はすでに日が沈み真っ暗になっていた。
九月も終わるというのに真夏のような暑さに感覚が鈍るようだが、もう秋も始まり、かなり深まっている頃である。
その証拠とばかりに夜は秋らしい涼しげな気温へと下がるので、昼間と同じ格好をしていれば思わず寒さに身を縮めてしまうほどである。
「うぅ〜、さっむぅ〜!」
そんな秋の始まりを肌で体感している片桐は、半袖からすらりと伸びた両腕を寒そうに摩っていた。
「そんな薄着で会社に来るからだろ」
「女の子は常にファッションに敏感なんだよ」
だったら寒さ対策をしたコーディネートにしろよ、とは口には出さない。片桐が薄着であることで得をしているのは、他ならぬ自分だからだ。
自らの身体を抱きしめるように両腕を擦っているおかげで、胸は腕に挟まれ強調されつつある。その様子もしばらく見納めかと記念に脳内に残したところで、スーツの上着に持ってきたトレンチコートを肩に掛けてやると、彼女は嬉しそうに羽織って笑顔を浮かべた。
「……なんか渋いね」
「文句があるなら着なくてもいいんだが?」
「わぁ、ごめんごめん。ありがと!」
「まぁ、なんとなくちょっとかっこいいなって思って買った自覚はあるが」
そんなことを言いながら、片桐の家への帰路を歩く。
約三十分にも満たない道を歩くと、すぐに片桐の住むマンションが見えてきた。
その前で、片桐は振り返る。
「じゃあ、またね」
「いや、コート返せよ」
「おっと、そうだった」
コートを脱いで返すと、大きく手を振って片桐はマンションへと消えていった。
見送ったあとでコートを着ると、僅かに女性物の香水の匂いがした。片桐らしい匂いに少しだけ不思議な気持ちになりながら、踵を返して今度は一人で自宅への道を歩く。
十数分歩くと、自分が住むマンションについた。
階段を一段飛ばしで駆け上がり、自分の部屋の鍵を開けて、中に入るとちょうど鍵を締め直しているところで愛理が玄関へと出迎えてくれた。
「おかえりなさい」
少しだけいつもと違う声–––そのことに疑問を覚えながらも、俺はいつも通りに彼女を抱きしめようと近づく。
「ただいま」
抱きつこうとした瞬間、胸板を手のひらで押される。
拒絶の意思に釘で胸を刺したような痛みが走り、俺はその事実に驚きながら、崩れ落ちるように床に手をついていた。
帰宅後の抱擁とキスを心の支えにして残業を終えて帰ったのにこの仕打ち、ちょっと立ち直れそうにない。
「……」
「ご、ごめんなさい。風邪引いたみたいだから、うつしちゃ悪いと思って……だからその、今日はキスとかダメなの」
「……じゃあ、せめてハグだけでも」
拒絶されたわけじゃないとわかって、力の抜けた身体に僅かばかり力が戻ってきた。残業疲れの身体を奮い立たせ、なんとか立ち上がって愛理を抱きしめる。そしてそのまま、彼女の柔らかさをしばらく堪能する。
「大丈夫か?」
「うん。ちょっと咳が出て、喉が痛い以外はなんともないから」
「そうか。じゃあ、早めに風呂に入って寝た方がいい。洗い物なら俺がやっとくから」
ぽんぽんと背中を優しく叩いて身体を離す。
二人でダイニングの方に行くと、テーブルには温め直された料理が並んでいた。
豚の生姜焼き。
根菜の煮物。
長葱と豆腐の味噌汁。
ほうれん草入り卵焼き。
特に豚の生姜焼きがいい匂いをしており、思い出したかのように腹が空いてしまった。
「今日も美味そうだな」
「そういうのは食べてから言いなさいよ」
食卓について、二人で夕食を食べる。
あれが美味い、これが美味いと褒めちぎった。
夕食を終えると、愛理は少しだけ申し訳なさそうに浴室へと向かっていった。
皿を洗い終えてしばらくすると、愛理が風呂から出てきた。
髪はドライヤーでしっかりと乾かしたあとで、風呂上がりの姿に思わず抱きしめたくなったが自重した。
「私、予備の布団で寝るから」
「……別にそこまでする必要はないだろう」
「でも、移したら悪いし」
少しだけ名残惜しそうな顔で、愛理は困ったように言う。
「移ったら移ったでおまえに看病してもらえるだろ。ナース服で」
「もう、そういうことばかり考えるんだから」
愛理はそれだけ言って、寝室へと消えていった。
◇
翌朝。
いつも俺より早く起きる愛理より早く起きてしまった。
彼女はまだ夢の中で、熟睡中である。
ふとスマホで時間を確認すると、いつも愛理に起こされる時間になっていた。
「おーい、朝だぞー」
「ん〜、もう朝〜?」
隣で寝ていた愛理が、気怠そうな声を上げる。
ベッドに伏せたまま視線を上げて、不機嫌そうに朝の日差しを睨みつける。
いつもとは違い全然起き上がらない。
唸るように「ん〜」と声を伸ばして、寝返りを打つ動作もどこか鈍かった。
