数日すると愛理の風邪は治った。
一日様子を見た翌日、いつもの朝がくる。
「朝よ。起きなさい」
元気になった愛理は今まで家事を休んでいた分、奉仕しようと張り切っているのか引っ剥がすように布団を剥いできた。
秋の涼しげな気候が肌を刺し、石を退けられたダンゴムシのように丸くなる。
「……朝から元気だな」
嬉しい反面、布団を無理やり剥がされて気分は急降下。寝起きは最悪だ。
「うっ、さむ……っ」
背筋にゾクゾクした感覚が走って、毛布を取り返そうと手を伸ばすが、腕を愛理に掴まれる。
「せっかく早めに起きて時間取ったのに」
と、その視線が俺の下半身に向けられる。
「……起きてないわね」
「朝の生理現象が毎日起こると思うなよ。丸二日相手にされなくて拗ねてるんだからな」
火曜日と水曜日、自粛した俺の愚息は反抗期に入っているのだ。
「……月曜日は遠慮なしに襲ったくせに」
「あれは医療行為だし、ほしいって言ったのはおまえだろ」
なんなら一回で終わらせた。おかげで不完全燃焼だ。
「そんなこと言うなら相手してあげなーい」
愛理はそう言って、寝室から出ていった。
見送った数十秒後に重い腰をあげる。
「あ〜、起きるか」
ベッドから降りて、寝室を出る。
ダイニングテーブルには既に朝食が準備されていた。
鮭の塩焼き、卵焼き、根菜の炒め物、玄米ご飯、味噌汁。
朝は米派の俺に合わせた完璧な朝食である。
まだ木曜日。
仕事に行かなければいけないことを思うと、とても憂鬱だ。
椅子に座って、久しぶりに二人で合掌する。
日常が帰ってきたようで、なんだか胸の中が温かくなる。
「いただきます」
二人の声が重なり、箸を取る音が鳴る。
まずは味噌汁を飲んで、喉を潤す。
赤味噌と豆腐にわかめ。シンプルでありながらいい出汁が出ている。
これを飲むのも久しぶりだ。
「やっぱりおまえがつくる飯の方が美味いな。その……いつもありがとう」
「なに急に?そういう愛の言葉は私が弱ってる時にかけて欲しかったんだけど」
「おまえが病気の時は優しくしてるだろ。というか常に」
「でも、あんたからそんな素直な賞賛が出るなんて明日は雨でも降るんじゃないかしら」
「それで雨降るなら毎日雨だな。世の中に人間何人いると思ってんだ」
「そこは直人が降らせるんじゃないのね」
「そこまでいくと珍しくもないだろう」
「確かに」
久しぶりに夫婦らしい会話をして–––そもそも夫婦ではない。
「?」
「どうしたの?」
「いや、なんでもない」
「顔赤いけど慣れないことして恥ずかしがってるの?」
「……悪かったな」
「あはは、熱でもあるみた…い…」
そこまで言って、愛理は箸を置いてこちら側に来た。
手を俺の額にすっと当てて、その表情が変わる。
「ちょっと本当に熱あるじゃない」
「そうか?」
「測りなさい。体温計持ってくるから」
朝食をもぐもぐしている間に、愛理は寝室にある救急箱から体温計を取り出して持ってきた。
抵抗する間もなく襟から差し込まれ、脇に挟ませる。電子音が鳴ったらテスト結果の提出を促すように手のひらを差し出した。
「はい」
「……やっぱり、熱があるじゃない」
見せられた体温計には『三十八度二分』と表記されている。
「道理でいつもより肌寒いと思った」
「他に何かないの?」
「背中がゾクゾクする以外は……ちょっと怠いくらいかな」
「……ごめんなさい」
素知らぬ顔で報告すると、愛理は顔を伏せて謝罪する。
「いきなりどうしたんだよ?」
「だって、移したの私でしょ」
「まぁ、濃厚接触もドン引きするくらいの濃厚接触したからなぁ。我慢しなかった俺も悪いだろ」
あっけらかんと笑って、落ち込む愛理を慰める。
慰められた当の本人は納得していないような顔だが。
「気にするな」
「……でも、っていうかあんた平気そうね」
「バカは風邪ひかないって言うしな」
「その意味わかってる?」
「バカは風邪引いても気づかないって意味だろ」
実際、体調不良には気付いても自分が風邪を引いているとは想像もしてなかったのだ。
開き直っている俺に、愛理は呆れた様子でため息を吐いた。
「取り敢えず、病院ね」
「行かない。市販薬で十分だ。食って寝たら治る!」
皿に載っていたものは完食してしまったので、味噌汁用のお椀を愛理に差し出す。
「おかわり。味噌汁ご飯にしてくれ」
「……三十八度あるのによく食べるわね」
いつも通りの俺の様子に安心したのか、愛理はそう言ってお椀を受け取ってキッチンの方へ消えた。戻ってきた時にはお椀にはご飯に味噌汁が注文通り掛けられている。
