二月十五日。高校最後のバレンタインデーの翌日。
自由登校で三年生の数は三割にも満たない教室に、俺は一人で登校していた。
昨日の謝罪をするために家を出てみたわけだが、当然自由登校なので愛理が来る保証はない。それでも来たのは何故なのか、自分ですら理由がわからなかった。
昨日の事件を知っているクラスメイト達は、俺の姿を確認するとこそこそと囁くように噂話をその話題に替える。
あまりの居心地の悪さに苛立ちを覚えて窓の外に視線を逸らしていると、校門に見慣れた黒い髪の女子生徒が登校してくるのが見えた。
黒川鈴音。愛理の幼馴染だ。
隣に愛理の姿は見えないが、それで十分だ。
教室にやってくるまで、約三分。
急くように足を小刻みに揺らしながら待つと、教室の後ろのドアから目的の少女の幼馴染が入室する。
ガタッ、と椅子から立ち上がると、その音に反応して黒川はこちらを見た。
「おい、くろ…か…」
挙げかけた手が止まる。
ズンズンと勢いよく歩いてくる黒川は、泣いているようにも、怒っているように見えた。例えるなら、般若の面のような顔をしていると言ったところだろうか。
連想していた俺の前に黒川は進むと、同時にその手を振りかぶった。
–––バチンッ。
そんな鈍い音だったように思う。
これが殴り慣れた手なら、もっと良い音が鳴ったのだろう。
俺は他人事のように黒川が俺を引っ叩いた事実を認識した。
目の前には涙目の黒川がいて、今度は握り締めた拳を振りかぶって殴ってきた。
–––ペチッ。
ただ拳を握ったにしては緩く、頰に着弾すると同時に崩れる拳だった。勢いもなければ、引っ叩かれたより痛みはない。むしろ猫が戯れるような、そんなへなちょこパンチだった。
「……藤宮君のバカ!バカァァァ!!」
言いたいことのよくわからない慟哭に、俺は困惑する。
それとなく心当たりはあったので、俺は冷静に自分の状況を俯瞰していた。
周りは黒川が突然男を引っ叩いた事実に驚愕し、遠巻きに観察してきっと昨日のアレが原因だと推察していた。
俺も同意見なので、取り敢えず罵倒してくる黒川の手を握って教室から連れ出した。
教室を出て、廊下を進み、階段を上がる。
向かった先は、屋上のフリースペース。園芸部が花壇を作っている花園だ。
冬の花が咲く、寒空の下。
雪がちらついているが、衆目を集めずにすむ場所に心当たりがなかったので、こんなところになってしまった。
雪を祓いベンチに座らせたところで、黒川は糸がぷっつりと切れたように動かなくなった。視線を下げて肩を落とし、落ち込んだように下を向いている。
「その……。ごめんなさい。急に殴ったりなんかして」
「本当それな。びっくりしすぎて何が起こったのかよくわからなかった」
「つい頭がカッとなっちゃって。気がついたら、こう……スパーンと」
「黒川に殴られた男って、俺が初じゃないか」
俺が欲しかったのはそういう初めてではないのだが、これはこれで価値がありそうだ。ありがたく受け取っておく。
「人を引っ叩いたのも初めてだよ……」
「愛理と喧嘩とかしたことないのか?」
「あっても口喧嘩だからね」
男どころか人を引っ叩いたのも初めてと。
見れば黒川の手は赤くなっており、プルプルと震えている。
「やっぱり寒いよな。悪い。こんなところに連れ出して」
「なに急に?」
「いや、手真っ赤で震えてるから」
「痛くて震えてるの。あと真っ赤って言えば、藤宮君もだよ」
「え、何が?」
「頰に季節外れの紅葉が……ね」
「あー、あとついてる?」
「その……思いっきり」
少し熱い上にヒリヒリする頰は、外気で冷えて少しだけ気持ちがいい。おかげで寒さは感じない。
「教室に戻りづらいな」
「本当にごめん……」
「いや、いいよ。自業自得だし。おまえが怒る理由もわからないでもないから」