「愛理?大丈夫か?」
「……大丈夫」
虚勢を張っているのは見え見えだったので、そっと額に手を伸ばしてみるとそれはもう酷く熱かった。
普段から彼女の体温を感じているからか、その変化がよくわかってしまう。
「おまえ酷い熱だぞ」
慌てて救急箱から体温計を取り出して、パジャマのボタンを二つほど外して脇に挟む。
数分ほどして電子音がけたたましく鳴り、引っこ抜いて確認すると三十八度とやはり酷い熱を出していた。
「とりあえず病院か?その前に会社に連絡入れないとダメか。それから……」
俺の場合、どんな病気でも大概食って寝たら治るという理論でどうにかなるが、愛理にそんな根性論が通じるはずもないので慌てて何をするべきか考える。
あと自分の会社にも連絡を入れて、半休にして病院に付き添おうと、片桐に電話を掛けていた。
『おはよう藤宮君。そっちから電話掛けてくるなんて珍しいね』
「悪い片桐。午前は半休取るって主任に言っておいてくれ」
『……なんで?』
「愛理が風邪引いて、熱出してな。だから朝は付き添って病院に行かないといけなくて」
『愛理ちゃんが?そっか、伝えとく……いや、なんて伝えればいいの?』
「同居人の体調が悪くて、病院にもいけないほど参ってるからとでも伝えておいてくれ」
『……なんかその説明だけで、小一時間くらい取られそうだね』
「だからおまえに連絡したんだよ」
俺が愛理と同棲しているのを知っているのは、会社じゃ片桐だけである。説明の手間を考えれば、それはもう面倒なことになりそうな気がするのだ。
『伝えとく』
「悪い。今度埋め合わせする」
『いいよ。いつもお世話になってるの私だし』
謙虚にそう言って、片桐は電話を切った。
「ほら、愛理も。自分で電話できるか?」
「……うん」
愛理のスマホを手渡すと、すぐに電話を掛け始めた。
しばらくして、愛理が気怠そうな声で会社の上司らしき人と話し始める。
約二分ほど話した後、スマホを力なく落とすように布団に置いて、ぐったりとベッドに突っ伏した。
「おい、本当に大丈夫か?」
「……うん」
「八時半には出るから、それまでゆっくりしてろ」
前髪を掻き分けておでこにキスをすると、愛理は赤い顔で布団に潜ってしまった。
病院での診断はただの風邪。
解熱作用と喉の痛みに作用する薬を貰って帰ってきた。
愛理を布団に寝かせると、その足で近くのスーパーで買い物をする。
冷却シート、水、スポーツドリンク、レトルトのお粥にゼリーやプリンと必要な物を買い揃えて戻った時には、十一時半を過ぎようとしていた。
「愛理。お粥食べれるか?」
「……食べさせてくれる?」
「お、おう」
時間もあまりないのですぐに調理に取り掛かる。と言っても、パウチを温めて中身を皿に出すだけだが。
たまご粥をお椀に盛り付けて、りんごを擦り下ろしてベッドで休んでいる愛理に持っていくと、俺の姿を見つけて微笑んできた。
「起きれるか?」
「むり。だっこ」
「はいはい」
これを機にと甘えてくるお姫様を抱き起こして座らせる。
クッションを腰のあたりに置いて、楽な姿勢にした後でお椀を左手に持つと、右手のスプーンでお粥を掬いすぐに吐息を吹きかけて冷ます。湯気がなくなったところで愛理の口元に差し出した。
「はい、あーん」
「あー……ん」
温度はちょうど良かったようで、彼女はスプーンを離すとそのまま数回咀嚼する。
こくんと喉が動いたのを確認してから、同じようにお粥をスプーンで掬って差し出した。
何度も繰り返していくと、お椀の中が空になる。次にデザートとして用意した擦り下ろしたりんごを口元に差し出すと彼女は嬉しそうにスプーンにくらいつき、数回味を楽しむように咀嚼して飲み込む。
「……なんだかお母さんみたい」
「いや、なんでだよ」
「お母さんも私が病気で寝込むと、たまご粥と擦り下ろしたりんごを食べさせてくれるの」
なるほど。確かに母親だ。
無意識に買ったたまご粥とりんごだが、きっとどこかで聞いた記憶があって、無意識に選んでしまったのだろう。
そう考えると行動の全てに意味があるように思えてしまう。
「食事が終わったし、あとは薬だな」
すぐに食器を片付けて、一杯の水と処方してもらった薬を持ってくる。食後三十分以内。それを朝昼夜三食食べる度に一錠ずつ。情報を確認して薬を手渡す。
愛理は錠剤を手のひらに乗せて、煽るように口に含むと水で流し込んだ。忘れずに額に冷却シートを貼っておく。
「それじゃあ俺は会社行ってくるから、いい子にしてるんだぞ」
「早く帰ってきてね」
「寝てたらすぐだろ」
–––後ろ髪を引かれる思いで家を出る。病気の子供を家に残して仕事に出る母親の気持ちが、少しだけわかったような気がした。
後半に続く。