ただただ無我夢中に、駆け出しただけだった。
その先に見えた希望が、自分に向けられはしないと分かっていても、
私は、手を伸ばし続ける。
カコン、カコン。
時計の振り子が振れるような音と、心臓の鼓動のような音が奇妙なコントラストを作り出す部屋。切れかけの蛍光灯と、ベッドの背後にある、緑色の液体のようなもので満たされ鼓動を繰り返す肉の塊が、この部屋の光源になっていた。
「……私のことを、そう呼ぶんだ」
「生物学的な話で言えば、矛盾してるわけじゃないだろ?
それに、真実かと」
「あっはっは、どっちが話してるんだか……いや、両方か。どちらも聞きたいことが一致しているからこそのそれか。いやはや随分と、欲張りなことで」
金髪の少女はその赤目を鈍く輝かせて笑う。一体何がそんなにおかしいのか、
「色々と聞きたいことはあるが、まー、まずは仕事上、これから先に聞かせてもらうよ。壊理はどこに居る?」
「ああ、一応ヒーローとして来たんだっけ。そっちを優先するのは当然だよなぁ。
……本当は、もう、気付いているんでしょ? 今までは、確信に至れなかっただけだ」
「まぁな。でも、オレ個人としても、あいつと直接会って話をしたいんだよ」
トパーズとサファイアのオッドアイが、病床に腰掛ける少女のルビーの瞳をじっと映して揺らめく。少女の眼に嘘は欠片も含まれていない。そもそも少女は、彼女らに隠し事をするつもりはない。
「長い話になる。その前に、最初の質問に答えようか。
……壊理、おいで」
ベッドの後ろからひょこり、と顔を見せた壊理は、何か箱のようなものを抱えながらてってこと少女の元に駆け寄る。少女は壊理から箱のようなものを受け取ると、彼女の頭を撫でた。
壊理からは、少女に対する怯えを感じないどころか、壊理は少女にとても懐いているようにすら思う。先に出逢った時に巻いていた包帯は、今は左腕の一部分にしか巻いていない。
前は裸足に柄すら無い一枚のワンピースに身を包んでいた壊理だったが、今は少女の見立てだろうか、頭巾が下ろされた、童話の赤ずきんのような格好をしている。
「ワプト……ちゃんと1から……説明してくださいよ、
「それは確約するさ。ただ、さっきも言ったけど長い話だ。話だけじゃあ退屈だろう?
……ナーディ、チェスは出来る?」
「その名前で呼ばないのなら、付き合っても良いぜ」
「失礼、アンジェラ」
少女……ワプトが指を鳴らすと、ワプトが腰掛けるベッドとアンジェラとの間にチェス盤と駒を乗せたガーデンテーブルが、アンジェラの背後には、ガーデンチェアが現れる。
一度瞳を伏せ、再び開く。トパーズの両目を光らせながら、アンジェラはワプトに促されるままに、ガーデンチェアに腰掛け足を組んだ。
血塗れの地下通路を駆け抜けるナイトアイ達だが、途中からある違和感に襲われていた。
「……なぁ、ここ、さっきも通った場所な気ぃすんねんけど……俺の気の所為か?」
「いや……さっきから同じ場所を何度も何度もグルグルとしているような……」
曲がり角を走り抜ける。
肉の塊が四方に転がった場所に辿り着く。
もう一度、曲がり角を走り抜ける。
また、同じ場所に辿り着く。
ナイトアイ達は、この時確信に至った。
自分たちが、同じ場所をただひたすらにグルグルと走っていると。
「本部長の入中か?