黒川の隣に腰掛けて、チラチラと落ちてくる雪を眺める。
「そう言われると元は普段の行いが悪い愛理の自業自得でもあるんだけどね。でも、ようやく勇気を出して一歩を踏み出したのに、それが無下にされちゃって、私もついカッとなって……一度問い質そうと思ったんだけど、顔を見ると感情の方が先にきちゃって我慢できなかったの」
顔も上げずに自己嫌悪しては、独白する黒川は白い息を吐く。長い溜め息は後悔の分だけ長かった。
「怒る気にもならないな」
「うぅ。むしろ怒ってもらった方が気が楽なんだけど」
「残念ながら、昨日ので感情燃やしすぎて当分は感情が動きそうにない」
小中学校と喧嘩ばかりしていたせいで怒るのにも疲れ果て、燃え尽きたかと思えば不満が募り、昨日暴発してあんな態度を取ってしまった。
昨日帰って初めて食べたバレンタインチョコの味は、思ったよりも苦くて……。
「……そうやって一人だけ大人な対応してくるところ、君の美点でもあるんだけど、なんか悔しい」
「普段から大人ぶってるやつに言われたくないな」
そう言い返せば、黒川はまたため息を吐いた。
「そういえば知ってるか黒川。女性の方が精神的に大人になるのが早いんだと」
「ごめんね。私も愛理も子供で」
「そうは言ってないだろ」
「そういう風にしか聞こえないんだけど」
「残念ながら俺もまだ子供だよ」
いつも通り煽られただけで苛立って、愛理の心情を受け止めずチョコレートを突き返すあたり。間違いなく昨日の一件は、俺の黒歴史の一つに追加された。
「そうかな。藤宮君は大人っぽいと思うけど」
ようやく顔を上げた黒川が、俺を見上げる。
上目遣いに見られて、女性経験値ゼロに等しい俺の心臓は小さく跳ねた。
視線をさらに落とせばタイツに包まれた脚が目に入り、その脚線美に目を奪われてしまう。
「……痛かった、よね」
不意に頰を黒川の手が触れる。
冷たく、ひんやりとした感触にジンジンと痛んでいた頰が、さらに熱くなっていく。
「その……私にできることなら、なんでもするから……」
ここで一度は女性に言われたい一言が出てきて、脳内で“なんでも”の部分が繰り返し再生される。
そういう意味で言ったわけではないことはわかっているが、意識せざるを得なかった。
「ほう、なんでもとな」
「あっ、えっちなのはなしだからね」
「あはは、そんなこと考えてるわけないだろう」
冗談でえっちそうでえっちじゃないギリギリのラインを攻めようかと思ったが、考える間もなく可能性を潰されてしまった。
「……それじゃあ、愛理の家教えてくれないか」
「あ、ごめん。それも無理」
「……なんで?」
「一応聞くけど、何するつもりなの?」
「謝罪だよ。自由登校なのにわざわざ学校来たの、このためだったし」
そうでなければ家でゲームを一日中する。
取り繕うこともなくそう言うと、黒川は納得したように「そっか」と呟く。
「でも、それは無理なお願いかな。だって君、そうなったら考える間もなく答えを出しちゃうでしょ」
「まぁ、話の流れ的にはそうなるだろうな」
「だからダメ。君にはもう少し考えて欲しいの。それからでも遅くはないでしょ?」
「わかったよ。じゃあ、別のお願いで」
しかし、そうなると別にこれといったお願いは……。
「あ、じゃあ、バレンタインのお返し買いに行くの付き合ってくれよ」
「えー、私アドバイスしないよ。あ、お菓子禁止ね」
ホワイトデーのお返しは食べ物じゃない方がいいと聞いたことがある。そういうことだろうか。
「そうなると髪留めとかかなぁ」
一人で女性用の小物を買うエリアに入るのは勇気がいる。
俺もそういう経験はないので、黒川がついてきてくれるなら店に入る大義名分も得られるというもの。
「じゃあ、今から行くか」
「そうだね。教室には帰れないし」
定義によっては“デート”になることを、この時の俺は否定した。