朝比奈まふゆ(あさひな・まふゆ)――――――高校生。
朝比奈俊希(あさひな・としき)――――――大学生。
朝比奈夏海(あさひな・なつみ)――――――社会人。
零崎人識(ぜろざき・ひとしき)――――――殺人鬼。
■ ■
私は朝比奈まふゆ。兄の手によって母親を失い、母親という鎖と枷から解き放たれた欠陥品である。
欠陥品と言いつつも、しかし私はいつも兄である朝比奈俊希から「お前は欠陥品じゃねぇよ。」と言われ続けている。
人が本来ならば持つべき五感の一つが薄れており、人の事も心も何も分からないという、根っからの欠陥品である筈なのに、しかし兄はそれを否定する。
曰く、人間としての欠陥品の称号は兄の親友である「いーたん」さんにこそ当てはまるものであり、私は当てはまらないのだと言う。
一時的な人間性の“欠損”。後天的な人間味の欠落。味覚無き私には、人間の味など全く分からないけれど。
しかし、その欠損も欠落も補強が出来る程度のものでしかないらしい。
私が悩みに悩み、悩み抜いた果てに諦めてすらいた筈の欠陥が、兄からしてみれば修復不可の絶対的な欠陥などではなく、修復も補強も可能な欠損―――所謂、道端で転んで出来た怪我程度のものなのだと言う。
私は、兄からの言葉に、少しばかりの憤りを覚えていた。正確には―――“怒る事が出来るようになっていた”。
「よぉ。おはようさん、宮益坂女子学園在校中の高校生こと朝比奈まふゆちゃん。」
「おはよう、国立曲直瀬大学に在校中の大学生こと多々良木暦くん。」
「全然合ってねぇよ! 合ってるの大学生のところだけじゃねぇか! 誰が地獄の春休みを過ごした果てに吸血鬼の女王様を奴隷にした児童虐待の専門家の高校生だよ! あと、アイツの名前は阿良々木暦だし、俺は朝比奈俊希だ!」
「失礼、噛みました。」
「違ぇ、わざとだ。」
「かみまみた」
「わざとじゃない!?」
「髪剥いだ?」
「剥いでねぇよ! つか怖え!」
その腹いせに、別作品のやり取りを投げてみたり。なんてね。
私は兄さんの家に有る家具の一つであるソファに遠慮なく腰を降ろし、背もたれに背を乗せて天井を見上げた。
何ら可怪しい所もない、ただただ白いだけの天井だ。
「兄さんは、今日は大学行かないの?」
「いいや? ただ、今日の講義は三限からだからな。遅くて良いんだよ。まふゆちゃんは?」
「私は……」
“いつも通り、学校に行くよ”。そう言おうとした。
だが、喉から出ようとしていた言葉が喉の真ん中に来た辺りで詰まった。
いつも通り。母さんが居た、今や亡き母親が居た、いつもの時間。
私は、あの学校に行きたくて行っていただろうか。
私は、私自身の意思で、あの学校に、あの宮益坂女子学園に入学しただろうか。
考え始めれば、頭の中には母親からの“呪い”が浮かぶばかり。
こっちの方が良いんじゃない、とか。こっちの方が似合うよ、とか。
私を肯定してくれる事なんか無くて。
いつも、やんわりと私の意見は拒絶され、夢は流され、意思は溶かされ、最後には無かった事にされていた。
でも、今はそうじゃない。
もう、母さんは居ない。私を鎖と枷で縛り付けていた母親は、この世界には居ない。
けれど、兄さんは―――私の言う事を、肯定してくれるだろうか。
「……行かない。」
「学校には…行きたくない。」
意を決して、私は兄さんにそう言った。
兄さんは―――
「おう、そっか。じゃあ学校に連絡しといてやるよ。」特に何か言うでもなく、スマートフォンを取り出し、すぐに電話をし始めた。
私は、兄さんの対応に唖然とするばかりだった。
「あー、どうも。朝比奈まふゆの兄なんですが。妹の体調が38℃と優れないんで、今日は休ませます。じゃ、そういう事で。」
兄さんは大雑把に嘘の事情を説明し、すぐに電話を切った。
やっぱり、兄さんが敬語を上手く使う事なんて出来なかった…。
というか、そんな大雑把な説明で大丈夫だろうか? 私の方に連絡が来そうな気がするけど…
「よし、これで良いな。」
「いや、良くないけど。兄さん、伝えるのが大雑把過ぎる。」
「いいだろ、別に。俺は別に保護者じゃねぇし、面目が潰れる訳でもないからな。」
「潰れてるよ。兄さんの面目の代わりに私に被害が行き届いているよ。」
「それで良いんだよ。まふゆちゃんの今の面目が潰れる事が良いんだよ。」
「…どういう事?」
よく分からない兄さんの言葉に、私は疑問を投げる。
今の面目が潰れる事が良い…? それは、何だ。つまり、兄さんは私の面目が潰れてしまう事を望んでいるのか?
