誰の身体も震えなかった。
震わせることすら出来なかった。
彼女が抱え続けていたという事実から目を背けたくなった。
…………はて、彼女は恐らく、気付いてすらいないのだろう。
痺れた感覚では気付きようもなかったのだろう。
その心が、とっくの昔に狂ったように絶叫していたことすらも。
物心がついた時から、自分はどこか他人と違うと思っていた。
他人よりも、存在がはっきりとしていないような、吹けば消えてしまうような。
そんな感覚を、常に心の奥底に潜ませていたのだと思う。
雲を掴むような話だと、自覚はしていた。
誰も証人になどなれない話だ。
自分でも、言葉にしようのない感覚だった。
自問自答を繰り返し、結局答えなど出せないままだった。
答えが出ないまま、しかしふとした時に湧き上がるそれは、確かに自分の自我を包み込もうとしてくる。
自分と他者がどこか違うと、本格的に認識するようになったのは。
奇しくも、「それ」を自分だけが認識出来た瞬間であり、
自分の中の何かが、決定的に狂ってしまった瞬間だった。
──2 years ago──
ソレアナ公国。
ヨーロッパの何処かに存在する小国に、その時足を運んでいたのは偶然だった。
その国で「太陽の祭典」という大々的なお祭りが行われていたことも、ちょうどその時にエッグマンがソレアナ公国の公女、エリスの持つカオスエメラルドと「炎の災厄」の秘密とやらを狙っていたことも、その場に居合わせたことも、全てが偶然だった。
エッグマンに攫われたエリスの救出に始まり、時間軸をも越えさせられ、わけの分からぬまま大きな流れに呑まれていった。
まるで大きな渦に落ちていくかのような感覚だけが残った。
エッグマンが作った装置で、カオスコントロールで、時間軸を移動する度に、心の奥底に何かが巣食っていった。
明確な答えが出せないまま、ただただ呑み込まれないように足掻いていた。
裏で何が起こっていたかなど、今更知る由もない。
何故かソニックを「イブリース・トリガー」と呼び殺そうとする銀色のハリネズミに、エリスの抱えていた秘密、ソレアナ公国に祀られている太陽神「ソラリス」。不明瞭なことなら山程見つかって。
その答えを探すことは、今となっては不可能になってしまった。
シルバーと共に、堕ちていくエッグマンの空中戦艦からエリスを救け出して、エッグマンの追撃から逃げ切れた時。それが終わりだと、思っていた。
そのはずだったのに。
世界が、突然光に包まれた。
……カオスコントロールで時間を遡り、一つ何かを是正する度、世界には歪みが生じるのだろう。それは、決して目には見えない歪みだが、確かに世界に波及し、染み付いていく。
一つ良くした、と思っても、それ以上の対価を支払うことになる。
世界はきっと、そういう風に創られている。
光が晴れて、過去・現在・未来の時間軸がめちゃくちゃに混ざり合って。全て、メフィレスの思い通りに事が運んだとエッグマンは語る。かつて分離した片割れ……イブリースと融合し、ソラリスとして再誕し、時間の意味そのものを消滅させるつもりなのだと。
……そんなこと、どうでもよかった。
世界がどうにかなったことなど、どうでもよかった。
鼻についたこの嫌に甘い香りを、自分はよく知っている。
触れると妙に生暖く、
自分がそう望むのなら、自分の望みのためならば、流すことを厭わないものと同じはずのそれは。
今までに感じたどの血飛沫よりも、冷たく感じた。
ああ、これが絶望か、と泣き喚いた。
肺腑に空気が上手く入らず、息が詰まった。
怪我などしていないはずなのに、身体の至る所が酷く痛んだ。
心の中に、どうしようもないほどのどす黒い何かが生まれた。
それが自分の自我を満たし、染み込み、飲み込んでいく。
抵抗する気になどさらさらなれなかった。
その時、その瞬間から。
自分の奥底に張り付いて、離れないそれは、いつか自分を覆い隠してしまうのだろうという予感があった。
それなのに。
それを捨てようとは、どうしても思えない。
思えるものか。
その時、彼の亡骸を前にして。
残されたものを数える前に。
全てを失った、とすら思ったのだ。
……カオスエメラルドの奇跡なら、とエリスとシルバーが声を上げて、躊躇うことなく頷いた。時空間が歪んだこの空間とカオスエメラルドの力が揃えば、まだ間に合うと。
歪んだ世界を手分けして駆けずり回り、カオスエメラルドを集め、その奇跡に賭けて、超次元生命体に成ったソラリスを討って。そして、まだ灯火だった頃のソラリスをエリスが吹き消して、それで全てが無かったことになる。
……そのはず、だったのに。
今でも「無かったことになったはずの歴史」の記憶は、自分の記憶から消えないまま。
あの時から胸に巣食った、どうしようもないほどの憎悪と共に、今でもこの心を蝕んでいる。
忘れたくても、忘れようと思っても、頭から離れることはない。
……忘れられようものか。
忘れてたまるものか。
あの深淵よりも深い絶望を、
枯れ果てることのない慟哭を、
実体のない張り裂けるような激痛を。
例え数瞬たりのことだったとしても。
「無かったこと」になったとしても。
今抱くには、お門違いだったとしても。
…………ああ、
憎々しい。
忌々しい。
煩わしい。
ぐちゃぐちゃに、粉々に、思いつく限りの苦悶を思いつく限りの方法でぶつけても、きっとこの渇きは収まらない。
肥大化した黒い塊は、どうやっても取り除けない。
晴らすことも飲み込むことも出来ずに、いつかこの身を押し潰す。
その前に。
刻み付けられたそれを、覆い隠した。
観えないように、観られないように。
明日は
「くだらない」、と。
ガキィン……ッ!
