一月一日。元旦。
その日は朝からゆっくりと風呂に入った。
特筆すべきことは、何もなかったことだろうか。
いや、これがまったく何もなかったのだ。
いつもなら手を出しているのだが、いつもみたいに手を出すのはなんだか勿体無い気がして気後れしてしまい本当に朝は何もしていない。
清々しい朝–––まさしくその通りで、「おっぱい揉む?」と愛理に心配されてしまったのは記憶に新しい。
正月なのでもう少しゆっくりしていたかったのだが、昼からは予定があり愛理の実家に顔を出さないといけない。
「……なんで俺、おまえの実家に顔出さないといけないんだろうな……」
ふと冷静になってしまうと、考えてはいけないことが頭に思い浮かんでしまった。もう今すぐ回れ右して帰りたい。
「ここまで来てなに言ってるのよ」
無慈悲にも愛理は実家の玄関のドアを開けて、俺を中へと招き入れる。
そのすぐ後にリビングの扉が開き、ひょっこりと都が顔を出した。
「お兄さん、お姉ちゃんおかえりなさい。それとあけましておめでとうございます」
「あけましておめでとう。はい、これ」
俺は用意していたポチ袋を取り出し、都に差し出す。すると彼女は無邪気に嬉しそうな笑顔を浮かべた。
「ありがとうございます」
中身を確認せずポケットに仕舞う。
目の前で確認しないあたり、都らしい反応だ。
前日に教えた通り中身は二万円。同じく京介の分も用意している。
「京介は?」
「リビングですよ」
リビングへ戻る都について行くと、京介は確かにリビングにいた。黒川と一緒に。
「あれ、黒川?」
「あ、二人ともおかえり。それとあけましておめでとう」
愛理の実家に帰ると何故かその親友がいるという謎の現象に出くわしてしまい、俺は困惑しながらもなんとか返事をする。
「まぁいいや。ほら、京介」
「ありがとう」
京介の分のお年玉を渡して、今日の予定は終了である。
「さぁ、帰ろう」
具体的には鹿島父と顔を合わせる前に。
反転して玄関に向かおうとすると、既に出口が塞がれていた。
目の前には、例のあの人。
表情がコンクリートのように固まり引き攣る。
「おや、何処に行こうと言うのだね?まだ来たばかりじゃないか」
口では歓迎している風を装っているが、言葉の節々には「新年からキサマの顔を見ることになるとはな」という不機嫌さが奇妙に見え隠れしている。娘を置いて帰れ、と言いたいが帰すと娘まで帰るからか妙に好意的だ。
「ふふ、おせちもお雑煮もあるから楽しみにしててね」
「あ、はい」
初詣したら帰ろうと思ったのに、志穂さんに退路を塞がれて俺はそう返すしかなかった。
◇
初詣に向かったのは、近所で一番大きい神社だ。
学生の頃も随分とお世話になっており、新年になる度に初詣に来たのもこの神社だった。
昔、振袖を着た愛理を見たことがある。その時も家族と来ていて、黒川と一緒だった。
あの時も遠目に見ていたのに、何故か一瞬で見つかって二言三言交わすことになり、口論になったのを覚えてる。
–––それも今では、いい思い出だ。
近隣の学生や家族が集まるその場所に、今度は愛理の家族と行くという奇妙な状況につい笑みが溢れる。
「なに笑ってるのよ」
「いや、ちょっと面白くなって」
「変なの」
そう言いつつも腕を絡めてくるところが、昔とは違ってなんだか擽ったい。
「おや、あちらで甘酒を配ってるようだよ。取ってきてあげようか?」
娘のデレデレ具合に居た堪れなくなったのか、それとも気を引きたくなったのか鹿島父がそう提案する。その視線の先では確かに参拝客に甘酒を配っている巫女さんがおり、沢山の参拝客が甘酒を貰っていた。
「それはいいけど、ちゃんと直人の分も貰ってきてよね」
「ははは、任せなさい」
そんなみみっちいことはしないよ、と笑顔で去って行く鹿島父だが、言わなければ本当にやっていたかもしれないので愛理は怪訝な顔で見送っていた。
監視役について行く志穂さんも離脱して、残ったのは俺達五人だけ。
「それじゃあ私達は参拝しておこっか」
「そうですね。あちらも時間が掛かりそうですし」
参拝客の列最後尾に並ぶ。その瞬間、俺はスマホを起動して参拝の仕方を調べていた。
毎年参拝するけど、一年に一回しか来ないので参拝の作法を忘れるのだ。
「なに調べてるんですか?」
「参拝の仕方」
「おやおや、わからないなら私が教えてあげましょうか?」
にやにやして「そんなこともわからないのかー」と悪戯っぽい笑みを浮かべて揶揄う都に、俺は素直に頭を下げる。
「それじゃあよろしく頼む」
「む。そう素直に来られると揶揄い甲斐がありませんね」
そう言いつつも都は、二拝二拍手一拝の説明をする。それはネットに書いてある通りの情報だった。
「まぁ、私も昨日調べたんですけど」
「しかも普通に調べてた」
黙っていてもバレなかったのに、素直に喋るところが都らしいところだろうか。勤勉とも言うが。
しばらく待っていると列が進み、すぐに自分達の番が来た。
お賽銭して、二拝して、二拍手して、一拝する。
背後に人がいると急かされているような気がして、つい動作が早くなってしまうが他四人が真面目にやっているのを横目に見ると少しだけ損をした気がしてしまう。
四人揃って何を真剣に願っているのだろうか。
