「お、お風呂入ったわよ」
午後八時を過ぎた頃、愛理がお風呂から上がった。
何故か俺の部屋から顔だけを出しながら、報告してくる姿に少しだけ訝しみながらも俺はゲームを中断して、セーブしたところでテレビとゲームの電源を落とした。
「早く湯が冷めないうちに入りなさいよ」
「おう」
「それと、歯磨きもよ」
「おまえは俺の母親かっ」
幼児に教える口煩い母親のようなことを言う愛理に思わずそんなことを言い、傍に用意しておいた着替えやタオルを手に立つ。風呂場に行こうと部屋の前を横切ったところで、彼女がこんなことを口にした。
「そ、そういうプレイがしたいの……?」
「そんな趣味ねぇよ。それに歯磨きするにしたって早くないか?寝るにしたって」
疚しい意味ではなかったのだが、何故か愛理の顔が赤くなる。
“寝る”という単語ひとつでそうなったのであれば、彼女は既にそういう覚悟をしているということになる。
寝室に移動したのだって、そういうことを想定したのであろう。
……なんていう妄想をすれば、彼女の言葉の全てに別の意味があるように思えてきて、深読みし過ぎてしまう。
期待するわけではないが、さっさと風呂に入ってしまおうと風呂場へと足早に駆け込んだ。洗面所で服を脱ぎ捨てると、浴室でシャワーを適温にして頭から被る。
なんとなく入念に髪も身体も洗って、泡を流してから風呂を出た。
服を着てから髪を乾かし、洗面台で歯を磨き、喉の渇きを潤すために水をキッチンで一杯飲んでから、俺は自室の前で立ち止まってしまった。
緊張する必要などない。
俺の家だし、遠慮する必要だってないだろう。
それなのに何故か、寝室のドアを開けるのを躊躇った。
あまりの馬鹿馬鹿しさにため息を吐いて、俺は寝室のドアを開けた。
「……」
愛理の姿はベッドの端にあった。
膝を揃えて座り、僅かに緊張した面持ちで俯いている。
身に纏っているのは肌が薄らと透ける黒のベビードール。
自分から着たくせに恥ずかしそうに体を隠して、何も言わない俺の方に視線を向けてきた。
「ど、どう……?」
「どうって……」
可愛いだとか、綺麗だとか言うべきだろうか。
なんだかそれを言うのは負けた気がして、口を噤み考え込む。
その場凌ぎで俺は話題を逸らすことにした。
「おまえ普段そういう格好してんの家で……?」
「そんなわけないでしょ。こ、これは、友達が男の人はこういうの喜ぶからって……」
確かに男は喜ぶかもしれない。俺も例外ではなく、愛理の直球的なまでの求愛行動に性欲が揺さぶられていた。
「なに言わせるのよバカ」
流石に言葉にするのは恥ずかしかったらしく愛理から罵倒が飛んでくるが、むしろ可愛らしくて怒気を感じられなかった。
俺は隣に座って、愛理の腰に手を回して抱き寄せた。
「は、恥ずかしいんだから、さっさと電気消しなさいよ」
かぼそく漏れた小さな声は、いつになく弱々しい。
好きな子をいじめたくなるという心理が、なんとなく今はわかるような気がした。
–––いや、好きな子ではないけど。
今はまだ。……そう断定する。
「それじゃあ、消すぞ」
「ええ……」
照明が消えると同時に、彼女はそっと唇を押し付けてきた。
◇
朝日が昇る。
三度も同じ光景が続けば、もう見慣れたものだった。
三泊四日。金曜日の夜から、月曜日の朝まで。週末を一緒に過ごしてしまった。
「月曜か……会社行きたくねぇ」
社会人が人生で何度も口にする言葉を吐けば、もぞもぞと愛理が身動ぐ。薄らと瞼を開いて、とろんとした夢見心地な視線を向けてくるとそのままゆっくりと起き上がってきた。
「ん、今何時……?」
「七時」
「……シャワー浴びないと」
被っていた毛布がぱさりと落ちる。
愛理は恥ずかしげに胸元まで毛布を引き上げ、そっと毛布の中を覗き込んだ。
「胸の谷間がベタベタする」
「そういうことは報告しなくていいから、さっさと風呂に入ってこい」
「先に入っていいの?」
「俺は会社近いしな。おまえ出勤何時?」
「八時」
もうあと一時間もないわけだが、シャワーを浴びている時間はあるのだろうか。むしろ浴びなければ、色々な体液の入り混じった丸一日分の匂いで異臭騒ぎになりかねないので入らないという選択肢はない。