金属同士がぶつかり合うような大きな音が、脳みそに流れ込んできた「それ」に呆気にとられていた麗日達の意識を現実に呼び起こした。
驚いて一様にそちらを見ると、そこに見えたのは、黒鉄の義手と白銀のスナイパーライフルのようなものがぶつかり、火花を上げている光景だった。
「…………アン、ジェラ……ちゃん……?」
鍔迫り合いを起こす空色の彼女の身体は、ノイズが入ったかのように半透明になっていた。
空色の髪を揺らし、舞い散る火花をものともせず、アンジェラはアテネが何処からか取り出したスナイパーライフルを弾き飛ばそうと義手に力を込める。やがて義手とスナイパーライフルが一際大きな火花を散らしてお互いを弾くと、アンジェラは後ろに向かってジャンプして衝撃をやり過ごした。その胸元には、普段肌見放さず身に付けている相棒の姿も、夏頃からそこに加わった不思議な形の楽器の姿も無い。
かた、とアンジェラが地に足を付ける音を最後に、石室の中から音が消え去る。その静寂を破ったのは、白銀のスナイパーライフルを肩にかけたアテネだった。
「……なるほどね。やっぱりキミは「こっち側」だったか。星も、どうしてこの子を選んだのか……」
「……それを、慈悲とでも呼ぶつもりか?」
「まさか」
ぎらり、と鋭いトパーズの眼光が煌めく。
場違いな話だが、絶望と呼ぶにはあまりにも眩く、希望と呼ぶにはあまりにも悍ましいそれを、麗日は下手な宝石よりもよっぽど美しいと思った。
「キミも、酷く残酷な星の下に生まれたもんだ」
その声は、アンジェラに向けられているようで、違う誰かに向けられているような気がした。
「……どうでもいいんだよ。
オレの正体が知られようが、オレがやろうとしてることを知られようが、オレ自身は気にもしない。周囲がそれでわーぎゃー騒ごうが、オレには関係のない話だ。
だけどさァ…………それは、それだけは、駄目なんだよ」
その声は、震えていた。
恐怖でもなく、絶望でもなく。
その声に宿っていたのは、どす黒い、憎悪。
「それは、もう無くなったはずのもんだ。
誰にも知られちゃいけないもんだ。
オレが誰にも気付かれないように抱えて、墓場まで持って行って、一緒に土に還さなきゃいけなかったんだ。
……だって、それは「無かった」んだから。
もうオレの頭の中にある夢物語と区別がつかなくなったものなんだから。
無いことが、正しいんだから」
アンジェラは笑みを浮かべていた。
しかし、その眼は、一切笑っていない。
燦然と、黒く暗く輝くトパーズは、この世界の何処も映してはいなかった。
「……はは、それすら、もう意味を無くしたけど」
冷たい声だった。
峰田のセクハラに制裁を加える時とは比較にならない。その声が周囲の熱を吸い取っているのではないかとすら思う。
その声が、どす黒い光を放つトパーズが垣間見せる色の一部に、ほんの少しだけ既視感を感じたのは、轟だけだった。
「フーディルハイン……体育祭の時に言ってた、「炎が嫌い」って、まさか……」
「……ああ、そうさ! 今や自分の中にある錯覚と区別がつかなくなった、だけどこの心に深く深く染み付いて離れないそれさ!
