暗がりのなかで兵藤一誠のやろうとしている行為、すなわち30mほど離れてうつぶせに倒れているミッテルトにとどめを刺すことは正しい。脇目も振らずにそれを実行しようとしていることも。にもかかわらず、一誠はミッテルトに向かって歩きながら悩んでいた。肝心なことを思い出したのだ。
おい、俺はそれを今まで一度もやったことがないじゃないか。
はぐれ悪魔バイサーの時は、一誠はオカルト研究部のメンバーが討伐するのをただ見ていただけだった。フリード・セルゼンは途中で逃げてしまった。レイナーレは確かに倒したのは一誠だが、とどめを刺したのはリアス・グレモリーだ。いざとなったらどうすればいいのかが彼には分からなかった。顔を地面に叩き付ければいいのか? 背後から絞め落とす? それとも……
そう考えているうちに、距離はあと20mになった。一誠はとどめの刺し方について考えるのをやめた。いざとなったら分かることだろうし、なにより相手はピクリとも動かないのだ。何の抵抗もされないだろう。頭を思いっ切りぶん殴ればそれで終わる話なのだ。そして何より、ミッテルトは彼が戦った今までの誰よりも弱かった。
一誠はもう落ち着いていた。呼吸も整い、まるで散歩でもするかのようないつも通りの速度で歩いていた。悪魔になり、常識を超えた耐久力とスタミナを持ったのだ。おまけに夜でも全く行動に支障がない。
だからこそ、一誠は目を疑うようなものを見てしまった。
奴の指が動いている!
信じられない思いで、彼は立ち止まってミッテルトを見つめた。嘘であることを願いながら。しかし、目の前の死にかけの堕天使は動き続けた。それも、どんどん活発になっていた。指から手、手から腕。それどころじゃない。
まずいという思いが一誠を駆け巡った。冗談じゃない。ここまで追い詰めておいて逆転を許すなんて、まるであのレイナーレと同じじゃないか。俺はあんなやつとは違う。同じであってなるものか。
「畜生!」
一誠はそう叫んだ直後に駈け出した。15m、10mと距離はどんどん縮まってゆく。人間をやめて悪魔になった彼は、走る速さをますます上げていった。
そして、彼はミッテルトを捕まえた。右手で金髪を持って引きずり起こす。どういう風にとどめを刺すかは走っている時にもう決めていた。今度こそ逃げられない、鼻への全力のストレート。
一誠は思いっ切り左手を振りかぶり渾身のストレートを放ち、ミッテルトの全てを終わらせた……
はずだった。
拳を放とうとしたその時、一誠はミッテルトが何かボソボソと喋っているのに気付いた。彼は無視しようとした。しかし、できなかった。微かな声が耳に届いてしまった。
「ごめん……なさい……」
一誠は面食らった。コイツは復讐に来たんじゃないのか?
「ごめん……なさい……ウチの……せいで……」今度ははっきりと聞こえる。
「どういうことだ?」
そう尋ねた一誠は左手を下した。
一誠は人間をやめたが、人間
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今の今まで気絶していたミッテルトは何が何だかわからなかった。急に引っ張られたかと思うと、相手が何か喋っている。
「どういうことだ?」
いきなりぶん殴っておいてそれはないんじゃないの、とミッテルトはしゃべろうとしたが、それは敵わなかった。即座に顎の骨が折れたことによる激痛が襲ってきた。
「いた……い」
それを聞いた相手は、掴んでいた髪の毛を放してミッテルトを抱きかかえた。ミッテルトは人生で3回目の抱っこを経験したが(残り全てはレイナーレだ)、ちっとも嬉しくなかった。地面に横たえるように彼女を置いた後、相手は再び訪ねてきた。「どういうことだ?」
ダメだ。何聞いてんのかぜんぜんわかんない。でも、何か答えないとヤバい。
「もう一度聞こう。どういうことだ?」
前言撤回。コイツは
「なにが……?」
「決まっているだろう。お前が謝ったのはなんだ?」へえ、ウチはそんなことしゃべったの。
この時アーシアのことについて謝ったと嘘をつけば、きっと一誠は許しただろう。アーシアを殺して神器を手に入れようとしてすまなかったと。もう二度とこんなことはしないと。
だがミッテルトは、そんな嘘をつけるほど賢くなかった。
「姉さまに……顔向けできなかったから」
痛みのせいで、いい言葉が思いつけなかった。
「ウチは……姉さまのために……なにもできなかった」
そしてそれが、ミッテルトを救ったのだ。
「ウチがもう少しできてたら……姉さまは……あんなことをしなかった」
「あんなことって?」
「アーシアを……攫ったり。姉さまは、みんなの為に働いてた……ドーナシークとカラワーナは、みんなの為に強くなろうと努力してた……ウチは、みんなの為に……なにもしなかった」
「なあ。お前の名前、何と言うんだ?」
「……ミッテルト」
「そうか。ミッテルト、一つだけ言いたいことがあるんだ」
「……なに?」
「すまなかった」
「……ねえ、お願い」
「なんだ?」
「姉さまを……生き返らせて?」
一誠は黙っていた。どんな返答をすべきなのか分からない表情をしていた。怒り、悲しみ、罪悪感、そしてそれらすべてが合わさった表情だ。
ミッテルトは必死の思いで尋ねた。これがどう考えても、レイナーレを生き返らせる最初で最後のチャンスであることは分かっていた。
「お願い……姉さまを生き返らせて?」
一誠からは何も返事は返ってこない。ミッテルトは辛抱強く待った。
「何か……言って?」
返事が返ってきた―――ミッテルトの後ろから。
「何と言ってほしいのかしら?」
ミッテルトは心臓が止まりそうになるほどの衝撃を覚えた。その芯まで凍りそうな冷たい声をほんの少し前に聞いたことがあった。
その声の主は女性だった。レイナーレと同じく気品のあり、そして強い女性だった。
ただ……
彼女の髪は、紅かった。