2007年の8月18日、世間ではとっくに夏だったが、堕天使レイナーレの部下のドーナシークはうすら寒い思いだった。
ドーナシークにとっては夏も冬も同じだった。いつも相変わらずコートを着用していたし、手袋をはめていた。手袋は指紋を残さないためで、コートは敵の攻撃を緩和したり、いざとなったら中に物を隠すにも非常に都合がいい。ドーナシークは服には実用性しか求めていなかった。
そんなドーナシークにとっては、他の者たちの非実用的な服装が不思議でしょうがなかった。だがレイナーレは上司なのであまりとやかく言わないほうがいいだろうと思ったし、カラワーナはまだ我慢できた。
しかし、つい1月前に仲間になったミッテルトは別だ。
ミッテルトの着ている服は正真正銘のゴスロリだ。偵察、見張り、戦闘。全局面において最低最悪クラスと言っても過言ではないだろう。ドーナシークがそれを注意した時、ミッテルトは返した。「じゃあアンタの望む服って何よ」そしてドーナシークが実用的なデザインの服をラフで書いた絵を見せると、ミッテルトは一瞥してこう言った。
「つまんないの!」
ドーナシークは目の前の少女を張り倒したい気持ちを我慢してその場を去った。そんなこともあってか、ドーナシークはミッテルトのことが嫌いだった。そしてそのミッテルトが、今回のドーナシークの薄ら寒さの最たる原因なのだ。
原因は単純だった。
昨日にミッテルトがいつもの思い付きでアメリカに行こうと突然提案した。よくある話である。
それにレイナーレが悪ノリして同調した。これもまたよくある話である。
あろうことかそれにカラワーナが賛成した。これはめったにない話である。
かくしてあっさりと二人を陥落させたミッテルトはドーナシークに話しかけていた。「ねーねー、ドーナシーク。何とかならないの?」
「無理だな」にべもなくドーナシークは答えた。
「そんなこと言って、大分昔ではいろいろなところに旅行に行ったって……ほら!50年前に姉さまとスペインに行ったって」いちいち手の甲を開けて5をオーバーリアクションで表現している所がドーナシークには癪に障った。
「時代が違う。今は当時よりも遥かに警備が厳しくなっているんだ……主に2001年のテロ事件によってな」イライラした声で続ける。「パスポートにはICチップが義務付けられ、偽造防止技術は遥かに発展した。入国審査ですら今はすんなり通してくれない。おまけに距離が遠すぎるために魔方陣による転送もできない。大手を振ってあんなところに移動できるのは宇宙に浮かぶ人工衛星に見つからない様に超高速で移動出来たり、冥界の技術を利用してインターネットの戸籍やICチップをばれない様に作成できる一部の上級悪魔くらいだ。諦めるんだな」
だが、そんなことでミッテルトが諦めるはずがなかった。わざわざ小指と薬指を立てて機関銃のごとく喋り続ける。「2人も賛成したのよ! アンタ以外全員! アンタはどうせ、準備するのがメンドいだけでしょ。それをギゾーボーシとかアイシーとかもっともらしく言って……」
ドーナシークは目の前の餓鬼を黙らせる方法を暫く考えた。そして、思いついた。どう見ても公平としか思えない内容だ。
「わかった。なら正々堂々決めようじゃないか。1回勝負。じゃんけんだ」
ミッテルトは真顔で言った。「じゃんけんって何スか?」
見ていたレイナーレとカラワーナはずっこけた。
ドーナシークは真顔だった。まあ、1月前まではミッテルトは世間から隔離された地獄すらも生ぬるい環境で生きていたのだ。じゃんけんを知らないのも致し方ないだろう。
そして、それこそがドーナシークの狙いなのだ。
ドーナシークはあらかたルールや出し方を説明し終えた後で、そのルールをもう一度説明したままの順番でミッテルトに確認させた。「えーと、パーはグーに勝ち、グーはチョキに勝ち、チョキはパーに勝つ……」
「そうだ。簡単だろう?完全な運の勝負だから、これより公平な勝負はない。そしてもう一つ、じゃんけんには決まりがあるんだ。必ず手を出す前に、最初はグーと言うんだ」
「分かった」
ドーナシークは間髪を入れなかった。「いいか、一回こっきりだぞ。負けたらそれで終わりなんだ。あとで文句を言うな」
「分かったって言ってるでしょ!」
「いくぞ、最初はグー……」
ドーナシークはじゃんけんに勝った。ミッテルトはグーを出し、ドーナシークはパーを出したのだ。
かくしてミッテルトの野望は終わりを告げ、ドーナシークは意気揚々と部屋に戻り心機一転してトレーニングに戻った。
5分後にカラワーナがドーナシークの部屋に怒った顔をして入りこんでくるまでは。
「ミッテルトは泣いていた。あれは公平な勝負じゃないとな」
「失礼なことを言うな。じゃんけんが何よりも公平な勝負なのはお前だって知っているはずだ」
直後カラワーナは大声で言った。かなり長年付き合っていたドーナシークには、明らかに彼女が怒っているのが分かった。
「確かに、普通はそうだ。だが、ミッテルトは直感で分かったんだ。あいつはお前に操られてグーを出したんだ。どんな手を使ったのかは知らないが、お前はミッテルトの意思を捻じ曲げたんだ」
「証拠はあるのか?」
「いいや」
「じゃあ、意味がないな」
しかし、ドーナシークは内心ひやひやしていた。ミッテルトにグーを出させようとしたのは他ならぬ事実だからだ。それも、ほぼ確実にグーが出るように仕向けたのだ……