自分の使うそれも、轟や他の奴が使うそれも、「アレとは違う」と自分に言い聞かせてきた。
そうじゃなきゃ、とても耐えられなかった。心の奥底から何かが溢れ出しそうで、自分で自分が恐ろしくなった!」
瞬きの間にトパーズが赤黒く染まり、黒鉄の義手から光が溢れ出す。それに反応してか、石室全体がゴゴ……と大きな音を立てて揺れ動く。小さな石礫が天井から落ちてくると同時に、床から小さな赤黒い光のようなものが次々と湧き上がってきた。
「どうすればよかったとか、そんな次元はとっくに超えてる。意味のわからないものに雁字搦めにされて、操られているかのようで気味が悪い!」
アンジェラが冷たい叫びを上げると同時に、石室が正方形の広い足場が宙に浮かぶ空間に変化した。かつてスターフォール諸島の古代人が試練のために用意した空間と同じものであるはずのそれは、アンジェラの煮え滾り昂って、終いには抑えが効かなくなった感情に揺さぶられてか、足場の外で炎の渦が舞い踊る。
「ふふっ、あははっ、あははははっ!!!」
狂ったように笑う彼女の半透明な身体から、黒い靄のようなものが溢れている。その正体を知る者は、この中ではアテネだけだった。
「島に眠らせていた怨念が魂に……この状況は、ボクの責任か。
しかし、キミも凄いんだかバカなんだか……あそこまでの憎悪、普通の人間だったら抱えているだけで狂って自我を食い潰されるだろうに」
驚きを通り越した呆れが込められた声だった。アテネがスナイパーライフルを手に構える横で、麗日達は改めてアンジェラを見据えた。アンジェラが蒔き散らす黒い靄は突風のように荒れ狂い、麗日達を襲う。
「……これじゃ、まるで……」
本能に揺さぶられている時のようだ、という言葉を麗日は必死に飲み込んで、自分自身の感情に呑み込まれてしまった親友の姿に目をやる。
確かな狂気を孕んだその瞳は一体何処を見据えているのだろうか。自分たちの声が彼女の魂に届くかも分からない。理性などとうに失ってしまっているだろう。彼女が抱え続けていた苦しみを理解できようはずもない。
それでも、自分を見失うほどの憎悪の中に、助けを求める色が見えて。
赤黒い瞳から、一筋の涙が零れ出た。
「助けなきゃ……アンジェラちゃんを……助けなきゃ……!」
それは、ヒーローとしてやらねばと口からまろび出た言葉なのだろうか。
それとも、只々友を助けようと思う感情が呼び起こした言葉なのだろうか。
どちらにせよ。
今のアンジェラを放っておくなどという選択肢は、麗日達の中に存在しなかった。
「おい包帯女、フーディルハインのあの状態に、何か心当たりでもあるのか」
「完璧に確証があるわけじゃないけど、今のあの子は肉体と魂が分離して、魂に纏わりついてる
「つまり、荒御魂を鎮めれば、フーディルハインを助け出せるのか」
「黒靄を引き剥がすって、どうやって!?」
「そりゃ、
アテネはそう言いながら拳を握る。その仕草が示すモノを分からぬほど、麗日達は鈍感ではなかった。
「若人達、一つイイコト教えてあげる。
操られたりした仲間は、殴れば大概なんとかなるんだよ」
「いや、そもそも魂だけの存在って物理攻撃効くもんなんですか!? さっきもだけど!」
「普通は効かないけど、ここは特殊な空間だから。説明は省くけど。
キミたちは細かいことなんか気にしないで、ただやりたいようにやればいいさ。きっとそれは、ボクからじゃ意味がないことだから。
詰めが甘かったボクの責任でもあるから、手伝いはするけどね」
迷いが無いわけではない。
戸惑いが無いわけでもない。
今の状況を把握しきれたわけでもない。
……不安が無い、わけでもない。
彼女の強さは知っている。
それでも、眼の前で友達が助けを求めている。
その事実さえあれば、彼らには十分だった。
「……アンジェラ君を助けよう。
行くぞ、皆!」
『おう!!』
委員長の号令に皆が構えを取る。
空色の幼子の荒御魂は、その瞳を赤黒く濁らせ、周囲の熱を吸い上げるかのように冷たい笑みを浮かべていた。
Absolute zero(アブソリュート ゼロ)──絶対温度の下限。理想気体のエントロピーとエンタルピーが最低値になった状態。物質の熱振動が小さくなり、エネルギーが最低になった状態。絶対零度。―