じっと愛理を見ていると、ふと瞼を上げた彼女と視線が合ってしまう。
「なに?」
「いや、何を願ったのかなと思って」
「私はこんな日がずっと続きますように、かな」
「欲がないな」
「だって欲しいものは自分で手に入れるもの」
だからと言ってこちらを物欲しそうな目で見てくるのはやめて欲しいと、視線を逸らした先で都と視線が重なる。
「そういうお兄さんはなにを願ったんですか?」
「俺は無神論者だから」
「でも十字架は好きですよね?」
「それとこれとは話が別なんだよ」
そう言って今度は教育者の方に視線を向ける。
「黒川は何を願ったんだ?」
「私は健康と生徒達の合格祈願かな」
「見ろよ。ここに神がいるぞ」
ありがたやー、ありがたやー、と拝むと恥ずかしそうに顔を赤くしてチョップされた。
「次やったら怒るよ?」
「はい、すみません」
たぶん怒らせると一番怖いのは黒川なので、俺は素直に従った。
「お兄さん、私には聞かないんですか?」
「いや、どうせ合格祈願だろ」
「私にそれ必要あります?」
「……ないな。実力で勝ち取るし」
「まぁ、一応願いましたが」
「願ったんかい」
「でも、本命のお願い事は別ですよ?」
「ふーん、その願いって?」
「お兄さんには教えません」
「教えないなら、何故訊かせようとした?」
普段の悪戯のつもりなのか、悪戯っぽい笑みを浮かべて都は離れていく。
そんな姉の姿を見て何を思ったのか、隣で京介がボソリと呟く。
「……大変だな。兄貴も」
「いや、それどういう意味だよ?」
双子だからか京介にはわかったらしい。だけど、教えてくれなかった。
「まぁいいや。おまえは?」
「合格祈願」
学生らしい答えが返ってきて納得する。
参拝の列から外れ、都を追うと両親と一緒にいた。
数が多かったせいか、盆の上に甘酒の入った紙コップを載せている。
気づいた都が、お盆を持ってきた。
「はい、お兄さん」
「ありがとう」
まだ温かい甘酒を受け取る。
「両親は?」
「お参りしてくるって」
「そうか……なに願ってくるんだろ」
「お姉ちゃんの幸せと、二人が別れるようにじゃないですかね」
「両立は難しくないか」
「ですよねー。諦めればいいのに」
甘酒をちびちび飲みながら、そんなことを言う。
甘酒の独特の甘さを味わいながら、ゆっくりと飲み干す。
その頃には、鹿島夫妻が帰ってきた。
とてもいい笑顔の鹿島父を見るに、ろくでもない願い事をしたんだろうなと邪推するのは悪いことだろうか。
顔には『今年中に別れるといいな』と書いてあるのだが。
「そうだ。お兄さん一緒に御神籤引きましょう」
「当てにならないと思うけどな」
「そうよね。占いってほぼ当たらないし」
「恋愛運も占えると思いますけど」
「……やりましょう」
都の一言で、愛理が手のひらを返す。
そのまま二人に引き摺られるように、授与所に引っ張られた。
一回五百円、という安いんだか、高いんだかわからない値段を払い一枚引く。
結果は『凶』だった。詳しく恋愛運を見てみると、『女難の相』と書かれている。–––心当たりしかない。
「お兄さんのは凶ですか」
覗き込んできた都が、ある一点を見つめる。
納得したように頷いた。
「おまえは?」
「私は大吉です。目標も、恋愛も上手くいくみたいですよ。金運もいいみたいです」
「そりゃあお年玉をあれだけ巻き上げたらなぁ」
ふと気になって、愛理のも覗き見た。
結果は『中吉』で、恋愛運は『大切な人を手放さないようにしましょう。寛容であることが大事かも』となっている。
「なんというか恋愛に関してだけ妙に具体的だな……」
誰が作った御神籤なのか、恋愛に関してだけ妙に細かく書かれている。
「……浮気しても一回までなら許してあげる」
「二回目は?」
「時と場合によっては監禁ね」
恐ろしいことを素面で言う愛理に、俺は背筋が寒くなった。
「おまえの親友ヤバいんだけど」
「まぁ、前からそんな感じだったし」
「周知の事実かよ」
もしかしたら甘酒で酔ったのかもしれないと、軽く現実逃避をしておく。
引いた御神籤は、専用の木に括り付けた。
「学業成就の御守りは買わなくていいか?用がないなら帰るぞ」
時間もだいぶ経ち、用が済んだところで最後の確認をすれば、都がさらっととんでもないことを言う。
「そうですね。帰って姫はじめしないと」
「な、なななななに言ってるのよ?」
「お兄さんも一緒にしますよね?」
動揺する愛理に、同調を求める都。
新年からとんでもない板挟みである。
ちらついたのは、御神籤の結果であるのだが、それも都の思うツボといったところだろう。
「だ、ダメよ、直人の姫はじめは私がするんだから!」
過剰に反応する愛理に、ますます小悪魔の笑みを浮かべた都はクスクス笑うと小首を傾げる。
「なにいってるんですかお姉ちゃん。姫はじめの意味知ってます?」
「そ、それは……その……男の人と女の人が、あれするんでしょう……?」
「京介は知ってる?」
「……釜で炊いた飯を食うことだろ」
弟は引っ掛からなかったらしく、真面目な顔をしてそう答えた。
「お姉ちゃんはなにと勘違いしたのかな〜?」
新年から揶揄ってくる妹に、愛理は真っ赤な顔で俯いたのだった。