愛理はタオルや下着類を手に、洗面所へと駆け込んでいった。
十五分ほどで洗面所から出てきた愛理と交代して、シャワーを浴びる。
諸々の匂いや汚れを落として風呂から出た頃には、愛理は服を着て朝食の準備をしていた。
既に時刻は七時半。彼女は、出勤時間に間に合うのだろうか。
「おまえ間に合うのか?」
「うん。どっちかって言うと、ここからの方が会社近いし。家からだったら、絶対に間に合わないかも」
もっとも遅刻しそうになっている理由は、夜遅くまで寝なかったのが原因だが。
「いただきます」
二人で合掌して、朝食を食べ始める。
急いでいるからか互いに無言で、集中して食事した。
昨日は食事も簡易にしていたため、余計に腹が減ってしまっている。
「ごちそうさま。それじゃあ、私歯磨いたら先に出るから」
食事量も少ない愛理は、パン一枚とサラダを食べると慌ただしく準備をして出て行った。
会社に到着したのは始業十分前。
もう既に出社していた同じ部署の人達に存在を認識してもらうために挨拶をして、いざ自分のデスクについたところで、俺にわざわざ近寄ってくる影があった。
「藤宮君おはよう」
「おはよう片桐」
声を掛けてきたのは同じ部署で、同い年の同僚。
ボブカットの茶髪の実に愛らしい容姿の女性だ。
もっともこの部署には、俺以外の男はいないのだが。
あまりの肩身の狭さに会社を辞めずに済んでいるのは、同じ年の同僚がいるからである。
片桐美月。彼女は唯一世間話に興じれる友人であった。
「聞いたよ藤宮君、合コン行ったんだって?」
そして、お喋り好きであり、社内の噂で知らないものはない。
当然のように片桐は俺が合コンに行ったことでさえ知っていた。
「はて、何のことやら」
「またまた誤魔化さなくてもいいよ。他の二人に聞いたから」
「ちっ、あいつら余計なことを……」
社内で一番のお喋りに知られてしまい、朝から憂鬱な気分になる。
情報収集にはうってつけの相手だが、それと同じくらい彼女と話すと情報が流出するのだ。
「顔色も良さそうだし、何かいいことでもあった?たとえばお目当ての女性とお付き合いとか」
「別にそういうわけじゃ……」
「あれ、でも金曜の夜に近くのスーパーで一緒に買い物してたよね?」
まさかの目撃情報。
思わぬ発言に、俺は思わず固まってしまった。
女性の勘は鋭いというから、これだけで何かを察しただろう。
彼女は面白そうに口元をにんまりと歪めた。
「合コンで出会った女性を即お持ち帰りなんて、ヤることはヤってるんだね」
どう反論したものか困ったところで、片桐は追撃の口を緩めない。
「で、で、どういう関係?まさか藤宮君が一目惚れして連れ込んだわけじゃないよね。君、女遊びができるようなタイプじゃないし」
「いや、ただ元同級生ってだけだよ」
「元カノ?」
「違います」
当たらずとも遠からず、一応告白はされているので少しだけ踏み込んだ関係であったのは確かだろう。普通のクラスメイトと言うには浅からぬ関係だったとも言えるが、そこだけはしっかりと否定しておく。
「連れ込むなら元カノだと思ったんだけどなぁ……」
「連れ込む前提の話やめろよ」
「あ、わかった。学生時代好きだった子でしょ!」
人の話も聞かずとんでもない大暴投をする片桐に、俺は呆れを隠そうともせず大きくため息を吐いた。これ見よがしに聞こえるようにやったためか、俺の顰めっ面を見て少しだけバツが悪そうな顔。
「あ、あれ?おっかしいな。私の勘よく当たるんだけどなぁ」
「朝の情報番組の星座占いくらい当たってねぇよ」
正確には好きだったのはあいつの方からで、俺が好意を寄せたことはない。ある意味惜しかったが矢印の方向が違った。
「まぁ、元カノかどうかは一旦置いておいて」
「そうしてくれ」
「浅からぬ関係なわけだ」
「……まぁ、そうだな」
知人以上恋人未満。けれど、身体を重ね合ってるというなんとも微妙な関係。しかし、愛理も俺も関係について言及することはなかった。曖昧にしている方がお互いに都合が良かったから。
「いつも仏頂面で女性に興味なさそうな藤宮君がねぇ〜」
ニヤニヤとした顔をいつまでも向けてくる片桐の額に、俺はデコピンを放っておいた。