優等生な“私”、優しい“私”、宮益坂女子学園における私の面目は、潰れて良いものだと。
「まふゆちゃんはもう自由なんだから、好き勝手すれば良いって事だよ。面目なんざ気にしてちゃ、自由に出来ねぇだろ。」
兄さんは、どこからともなく取り出したバタフライナイフを巧みに操りながら言った。
母親を亡くし、せっかく自由を手に入れたのだから、学校での面目などを気にせずに自由に動けば良い。
でも、きっと兄さんは私がすぐに決断する事が出来ないを分かっていたのだろう。
だから、「面目は潰れて良い」と言ってくれた。
「…ったく。なんで俺が一々こんな事を言わなきゃならねぇんだ。こればっかりは、戯言だと言わざるをえないぜ。」
「傑作じゃないんだね。」
「傑作で片付けられる事じゃあないんだぜ、まふゆちゃん。この天下の零崎人識サマが、前世でも家族ならぬ家賊に手を焼く事がなかったのに今じゃ実の妹に手を焼いてんだからな。」
「…厨二病、抜けてないの?」
「かはは、やっぱり信じらんねぇか。でも、それは逃げってやつだぜ、まふゆちゃん。」
―――俺がお袋を殺したところ、ちゃんと見たろ?
バタフライナイフの刃先を私に向けながら、兄さんはシニカルな笑みを浮かべて私を見詰める。
まるで、この世の混沌を全てない交ぜにしてぶち込み煮つめたような奇妙に底の無い闇が存在する瞳が、私を貫いている。
殺人鬼。人を殺す鬼と書いて、殺人鬼。
兄さんが、お母さんを殺したところを、確かに私はこの目で見た。
この暗い瞳で、自分の母親が実兄に殺されてしまうところを見届けた。
私は―――当然、笑わなかった。
□ □
朝比奈俊希はその時、自室から出てリビングの台所に居た。
当時、まだ大学に進学する前―――詰まるところの、高校三年生の三学期を終えて間もなく、大学進学を目前にしていた時。
早めに学校が終わり、早めに自宅に帰宅した俊希は、お茶を飲む為に台所に有る冷蔵庫から甘い紅茶が入ったペットボトルを取り出し、喉に流し込んでいた。
「…やっぱ、なんか足りねぇな。」
俊希は、物心付いた時から何かが欠けていた。
心に何かが足りていない様な、胸に穴が空いているような、そんな気持ちを幼い時から抱いていた。
衝動的で能動的な何か。これが無ければ、朝比奈俊希が朝比奈俊希であるとは断言出来ないと思える程に欲して止まない大切な何か。
朝比奈俊希には、そんな何かが欠けていた。それ故に、朝比奈俊希は現実に憂いていた。
「あら、俊希。帰ってたの?」
後ろから声が聞こえ、振り向く。
其処には、俊希と俊希の妹である朝比奈まふゆの母親―――朝比奈夏美が居た。
「お袋は…今帰ってきたのか。」
「えぇ。まふゆはまだ帰って来てないの?」
「まだだよ。まぁ、あと少しで帰って来るんじゃねぇの?」
ぶっきらぼうな物言いで、俊希は台所に紅茶のペットボトルを置いて、腰を降ろして中身を開く。
「まふゆちゃんも、高校二年になるのか。時間が過ぎるのは早いな。」
「そういう俊希も、もう大学生になるじゃない。もう一人暮らしの準備はしてるの?」
「おう。自室の荷物は殆ど持って行ったよ。後は片付けるだけだ。」
椅子に座り、母親と対面する。
母親は、目を見開いている。俊希は、「何で目を見開いてんだ?」と首を傾げる。
視界に、深紅が飛び出してきた。
それが、自分の母親の血である事。そして、鮮血を吹き出させたのが自分自身である事を理解するのは、難しくなかった。