薬品の匂いが、嗅覚を刺激する。この場所が、勝手知ったる場所ではないことが分かった。
うっすらと、開けられるようになっていた瞳を開く。見知らぬ白い天井、そっと周りを見渡してみると、白を基調としたレイアウトが目に入る。ここはどうやら、病室のようだ。
今だにどこか朧げな意識のまま、アンジェラはおもむろに左腕を上げる。そこにあったのは人間味を感じる腕ではなく、黒いプロテクターのような義手。握り込むようにイメージしてみると、まるで左腕そのもののように動く。右腕と比べると若干鈍いながらも、触覚もある。
この義手がどうして残っているのか、そもそも何由来ものであるのかは分からない。しかし、アンジェラはこの義手が自分ものであると、何故か言い切ることが出来た。
だるいながらもなんとか身体を起こす。サイドテーブルの上に目を向けると、そこにおもむろに置かれたウエストバッグと幻夢の書、そしてペンダント状態のソルフェジオと
『おはようございます、マスター』
《お姉ちゃん、おはよう!》
アンジェラへの呼称だけを変えてそれ以外はいつも通りを貫くソルフェジオと、満面の笑みを浮かべてアンジェラの頬にすり寄るケテル。アンジェラは右手でケテルを撫でながら、薄く笑みを浮かべた。
「……ああ、おはよう」
「全く、君という奴は毎度毎度……」
「……返す言葉もございません……」
くどくどくどくどと、ベッドの上の住人と化しているアンジェラに説教するシャドウ。ソニックは見舞い品として持ってきたらしいりんごの皮を剥きながら、時に相槌を打ち説教に加わっている。流石に今回は怒られて当然だと頭の片隅でずっと思っていたアンジェラは、大人しく説教を受け止めた。
「まぁ、あの状況じゃある程度の無茶は仕方ないとは思うけどさ……お前、オレ達に隠し事があるんだって?」
「うっ……それに関しては半ば巻き込まれ事故みたいなもので……オレだけが悪いわけじゃないし……」
「それについては分かっている。既にオールマイト当人を尋も……いや、問い詰め済みだ」
「今尋問って言いかけたよな!? 一体何やらかしたんだよ!?」
「あのジャパニーズ土下座は見事だったな〜」
「ちょっとその光景に興味湧いてきた」
目的のためならば手段を選ばないシャドウと、普段は飄々としているが、いや、だからこそ怒気を放った時は一際恐ろしく感じるソニックによる尋問だ。さぞ恐ろしいを通り越してカオスな光景が広がっていたことだろうと、アンジェラは苦笑した。ワン・フォー・オールの事故継承についてはオールマイトが悪いとは決して言えないし、そのことをソニック達に黙っていたのは……いつか話すと確約はしていたとはいえ、今の今まで隠していたことに変わりはないので何とも言えない。
「……まあ、そういう話は……当事者を交えてした方がいいかな。
なぁ、オールマイトさん?」
ギラリ、とエメラルドの鋭い眼光がドアに向けられる。そこに居るのは分かっていると言わんばかりの無言の威圧に観念したのか、ゆっくりとドアが開かれた。
「……何で居るって分かったの……」
「オッサン、あいつら相手に気配を消そうとしても無駄だ。特にオッサンは目立つから……」
「怖い、やっぱり最近の若者怖い!」
戦慄しながらおずおずと病室に入ってきたトゥルーフォームのオールマイトと、そんなオールマイトに呆れ返るナックルズ。何とも異色な組み合わせである。
「えーっと……フーディルハイン少女……まずは、無事……で、何より……?」
「何でそんな疑問形なんですか」
「左腕だろ」
「なるほど」
ナックルズが一言だけ放った単語と、オールマイトの視線がアンジェラの左腕、二の腕の中腹辺りからごっそりと切り落とされ、黒い義手に変わっているそこに向いていることで、アンジェラはオールマイトが言わんとしていることを理解した。なるほど、確かに左腕をごっそりと失くして、それを「無事」の言葉で片付けていいのかは悩ましい。先の状況を鑑みても、それは変わらないだろう。
普通なら。
しかし、アンジェラは左腕が失われただけであることが、まだマシな状態であることを客観的に知っている。長期的に肉体が少しずつ崩れ去ってゆく恐怖を感じるよりは、一気に切り落とされた方がまだマシだと、本気で思っている。実際にどちらの方がいいのかは分からないが、あの時点でアンジェラが自分が辿るはずだった末路について知っていたことを鑑みれば、少なくとも、アンジェラにとってはどちらの方がいいかということは、火を見るより明らかだろう。
「その件含めて、色々話したいことがあるんですけど……その前に、一つ聞いてもいいですか」
「……なんだい?」
「その姿で大丈夫なんですか? 今更かもしれませんが」
アンジェラがオールマイトに問うたのは、オールマイトの姿のこと。トゥルーフォームのことは重大な秘密として隠し通していたはずなのに、今のオールマイトがトゥルーフォームを晒していることを疑問に思ったのだ。
「ああ、そのことか……いいんだよ、フーディルハイン少女。思っていたかたちとは大分違うが、オール・フォー・ワンは死に絶えた。最後の最後で、自分のためだけに拳を握った。余力は残っているが……これ以上は、君に両手両足をもがれてしまうからね。
約束通り、私はヒーローを引退したよ」
アンジェラが意識を失っていた3日の間で、日本の情勢は大きく動いていた。
神野区の事件による被害は大きく、死者90名強、負傷者は1500名以上の数となったそうだ。また、原因不明の精神疾患を患った者も多く、その数は200名にもなるという。廃人状態になってしまった者も中には居るそうだ。