……いや、違う、逸脱してる! 八斎會にこんな“個性”の持ち主が居るとは、情報にないぞ!?」
「先行したフーディルハインと合流出来ないのも気がかりだ……一体、何が起きて……」
焦りは人の視野を狭くする。それは、人間の原始的な感情だ。意図して抑えられるものでもない。そして、人の血肉があちこちに転がっているというこの極限の状況は、プロヒーローの精神でさえガリガリと蝕んでいく。
だからこそ、彼らは気付くのに遅れたのだ。
「……ちょっと待ちぃ、烈怒が居ないやんけ!?」
「リューキュウ! いつの間にかウラビティとフロッピーが居なくなっちゃった!」
「イレイザーヘッドまで……!?」
特に前触れがあったわけではない。
景色に違和感はおろか、僅かな変化もなかった。
そして、地下通路の異常過ぎる状況にガリガリと削られていった精神が、彼らの反応を遅らせた。
ナイトアイ達の視界の中から、一年のインターン生とその担任教師の姿が、いつの間にやら消えていた。
彼らがそれに気が付いたのは、ナイトアイ達が彼らが姿を消したと気付く少し前のことだった。
「……あれっ、ファット、先輩!?」
「えっ、リューキュウが……ねじれちゃんも!」
「ケロッ……何が、どうなって……」
麗日達は酷く狼狽える。ヒーローらしからぬというような言葉は、彼らの置かれた状況を見てないから言えるものだ。
プロヒーローでも精神をガリガリと削られる血肉に彩られた地下通路、そこで何の心構えもなしに、突然インターン先のヒーロー達と分断された。子供達が恐怖を抱くには、それだけの条件があれば十分だろう。彼らが気心の知れるクラスメイト達と、頼れる担任教師と一緒だということが、辛うじて救いだろうか。
「……一体、何が……
いや、今はそれよりも……」
相澤先生は思案を巡らせる。このまま進むべきか、それとも戻るべきか。どちらにせよ、分断された方法すら分からない中で、これ以上の分断は避けるべきだ。
「……お前ら、取り敢えず、これ以上分断されないようになるべく塊になって動け。そして、進むか戻るかだが……お前達は、どうしたい?」
イレイザーヘッドとしては、このまま進むべきだと思考する。彼らの目的は壊理の保護。壊理がこの先に居る可能性が非常に高い以上、進まないという選択肢は無いに等しい。
だが、相澤先生は、それで麗日達の精神は持つのか、という不安に駆られていた。相澤先生でさえ、この場所に居ることが精神的にキツいと感じているのだ。子供達が感じている精神負荷は計り知れない。
だからこそ、相澤先生は彼らに問うた。ここで子供達が「戻りたい」と弱音を吐いても、相澤先生は責めるつもりはなかった。教師として、彼らを真に思うなら、選択肢は一つだった。ヒーローとしても、選択肢は一つだった。
その2つが決定的に矛盾しているからこその、問いかけだった。
「……確かに、怖いです。でも、ここで立ち止まったら、ヒーロー、じゃない……」
そう言う麗日の身体は、震えていた。有り余る恐怖を、精神を抉られるような感覚を必死に抑えた彼女の本音だった。
「そうだぜ、先生! 俺達は自分の意志でここに来たんだ。今ここで引き返したりしたら、漢らしくねぇ!」
「ケロッ、私達、覚悟は出来てるわ。進みましょう、先生」
切島と蛙吹も、震えながらも覚悟を示す。先に進み、壊理を救い出そうという、まさしくヒーローらしい覚悟だ。
相澤先生は、生徒たちがいつの間にやら精神的に成長していることに、場違いだということは分かっていながらも、感慨深さを感じていた。
「それに、アンジェラちゃんが先に行ってるんです。私達も頑張らなきゃ!」
「………………そうだな」
相澤先生はなんとか、脳裏に浮かんだ考えを顔に出さないように当たり障りのないことを言う。
彼の教師としての勘は言っていた。
アンジェラは、血塗れの地下通路に困惑こそすれ、彼らのように恐怖を感じることは、精神を抉られることはなかったと。彼女の有無を言わせぬ物言いは、人の死体に対する恐怖心が無いからこそのものでもあると。
今この場で、彼女の真実を知るのは相澤先生のみ。
相澤先生は、アンジェラ・フーディルハインという少女が本当に人間ではないのだと、この時初めて思った。
モノクロの盤上に、駒を弾く音。黒い駒を一つ一つ、アンジェラはその黒い義手で踊らせる。
「……中々に強いね」
「教授によく付き合わされてただけだ。場数が多いだけだよ」