全部完食する頃には、愛理も食べ終えていた。
そしてすぐに支度をして、財布を持ってきた。
「色々買ってくるけど、何かリクエストある?」
「会社遅れるぞ」
「いいわよ。別に。それで何か欲しいものは?」
ちらっとおっぱいに視線を落とす。
「ミルクが飲みたい」
「出ないわよ」
「どんな味なのか気になる」
「もうそういうことばっかり言うんだから。それに出ないの知ってるでしょ」
「熱があるんだ。仕方ないだろう」
「……いつも通りね。まったく。ちゃんとベッドに入って寝るのよ。悪化したら病院に引き摺っていくからね」
それからすぐ買い物に出て、色々と買い物を終えて戻ってきた愛理が、出勤するのを見送ってからベッドへと戻る。
「他の社会人が働く中、二度寝するのは最高だな。–––おっと、会社に連絡しておかないと」
会社に欠勤の連絡を入れてから、目を閉じればすぐに睡魔が意識を連れ去った。
◇
二度寝から目を覚ますと、十一時になっていた。
寝過ぎて身体が痛いのを解しつつ、ベッドから起き上がる。
体温を測れば三十七度二分。だいぶ下がった。
一時的なものかもしれないが、取り敢えずトイレで用を足してから、手を洗って水分補給用にと愛理が買ってきたスポーツドリンクを手にリビングへと戻る。
「さて、久しぶりに一人だな」
その時間を満喫するべく、久しぶりにゲーム機を起動した。
やるのは愛理がいる時にはできないギャルゲーだ。さすがにエロゲーの気分ではないので自重した。
起動する間にスポーツドリンクで喉を潤し、スタート画面で最初から始めるを選択した。
「あぁ〜、懐かしいなぁ。この感覚。あとキャラ可愛いし」
始めて数分ほどで、攻略対象の一人が出てくる。
主人公の義妹だ。黒髪ロングの正統派ヒロインというやつだ。清楚で学校ではかなりの人気者。
どうして俺にはこんな義妹がいないのかと、本気で悔やんだ。
しばらく進めると、ヒロインが数人出てくる。
その中でも気になったのは、やはり義妹とおっとりした優しいお姉さんキャラ。あと可愛い後輩だろうか。
誰から攻略するか悩む間もなく、俺は一番気になる義妹キャラの攻略を始める。
『兄さん–––』
義妹キャラが主人公に語り掛けたその時だった。
「なにしてるんですかお兄さん?」
キャラボイスに重なって、リビングの入り口から声が聞こえた。
振り向いた先には、都がいた。
白いニットのセーターに身を包み、その下にはショートパンツを穿いて、そこからすらりと伸びた脚は黒ニーソに包まれている。
女神も裸足で逃げ出す絶対領域に視線を奪われつつ、俺は誤魔化すように咳払いをした。
「なんでおまえいんの?学校は?」
「お兄さんこそ仕事はどうしたんですか?」
目を奪われすぎて、コントローラーを取り落とした。
ガツンと音が鳴って、その音が妙に印象的だ。
悪いことをしているわけではないのに、バツが悪いようなそんな気にさせる。
先に動き出したのは、都だ。
「私は学級閉鎖ですよ。風邪とインフルエンザが蔓延して、暇だったのでお兄さんの家に遊びに来たんですが」
「俺は風邪引いて会社休んだんだよ」
がさがさと机を漁って、マスクを取り出す。仕方なくつけた。
「帰れ。移るぞ」
「京介はインフルエンザなんですよねぇ」
避難しにきたらしくそんなことを言う。
「……返す言葉がないな」
「まぁ、二日目なんで普通にゲームしてましたが。お兄さんと同じく」
都のジト目が突き刺さる。
「受験生なんだから身体には気をつけろよ」
「そうですね」
ブーメランになるのでゲームをするなとは言わないが、都にも含めて言ったのは伝わっていないらしい。敢えて無視しているのか。
「もしお兄さんに風邪を移されて受験失敗した日には、責任を取ってもらわないと」
「それはそれで悪くないな」
都の視線がテレビに向く。今攻略中の義妹キャラに。
「……お兄さんのえっち」
「これはエロゲーじゃないです。ギャルゲーですぅ」
「どうせ移植版でしょう。元はえっちなゲームじゃないですか」
「おい、待て。なぜ知ってる」
俺の疑問の声を無視して、都はソファーまで近寄ってきた。
「さっきから私の身体見てるのバレバレですよ。お兄さん」
「さて、なんのことやら」
「お兄さん脚ばっかり見てますよね。ニーソとか好きなんですか?」
「生脚も、ストッキングも、タイツも好きだが、やっぱり一番好きなのはニーソかな」