ただ、それだけの被害がありながら、あの事件に関する媒体記録は一つも確認されなかったという。あの状況で回されたであろう記録機器のデータは、写真映像音声と、一つ残らず壊れていて確認はおろか、修復することも不可能だった。ネット上に上げられていたものも例外ではない。警察やGUNはその不可解さに首を傾げていたが、無いものは無いのだから仕方がないと割り切るしかなかった。存在しないものを嘆いた所で、何かが変わるわけでもないのだから。
オール・フォー・ワンの市街地破壊に始まり、トゥーレシアの出現と暴動、そして、ソウル化しての暴走。アンジェラに言わせてみれば、ここまでの条件が揃っていた中で死者が100にも届かぬ数であるならば、この被害は軽微なものであると言わざるを得ない。ソウル化という禁術は、過去に一国はおろか1文明を滅ぼしたこともあるのだから。其れに比べれば、何たる幸運か。
そして、オールマイトは先の戦いを最後に、アンジェラとの約束通り引退を表明した。
当然ながら、世間は混乱した。その前に、ヒーロー公安委員会から猛烈な反対を受けた。平和の象徴が失くなってしまえば、敵をのさばらせることになる、どうか辞めないでくれ、と。
その声でオールマイトが揺れなかったと言えば嘘になる。しかし、まだ余力はあるとはいえ、近いうちにその余力……ワン・フォー・オールの残り火が消え去り、本当に戦えない身体になってしまうことは事実。
そして、オールマイトの脳裏にはそれ以上に、あの時、オール・フォー・ワンを倒したらヒーローを引退することをアンジェラと約束した時のアンジェラの表情、オールマイトただ一人を生贄にし続ける日本という国への憂いと嘲笑が、焼き付いて離れていなかった。
オールマイトの存在が、平和の象徴の存在が、ある一人の少女を深淵よりも深い絶望に突き落とし、その魂を縛り続ける遠因になったことも知ってしまった。
だから、オールマイトは尚も
『これは受け売りですが……人は神には成れない、いつか終わる生き物です。いよいよその時が来たというだけですよ』
六年前であれば絶対に口にしなかった言葉だった。オールマイトを引き留めようと交渉をしていた公安委員が、膝から崩れ落ちる様が、どうにも滑稽に見えた。
……ヒーロー公安委員会の無様な悪あがきも意味を成さず、オールマイトの引退は受理された。
オールマイトは記者会見の場で自らトゥルーフォームを晒し、とうの昔に自らが憔悴しきっていたことを伝えた。これからは雄英高校の教師として、後進の育成に励んでいくことも。
好意的な意見と批判意見の割合は半々、といったところだ。元はと言えばオールマイトが雄英高校に赴任したのが悪かったのでは、という意見もある。オールマイトが引退した今、今度こそ子どもたちが狙われるのではないかという意見には、反論することも出来なかった。
しかし、中には「がっかりだ」、だとか、「失望した」だとかいう意見もあった。オールマイトは当たり障りのない返答をしながらも、内心「これがフーディルハイン少女の言っていた、私自身の幸福を認めないということなのだろうか」と思っていた。自惚れでもなんでもなく、オールマイトはあらゆるものを犠牲にひた走ってきた。そんなオールマイトに対してそんな言葉を吐き捨てられるとは、なるほど、ただの理不尽に他ならない。
そして、一連の後処理の前にアンジェラの見舞いにこの病院を訪れたオールマイトを待ち受けていたのが…………ソニックとシャドウによる、尋問、もとい問い詰めである。
「元々話すつもりであったとはいえ、本当に洗いざらいぜーんぶ吐かされたよ……最近の若者って怖いね…………」
オールマイトはその時のことを思い出しているのか、肩をガタガタと震わせながら言う。その件に関して、アンジェラはオールマイトを庇うことも同情することも出来ない。
「まあ、ワン・フォー・オールってやつの件は事故みたいなもんだってことも分かったから、それに関しては必要以上に問い詰めたりはしないさ」
「それにしては、なんだか敵意が見え隠れしているような……」
ソニックは曖昧に笑うだけ。言葉なき肯定だった。問い詰めないこととそれとは、また別問題である。
「それで? アンジェラ、話したいことって何だ?」
ソニックの言葉に、アンジェラは左腕の義手を右手で撫でて、語り始めた。
林間合宿で遭遇したフォニイが、アンジェラの失われた記憶を戻したこと。
彼女の正体が、
アンジェラは定期的に流れ込んできていたカオスエメラルドの力でそれが抑えられていただけで、あのままであれば、いずれ来たであろう肉体の崩壊は避けられなかったこと。
今のアンジェラは
アンジェラがエネルギー生命体となったことで10の歳を迎えられないという縛りこそなくなったが、その対価としてワン・フォー・オールが消失したこと。
「……あと……そうだ、母についてだ。
……だけど、これは……一番、伝えなきゃいけない奴が居る……」
「伝えなきゃいけない奴……? 誰のことだ?」
ぽつり、ぽつりと語り続けていたアンジェラが告げた、アンジェラ知り得る中で一番母のことを伝えなくてはいけない者、母のことを知らなければならない者。ソニック達は当然ながら予想がつかないので首を傾げた。
アンジェラは口にする。彼女を、彼女たちをこの世に産み落とした人物のことを、真っ先に伝えなくてはいけないと、彼女自身が判断した人物の名前を。
「……オールマイト。爆豪を、呼んでくれませんか」
アンジェラさんはファプタなんです。立ち位置的に。
リコとファプタを足して二で割ると多分こうなる。