「それはそれは。わざわざ利き手ですらないそっちで駒を動かすのは、私に対するあてつけか何かかな?」
「どうだかな」
白のキングが追い詰められる。点滴まみれの手で手駒を掴んだワプトは、手駒を操り黒の駒を倒す。
「私は所詮、キングにもなれなかったコレでしかない。星にとっても奴らにとっても……母にとってもね」
病的なまでに白い手が掴んでいたのは、白のクイーン。キングが居る盤上の世界において、所詮クイーンは使い捨ての駒、キングのなり損ないでしかない。
「キング……ねぇ。そういえば、壊理と初めて会ったとき、オレのことを「王様」だとか言ってたけど」
「だって、王様は王様だもん」
今の今まで口を挟まなかった壊理が口を開いた。ワプトの肩の後ろから二人の盤上遊戯を眺めるもう一対のルビーの瞳は、まるで確信を持ったかのように煌めく。
今の壊理からは纏わりついたような魔力を感じる。恐らくは、ワプトからこびりついたものだろう。アンジェラは黒のビショップを動かしながら、壊理に目をやった。
「前に会ったときは、魔力の欠片も感じなかったが……払いでもしてたか?」
「ああ、あの時ならギリギリ払えたんだけどねぇ……今はもう、隠すことすら出来やしない」
「難儀なもんだな、その身体」
「ああ、本当に。壊理と治崎の“個性”のおかげでしぶとく生き延びてるけど……ま、長くはないだろうね」
呆れたような声。自分の本来の限界を知っているからこその声だった。
白のルークが倒される。残された白の駒は、いくつかのポーンとナイト、クイーン、そしてキング。
「壊理は生まれながらにして特別だった。それは“個性”じゃなくて、魂の話だ。確かに“個性”も特別といえば特別だけどね」
「……“個性”を壊す弾を、八斎會がばら撒いてるって噂があるんだが。それは、人間の血や細胞を原材料にしてるって話だ。
まぁ……酷い博打を打ったもんだな、お前ら」
倒された黒のクイーンを横目に、アンジェラはガーデンチェアに頬杖をつく。お返しとばかりに黒の駒を動かし、白のポーンを弾いた。
「返す言葉も見つからないね。実際、間に合ったかどうかは微妙なところだし。
血肉まみれの屋敷を見ただろう? 現れたんだよ、常世の夜が」
「ふーん…………それにしては、その姿を見なかったが」
「なんとかかんとか閉じ込めたからね。まあ、その過程で沢山犠牲が出ちゃったんだけど……
しかも、溢れ出した魔力が地下通路に作用して微弱な結界になってるときたもんだ……ほんと、ままならないなぁ」
白い手が壊理の頭を撫でる。ワプトは一つため息をつくと、白のキングを動かした。
「……結界? そんなの、感じなかったけど……」
「ああ、君じゃあ逆に感じ取れないと思うよ。魔力にほんの少しでも耐性があれば、簡単にスルー出来るほど微弱なものだから。ソルフェジオの感知にも、多分引っかかってないんじゃないかな。
ま、この星の人間には、中々スルー出来るような奴は居ないけどね。強いて可能性を上げるなら……ちょっとでも魔力に慣れてる人間、くらいかな?」
「……操作不能の微弱な結界……か。確かに、“個性”持ちの人間には中々居ないだろうな、突破できる奴」
コトン、と駒を置く音が響く。白のナイトが倒したのは、黒のビショップ。
「もちろん、結界を解除すること自体は簡単さ。でも、私はそうしなかった。したくなかった。その理由、もう君なら分かってるんじゃないかな、アンジェラ?」
「……これで、ただオレとチェス打ちたかっただけとか言ったら、この場でぶっ飛ばしてた。
ただ……ああ、なるほどな」
アンジェラは納得したように、黒のポーンを踊らせる。ワプトのルビーの瞳が挑発的な光を宿し、アンジェラのトパーズの瞳を射抜いた。
「大方、結界を解除してしまえば道連れでヤツも解放されちまう、ってとこか」
「せいかーい、お姉ちゃん花丸あげちゃう」
「いらねぇ」
黒のルークで白のポーンを飛ばす。ため息をつきたいのはこちらの方だというのに、アンジェラにはそれすら出来なかった。
理解してしまった。ワプトのルビーの瞳に宿るのは、命すら厭わぬ覚悟。記憶通りならば、戦うことには決して長けてはいない彼女が、その命と引き換えにしてでも殺そうとしている。自分の大切なものを土足で踏み荒らした奴を、例え相打ちになったとしても、その手で始末しようとしている。
ああ、本当に。
憎たらしいことだが。
似ていると、言わざるを得なかった。