十一月。最初の月曜日はやっぱり残業から始まった。
残業を終えた頃には八時を過ぎ、会社を出ると少し肌寒く感じて、まだ十一月になったばかりだが、冬を感じさせる寒さに思わず身体を縮こめた。
「うわっ、寒っ!」
そんなことを言って片桐も身を縮めた。
二人して寒い寒い言い合いながら身を寄せ合い、体当たりのようにくっついてくる片桐と帰路を急ぐ。
「それじゃあお疲れ!」
片桐を家に送り届けると、薄情にも彼女はマンションへと駆け足で入っていった。
それを見届けてから、俺も自分の家へと急いだ。
早足に自宅への道を歩き、マンションへと辿り着くと階段を一段飛ばしで駆け上がる。通路を歩いている間にポケットから鍵を取り出し、ガチャガチャと音を立てながら鍵を回した。
パタン。そんな音を立てて閉まった扉を再び施錠したところで、リビングから愛理が顔を出した。
「おかえりなさい。遅かったわね」
「ただいま」
出迎えてくれた愛理は、そのまま抱きついて唇にキスをしてきた。
あまりにも手慣れすぎていて、反応すらできなかった。
「ご飯にする?お風呂にする?それとも–––わ・た・し?」
「じゃあ、ご飯で」
キッチンからいい匂いが漂ってくるのでそう答えると、愛理は少しだけ不満そうに唇を尖らせる。
「そこは私じゃないの?」
「だって、飯温め直したんだろ」
「そうだけど……」
複雑怪奇な乙女心的には自分を選んで欲しかったらしいが、残業もあって腹ペコな俺は軽く唇にキスを返して、リビングへ先に移動する。
ダイニングテーブルには料理が並び、メインのビーフシチューはまだ鍋の中であった。
「はい、お待たせ」
ほどなくして全ての料理が出揃い、二人で席に着く。
「それじゃあ、いただき–––」
合掌して、さぁ食べようとしたところだった。
–––ピンポーン。
インターホンの音が鳴った。
集金か、宗教勧誘か、傍迷惑なセールスか。
食事を邪魔されたことに少し苛立ち、邪魔してくれたやつの顔を拝んでやろうと腰を上げる。
「私が見てくるわよ」
すると愛理が来客の対応のために、先に立ち上がって玄関へと向かってしまった。
「ちょっ、あんたがなんでこんな時間に–––」
それから聞こえてきたのは、びっくりしたような声。
すぐにドタバタとした足音に変わり、リビングへと見慣れたサイドテールが飛び込んできた。
「お兄さん泊めてください!」
こんな時間に中学生が一人、押しかけてきたのは何故か。
修学旅行くらいにしか使わない大きなバッグを肩にかけているのを見れば、なんとなく予想もつくというものだ。
◇
「はぁ?家出してきたぁ?」
夕食を食べ終えてから事情を聞けば、都は頰を膨らませて不機嫌そうにそう言い放ち、私帰りませんよと深くソファーに座り直す。
「なんでまた」
「元々は京介が悪いんですよ。私の買っておいたプリン勝手に食べるから!」
「……それはそうね」
確かにそれは京介が悪い。
「でも、泣き寝入りしたわけじゃないんだろ?」
当然、都が大人しく黙って泣き寝入りすれば喧嘩になるはずもない。詳しく事情を聞けば、都は怒りを思い出したように不機嫌そうな様子を隠しもせず続きを口にした。
「なのであいつの嫌いな食べ物をたくさん入れたカレーを作ってやったんです。三日間」
「それはまた恐ろしいな」
嫌いな食べ物の入ったカレーを三日間。嫌いな食べ物でなくとも三日は飽きるだろう。食べ物の恨みを食べ物で返す恐ろしい行為に、俺もつい表情が引き攣る。
「そしたら京介がキレて、クソ不味い料理作るなだの言ってくるので喧嘩になって出てきちゃいました。私あんなやつに料理作ってやりたくないので」
都の隣には、修学旅行に持っていくような大きさのバッグが一つ。着替えや色々なものが詰め込まれているのかパンパンに膨らんだバッグからは、計画的な家出に見える。そこまで冷静に対応できるあたり随分と強かだ。
「というわけでお兄さん、泊めてください」
上目遣いにおねだりしてくる都の甘えた声に、俺は即答しようとして–––
「いや、帰りなさいよ。くだらない」
愛理に止められた。妹の可愛いおねだりにも屈さず、言い返すあたりさすがは姉だ。
「ええ〜、いいじゃないですか〜。しばらく泊めてくれても」
「具体的にはいつまで泊まるつもりよ」
「京介が泣いて謝ってくるまで」
果たしてあの弟君が都に謝罪するのか。
疑問に思った瞬間、愛理は呆れたようにため息を吐いた。
「いつまで経っても終わらないじゃないの……」
「そうなっちゃいますね〜」
他人事のように答えた都は、意地でも帰らないぞとふんぞり帰る。
「別に喧嘩したままでもいいから帰りなさいよ」
「えー、嫌です。顔も合わせたくありません」
「いいから早く!お父さんに言いつけるわよ!」