「ふ〜ん、そうなんですね。お兄さんが風邪引いてなかったら、触らせてあげようかと思ったのに」
わざとらしくニーソを引っ張り、手放すと脚にぶつかってパチンと音が鳴る。
「えへへ、どうですか?」
「可愛い。よく似合ってる」
都が着ているのは、この前買ってあげた服一式だ。
それを早くもお披露目してくれたのである。
他にも数着買ったが、これを見れただけでもお金を出した価値はあった。
「ふふ〜ん、そうでしょう」
得意げに胸を張ると、その柔らかな膨らみが強調される。
「お兄さんに喜んでもらえてよかったです。まぁ、それはさておき」
「?」
「実はお兄さんの看病をしに来たんですよね。お姉ちゃんにお兄さんが風邪を引いたって聞いてますから」
きっと愛理のことだから、あまり家に近づかないようにと連絡したのだろう。それを無視したのが都だ。
「おいおい受験生。姉の忠告は受けておくべきだぞ」
「ご丁寧にどうも。でも、失敗したらお兄さんが養ってくれるので。それに一週間くらいお休みしたところで私が受験落ちるなんてお兄さんは考えてないでしょう?」
都の言う通りなので、言い返せなかった。代わりに肩を竦める。
「取り敢えず、お昼まだですよね?私が何か作りますよ?」
「なら、オムライスとハンバーグが食べたい」
「じゃあ、買い物に行ってくるのでお金出してください」
「はいよ」
財布から五千円札を一枚渡すと、都は米を炊いてから元気に出掛けて行った。
三十分ほどで材料を買ってきた都はキッチンに立った。
白米が炊けていないので、先にハンバーグの仕込みから始める。
合い挽肉、パン粉、牛乳、みじん切りにした炒めた玉ねぎ。
他にも調味料を混ぜて、ハンバーグの種を作っていく。楕円形に成形して、トレイに並べたそれを冷蔵庫に入れた。
次はオムライス用の材料を細かく刻み、ご飯が炊けて二十分ほど蒸らしたところでチキンライスの調理に取り掛かる。小さく刻んだ鶏肉等の材料を油を引いたフライパンに放り込み、火を通してからトマトケチャップを入れる。程よく混ざったところでライスを投入して手早く仕上げていた。
その作業と並行して、鍋で何かスープを作っている。リクエストしたのはハンバーグとオムライスなので何を使っているのかわからない。
そうこうしている間にハンバーグの種を寝かせ終えたのか、軽く空気を抜いたハンバーグをフライパンに投入していた。
都が効率良く調理している様子を、俺はリビングのソファーから眺めていた。
エプロンを掛けた姿は、非常に目の保養になる光景だった。
ポニーテールに結った髪が揺れる度、その光景がどこか尊くて切ない気持ちにさせる。
「できましたよ。お兄さん」
女子中学生の義妹が料理を作ってくれているという状況に感激していると、都が出来上がった皿を盛り付けてダイニングテーブルに並べていく。
何が感染する要因になるかわからないので、俺は大人しくダイニングテーブルに備え付けていた椅子に座って、料理を運び終えるのを待った。
「おお〜。すっごい美味そうだな」
テーブルに並べられたのは、僅か一時間で作り終えたと思えない料理の数々だ。
リクエスト通りのオムライス、ハンバーグ。それからサラダにミネストローネ。特に後半二つは体に良さそうである。
「いただきます」
二人で合掌して、昼食を食べる。
まずはミネストローネを飲むと、トマトの程よい酸味と温かさがじんわりと広がった。
「このミネストローネ美味いなっ!」
「ふふん、そうでしょう。お兄さんは素直に褒めてくれるので、作り甲斐があって楽しいです」
少しだけ誇らしげに微笑んだあと、都もミネストローネを口にする。味見はしたのだろうが、会心の出来に口角が少しだけ上がっていた。
「ほら、他も食べてください」
言われるままにオムライスに手をつける。
オムライスは半熟タイプで、卵を破ると中からとろりと卵と一緒にチーズが溢れ出してきた。
ハンバーグはナイフを入れると、肉汁が溢れてくる。
「……結婚してぇ」
女子中学生じゃなかったら口説いてた。それは間違いない。
「もう、お兄さんってば。そんなこと言ってるとお姉ちゃんに怒られますよ」
「実際、あいつがいなかったら求婚してたな」
頰を赤らめて照れる都に、率直な感想を伝える。
すると都は「もう」と笑ってハンバーグを食べる。
「ちゃんと食べてお薬飲んだら寝てくださいね」
「えー、眠くない」
「膝枕してあげますから」
女子中学生の膝枕宣言に、あえなく陥落した。