それで被害を受けるのは俺のような気がするのだが。
愛理は帰宅を促しながら、バッグを持ち上げる。
「いいんですか?私を無理やり追い出すと後悔しますよ?」
「なにを後悔するって言うのよ?」
「お姉ちゃんに追い出された私は、泣く泣く知らないおじさんに衣食住を求め、代償に初めてをなんてことに……」
「いやどこで覚えてくるんだよそんなこと」
「お兄さんのスマホのえっちな漫画の購入履歴から」
「よし、愛理。うちで飼おう」
何故都がそれを知っているのか知らないが、それ以上の言葉を聞く前に即決した。
愛理からジト目で睨まれるが、冗談とはいえ妹にこう言われては弱いのか短く諦めたようなため息を吐いた。
「……わかったわよ。お母さんは知ってるの?」
「今日はだいぶ遅いみたいですから、まだじゃないですかね」
「それじゃあ私から連絡しておくわ」
「は〜い」
愛理からバッグを返してもらい、都はニコニコと笑顔を浮かべる。愛理が母親へ連絡するためにスマホを取りに行った瞬間を狙って、都はわざわざ対面の俺の隣に座ると耳元でこう囁いた。
「お兄さんにはいっぱいご奉仕してあげますからね」
深い意味はないのだろう。きっと。たぶん。
「それじゃあ私は、お風呂入ってくるので」
何やらバッグをゴソゴソと漁り、服を一式取り出した都はリビングから出ていく。
その一歩前で、こちらを振り返った。
「あ、覗いちゃダメですからね?」
「誰が覗くか」
「それとも一緒に入ります?」
「いいからはよ入れ」
揶揄ってくる都を追い出して、俺は深くソファーに沈む。
扉の隙間からじーっと視線を感じたが、俺は気づかないふりをして冷蔵庫から酒を取り出すのだった。
「都は?」
「風呂」
都が風呂に行ってからしばらくして、愛理がスマホを片手に戻ってきた。簡単に許可は取れたようで複雑な顔をしている愛理は、都の持ってきた荷物を見下げる。
「まぁ、タオルは持ってきてないわよね。用意しておかないと」
「あ、そうだ。寝床どうする?」
うちに予備のベッドもなければ、布団もない。あるとすれば毛布くらいだ。寝具が不足していることに今更気付いたような顔で、愛理は腕を組み考え始める。
「ベッド……を渡すわけにはいかないわよね」
現状ベッドは二人で使っているため、二人とも寝床に困ることになる。
「お姉ちゃーん!タオルー!」
その間にもタオルを催促する声が聞こえて、愛理が寝室のクローゼットから持って行こうとしていた。
「俺が持って行こうか?」
「覗いたら怒るわよ」
「冗談だよ」
怖い顔で睨まれたので、俺は酔っているふりをするために缶酎ハイをちびちびと口にして誤魔化す。
リビングから愛理が消えたのを確認すると、缶酎ハイから口を離して一つため息。
「さて、どうするかな」
ソファーくらいしかないのだが、床で寝るよりはマシだろう。
寝具は明日買ってくるとして、今日は我慢してもらわねばならない。
そんなことを考えている間に、愛理が脱衣所から戻ってきた。
「おかえり。都は?」
「髪を乾かしてる最中よ」
「ふーん」
ぐびぐびと缶の中の酒を飲み干して、俺も風呂に入る準備をする。
「一緒に入るか?」
「だ、ダメに決まってるでしょ」
焦った様子で、愛理は顔を逸らした。
「えー、なんで?」
「妹がいるんだから当然でしょ」
「え、じゃあエッチもなし?」
「えっちも禁止!」
絶対気づいているだろうし、今更な気もするのだが姉は体裁を気にするらしい。
「バレないようにやるから」
「……だ、だめよ」
「おい。今ちょっと迷っただろ」
「そ、そんなことないわよ」
顔を赤らめて否定する愛理に、ニヤニヤとした笑みを向ける。
追撃をかけようとしたところで、リビングのドアが開いて都が入ってきた。
「お風呂空きましたよー」
「おう。ところで寝床どうする?」
「布団ないんですか?」
「あぁ、ベッドしかないな。お前が使うか?」
「嫌ですよ。なんか使っただけで妊娠しそうです」
「おい」
「私はソファーで寝ます。一度、ソファーで寝てみたかったんですよね〜。それにここにはゲームもありますし。ヘッドフォンをつけるので、多少は煩くしてくれても構いませんよ?」
いったい何の心配をしているのか都に気を遣われて、愛理の頰がさらに赤くなる。
「何言ってるのよあんたは!」
「え〜、何をやる気なんですか〜?」
妹の方が一枚上手のようで、そう言って楽しそうに俺を盾にする。
「まあいいや。明日寝具は買ってやるから、今日は毛布とソファーで寝ろ。あまり夜更かしするなよ」
「はーい」
そう言いつつも都は、テレビに繋げられたゲーム機の電源を入れてゲームを続きから始めるのだった。それもエロゲのコンシューマー版を。